大変雅な映像からスタートいたしました11月の「京の和菓子探訪」。今月は亥子餅(別名:玄猪)をとりあげます。
亥子餅は、旧暦10月の亥の日にお餅を食べると無病息災になるという習俗から生まれました。532年~549年に中国・北魏の賈思勰(かしきょう)という人が記したとされる農業書『斉民要術(せいみんようじゅつ)』に、「十月亥日、食餅令人無病」の表記があることから、もとは中国の風習であったものが日本に伝わったものと言われています。平安時代初期の頃から、宮中で食されるようになったようで、『源氏物語』の第九帖「葵」にも、「その夜さり、ゐのこのもちひまゐらせたり」と登場します。
この頃の亥子餅は、ダイズ、アズキ、ササゲ、ゴマ、クリ、カキ、糖で7種に色をつけた猪子形のものだったようですが、鎌倉時代には5種に、室町時代には胡麻(黒)と小豆(赤)と栗(白)の3種になったようです。
室町幕府 鎌倉府の故実書『殿中以下年中行事』には、松の木で輪鼓(りゅうご)の形に作った臼に、柳の木で作った2本の杵を右手に持って、胡麻、小豆、栗の粉をかけ、男性は「イノチツグツカサ(命つぐ官)」と、女性は「イノチツグサイワイ(命つぐ幸い)」と唱える中、3色の餅を搗いた様子が伝えられ、また江戸時代初期に記された『後水尾院當時年中行事』によると、このように宮中で搗かれた3色の餅は、位の高さによって色を替え、初の亥の日には菊と忍草、二の亥の日には楓の葉と忍草、三の亥の日には銀杏の葉と忍草を添えて檀紙に包んで水引を結び、下賜されたことが記述されています。
また、室町時代初期のころから、「能勢餅(別名:衛士かちん)」と呼ばれる亥子餅が、摂津国能勢郡(現在の大阪市北西部)の里から宮中に献上されたとのこと。その様子は『攝津名所圖會』に詳しく、煮た小豆を混ぜ搗いて猪の肉のごとく薄紅色に染めた御餅を長さ六寸五分(およそ19.7cm)、幅四寸(およそ12cm)、深さ二寸の(およそ6cm)の箱に入れ、小豆の煮汁を上に引き、栗を切ったものを6つほど上に並べて熊笹2枚で覆い、唐櫃におさめて、亥の日の前々日の夜半に里を出て、御紋の入った挑灯で照らしながら険しい山道を越えて、亥の日の前日未の刻(午後2時頃)に禁裏に着いた様子が書かれています。献上した数も150~200個といいますから、相当重かったのではないかと思うのですが、これを10月の亥の日に毎回行ったそうで、年によって三の亥の日がある場合は3回もお届けにあがっているわけで、それを東京遷都まで続けたというのですから、頭がさがります。
さて、冒頭の雅な映像は、2016年11月1日に京都御所の西側、蛤御門すぐ近くにある護王神社で行われた「平安朝古儀 亥子祭」を取材した際のものです。
護王神社は、御祭神の和気清麻呂公命(わけのきよまろこうのみこと)が、宇佐八幡への御参りの際に300頭のいのししが無事にご案内したといういわれから、この霊猪を清麻呂公のご随身として奉っており、亥年生まれの守護神として崇敬されています。実際、神社を訪ねると、拝殿の入り口には霊猪の雌雄一対の石像が、狛犬ならぬ狛いのししとして迎えてくれます。
この護王神社で、上記にご紹介しました朝廷の年中行事が「平安朝古儀 亥子祭」として復古再現されたのは、1960年(昭和35年)11月1日のこと。以来、毎年11月1日に、半世紀以上にわたって続けられています。
11月1日午後5時。暮れなずむ晩秋の燐とした空気の中、護王神社の神官による本殿への参進から始まった亥子祭。午後5時30分、拝殿に場所を移し、「御舂ノ儀」が始まります。まずは、平安朝の衣装に身を包んだ5人の女房により、臼、杵、3種の粉、水筒、白菊・紅葉・銀杏・忍草が、式司を務める神官の前に持ち出されます。冒頭の映像でご紹介しましたのは、この部分にあたります。そして、「神無月時雨ノアメノアシゴトニ我思ウコトカナエツクツク」「イノチツクツカサ」「イノチツクサイワイ」と平安朝の発声が重ねられる中、3種の餅が搗かれます。搗かれた御餅は、本殿に奉られた後、唐櫃に入れられ、神官を先頭にちょうちん行列を成しながら夜陰に包まれる御所に入り献じられます。
この御所への御餅の献上「禁裏御玄猪調貢ノ儀」は、前述の能勢餅の宮中献上の再現なのだそうですが、先の宮中の年中行事の再現といい、この能勢餅の献上の再現といい、それは厳かで美しく、一見の価値のあるものです。ご興味のある方は、是非機会がございましたら、11月1日に参加されてみてください。
ご参考までに、取材した際の写真を何カットかご紹介いたします。
さて、肝心の亥子餅そのものの話ですが、『ものと人間の文化史89 もち(糯・餠)』<法政大学出版局>によると、亥子餅は、西日本から千葉県の東端まで太平洋沿岸一帯で盛んに食されており、その形は、ぼた餅やきなこのおはぎなど様々なようです。
その意味合いも、一番の起源の「無病息災」を願うほか、猪の多産にあやかって「子宝祈願」を願ったり、「いのこる」ことを嫌って娘に食べさせたりとさまざまで、新米収穫後のタイミングということから、稲作の収穫祭の要素も強く見られます。
また、火伏せのため、旧暦10月亥の月亥の日に火鉢や炬燵に火を入れるという風習から、茶道の炉開きの際にいただくお菓子という側面もあります。
そんな中、「京の和菓子探訪」で取り上げたいのは、川端道喜製の「亥の子餅」です。
川端道喜は、応仁の乱(1467~1477年)で困窮した天皇家に、初代道喜が毎朝「御朝物」と呼ばれる塩餡で包んだ御餅をお届けしたことを端緒に、明治天皇が1869年3月7日に東行されるその前日まで、350年以上にわたって毎日欠かすこと無く献上し続け、宮中への出入りを許された証「御粽司」の称号を持つ粽・餅菓子専門の老舗です。同家に伝わる『御定式御用品雛形』には、季節ごとに宮中に納めた品の製法やしつらえ方まで細かく記述され、亥の子餅も、忍草や菊の花などとともに檀紙に包まれて下賜された3色の餅のことなどが詳細に描かれています。
この餅菓子の老舗中の老舗である川端道喜は、明治の東京遷都の際に京都に残ることを選択し、代々培ってきた技を茶道用の主菓子に工夫することを生業の中心に据える決断をします。
ということで、今回ご紹介する川端道喜製「亥の子餅」は、茶道のお家元が炉開きのお茶会などでよくお使いになるものになります。
この由緒正しい「亥の子餅」を、「瓜生通信」編集部の小池ひかりさんに紹介してもらいましょう。
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亥の子餅と言えば、
・粒あんを胡麻入りの求肥の餅生地で包み、上からきな粉をかけたもの。
・黄粉・胡麻・干柿を混ぜ込んだ餅製の生地でこし餡を包んだもの。
・餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたもの
など様々な姿、形がありますが、この川端道喜製「亥の子餅」は、薄くのばしたお餅の中に、こし餡がたっぷりと包まれています。その美しい薄紫色の表面には、雪のような模様が浮かび、またそのお餅の薄さの加減からか透けるような風合いがあって、上品でとても綺麗です。手のひらに乗せるとそこに、小さなうりぼうがちょこんと立っているようで、とっても愛らしい姿をしています。
そして、ひとたび口の中に入れると、薄いのにこしがあってしっかりとしたお餅の味に驚く一方、中に包まれたこし餡のなめらかで上品な味との絶妙なバランスに、とても感激しました。
みなさまも、炬燵やストーブを囲んだ一家団欒のひとときに、一年の健康や火除けなどを願いながら亥の子餅をお供に過ごしてみてはいかがでしょうか。
小池ひかり(情報デザイン学科1年生)
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なお、秘伝の技を親類縁者のみで伝える川端道喜の和菓子は、作ることができる数が限られることから、すべて注文のみ。お求めの際は、一度お電話でご相談されてみてください。
<写真:高橋保世(美術工芸学科3年生)・瓜生通信編集部>
※上記記事は、文中に明記の書籍のほか、『和菓子の京都』(川端道喜著/岩波新書119)も参考にいたしました。
川端道喜(かわばたどうき)
住所 | 京都市左京区下鴨南野々神町2-12 |
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電話番号 | 075-781-8117 |
営業時間 | 9:30~17:30 |
定休日 | 水 |
価格 | 亥の子餅 600円(税込) |
※亥の子餅は10月の末から11月の上旬頃のみのお取り扱いになります。
※ご購入の際は、事前の予約が必要になります。
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小池 ひかりHikari Koike
1997年広島県生まれ。京都造形芸術大学情報デザイン学科2016年度入学。主にグラフィックデザイン全般を学んでいる。好きな事は週に1度の映画鑑賞。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。
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瓜生通信編集部URYUTSUSHIN Editorial Team
京都造形芸術大学 広報誌『瓜生通信』編集部。学生編集部員24名、京都造形芸術大学教職員からなる。