EXTRA2017.05.02

京都

端午の節供をめぐるお話 ―水仙粽・羊羹粽(川端道喜)[京の和菓子探訪 #12]

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  • 瓜生通信編集部
  • 小池 ひかり
  • 高橋 保世

昨年6月にスタートしました「京の和菓子探訪」も、早いもので1年がめぐり、第12回となる5月を向かえました。

5月といえば、5月5日の端午の節供の話題を素通りすることはできません。まずは、その起源をたどってみましょう。

古代中国では、5月(旧暦)を最も邪悪な月とする考えがありました。この月には夏至もあり、陽の気が強すぎて陰陽の均衡を崩し、また疫病なども顕著になる季節。そこで、端午ーすなわち5月の最初にめぐってくる火の五行「午」の日、これら凶事を阻止するためのさまざまな行事が行われました。後に5月5日に固定されたこの端午節には、菖蒲やヨモギといった薬草を軒にかけ、また蘭湯(らんとう)と呼ばれる蘭の葉を入れて沸かした風炉を使い、また粽を食しました。

粽の起源は、楚の国王の側近であった屈原にあると言われています。屈原は、楚の隣国秦に対する政策をめぐって失脚し、長江右岸の支流、汨羅江(べきらこう)河畔に流されましたが、紀元前278年に楚の首都郢が秦によって攻め落とされたことから絶望し、同年5月5日に汨羅江に身を投げました。この際、漁民が「龍船(ドラゴンボート)」で助けようとしましたが間に合わず、せめて遺骸を魚が傷つけないようにと、竹の葉に包んだ糯米を沈めたことが粽のはじまりとされています。

現存する最古の料理書といわれる中国の『斉民要術』(540年ころ成立)を紐解くと、「『風土記』(3世紀頃)の注に、「民間の習俗では、あらかじめ2つの節日の前にマコモの葉でキビを包み、草木の濃い灰汁でこれを煮込み、熟成する。これを5月5日と夏至の日に食べる。モチキビで作ったものを「粽」または「角黍(かくきび)」という。これは、陰陽が包み合い、まだ分散していない時の形を象徴したものである」と記載があり、5月5日の食べ物として定着している様子がうかがえます。

この習慣は、現代中国でも引き継がれており、『日本民俗文化体系9 暦と祭事』では、香港で端午節が近くなると粽子(ちまき)や香袋(香嚢)が売られる様子を伝えています。また、一説によると、屈原を助けようと「龍船」で駆け付けた故事が、現在中国で端午節に竜船競渡と称するボートレースが行われるようになった端緒だそうで、これは現在長崎で行われるペーロンなどに伝わるとも言われています。

これら中国で行われていた端午の行事が、日本にも伝わります。

日本の宮廷行事記録として端午の行事が初出するのは、『日本書紀』推古帝19(611)年5月5日に行われた鹿の若角や薬草を摘む「薬猟(くすりがり)の儀」。菖蒲の初出は、『万葉集』の山前王(やまくまおう)の歌の「ほととぎす鳴く五月には 菖蒲(あやめぐさ) 花橘を 玉に貫き・・」で、平安期の『枕草子』39段では、「菖蒲、蓬などのかをりあひたる」の記述があります。ただし、この頃の菖蒲は、葉が長く、香りの強いサトイモ科のものを指し、現在のアヤメ科のハナショウブとは別の種類だそうです。

一方、粽が日本の文献に登場するのは平安時代中期に編纂された律令の施行細則『延喜式』(967年施行)の「五月五日節料」の項に、「糯米、大角豆(ささげ)、搗栗子(かちくり)、甘葛汁、枇杷、笋子(たかむな)、箸竹、串竹、青菰」と粽の材料として出てきます。

『骨董集 上編』より。左下に檜兜の絵図。(国立国会図書館デジタルコレクションサイト(http://dl.ndl.go.jp/)より)

その後、端午の節供は、民間で菖蒲枕(菖蒲を枕の下に敷く)や菖蒲湯、菖蒲酒の形で伝えられ、武家の間で菖蒲刀、菖蒲兜を男子に贈る習わしとして伝えられつつも、宮廷行事としては中世以降に衰え、廃絶します。それが、再び一気に花開くのが、慶長以降の江戸期。徳川幕府が公儀の祝日として五節供を定め、中でも端午の節供を武運長久を祈る大切な日としたことから、武家でも町家でも7歳以下の男の子がいるお家では、外幟を立て甲人形を飾ったのだそうです。

五月人形の流れに関しては、ここでは深く掘り下げませんが、菖蒲で作った兜「菖蒲兜」(鎌倉時代~)や、檜の薄板で作った兜「檜兜」(室町時代~)を往来に見えるように飾る鎌倉時代からの風習をルーツに、江戸期に大きく発展し、兜は内飾りの武者人形へ、往来の飾りの外幟に描かれた鯉の滝登りの意匠が発展し、鯉のぼりへとなったようです。

さて、肝心の和菓子の話題に入りましょう。

 

今回端午の節供の和菓子としてご紹介するのは、川端道喜の「水仙粽」「羊羹粽」です。

川端道喜製「水仙粽」「羊羹粽」

東京を含め東日本では、端午の節供のお菓子として柏餅が有名ですが、これは江戸期に生まれたもの。西日本では、古から続く習わしで粽をいただきます。

11月の玄の子餅の回でもご紹介しましたが、川端道喜は、応仁の乱(1467~1477年)で困窮した天皇家に、初代道喜が毎朝「御朝物」と呼ばれる塩餡で包んだ御餅をお届けしたことを端緒に、明治天皇が1869年3月7日に東行されるその前日まで、350年以上にわたって毎日欠かすこと無く献上し続け、宮中への出入りを許された証「御粽司」の称号を持つ粽・餅菓子専門の老舗です。

まずは、川端道喜で「水仙粽」「羊羹粽」を求めた際にいただいた「由来記」を見てみましょう。

当家では、初代道喜餅屋生業当時に、奈良吉野の地より禁中に献上される葛粉を用いての御用を賜り、製法を工夫し京洛北の笹で粽に調整いたしました『羊羹粽』をお届けしますと笹の成分の効用と長時間の加熱により驚くほど保存に耐え、なににも勝りその際立った風味の好さに、従来からの粽類とともに季節を問わず御注文を賜るようになり、『水仙粽』ともども御所では「内裏ちまき」、「道喜ちまき」、また下賜された人々により「御所ちまき」と呼ばれ、世の人々の広く知るところとなり、以後その製法を変えることなく「道喜」の名を代々継承する慣わしとなりました。

『本朝食鑑』(国立国会図書館デジタルコレクションサイト(http://dl.ndl.go.jp/)より)

1697年に刊行された本草書『本朝食鑑』の粽の項に、4種類の粽が紹介されるているのですが、その内のひとつとして「道喜粽」が登場します。それまでチガヤで包まれていた粽を道喜が笹の葉に変えたと言われ、「内裏粽」「御所粽」と呼ばれたとのこと。

また、15代川端道喜が記した『和菓子の京都』(岩波新書119)には、「御所粽」の評判を聞きつけた織田信長が初めて京都に入ったとき、「御所粽」というなら「御所」で売っているのかと買いに行き、京都の人々に影で笑われた話が出てきます。そんなエピソードからも「御所粽」の評判を伺い知ることができます。

前述の『和菓子の京都』によると、この粽を作るのは大変な手間がかかるようで、笹と葛の入手が困難なこと、また製法が「蒸す」のではなく「湯がく」ことにより、目指す味わいにするため微妙な調整を引き算でしていかなければならないことなどが書かれています。

さて、そんな貴重な川端道喜の「水仙粽」「羊羹粽」について、「瓜生通信」編集部の小池ひかりさんに紹介してもらいましょう。

「水仙粽」「羊羹粽」買い求めた際の姿
包装を取ると、5本が1組になっています

 

川端道喜の「水仙粽」「羊羹粽」は、それぞれ5枚ほどの笹で円錐形にくるまれ、綺麗に螺旋状に縛って、上部で5本1組にまとめられています。

一体この中に、どんなものが隠れているのか、好奇心をそそられるそのビジュアルがたまりません。早く食べてみたいというのに、重なる笹の葉にくるまれ、その上を頑丈に巻かれているのをほどくこのじれったさがまた、このお菓子の醍醐味なのかもしれません。丁寧に剥いていくと、白い餅が現れるのかと思いきや、ぷるんとツヤのある透き通ったちまきが覗く姿はとても美しく、惚れ惚れしてしまいます。

餅のちまきには、少し固いイメージがありましたが、道喜さんの葛製のちまきは柔らかくて、こぼれ落ちそうなほど繊細です。⿊⽂字がすっと入り、一口ずつ切りながらいただきます。

「水仙粽」

「水仙粽」は吉野葛と水と砂糖だけでできたシンプルなもので、透き通るような見た目がとても美しく、また、主張しすぎないお味なので、口に入れたときに笹の風味をしっかりと感じることができました。

「⽺羹粽」

⼀方、「⽺羹粽」は⼩⾖餡が練りこまれている分、「水仙粽」よりは弾力があり、笹の⾵味と⼩⾖と葛のバランスが絶妙で、口に含んだ瞬間に⼤きな幸せを感じさせてくれました。

さぞや培われ研ぎ澄まされた感覚と手わざが込められていることでしょう。美味しさのあまり、すぐにもぺろりと完食したいところですが、ぜひ⼀度、その由緒はもちろんのこと、昔ながらの手間暇を惜しまずかけて作られる、その想いにも心を寄せながら召し上がってみてください。

小池ひかり(情報デザイン学科2年生)

ところで、この記事冒頭に掲載しました写真は、「京都のご家庭では、どのような五月人形飾りがされているのだろうか」という編集部の疑問に応えて、旧家ご出身の京都造形芸術大学 通信教育部歴史遺産コースの栗本徳子教授が、ご自分の息⼦さんの初節句のために実家から贈られたという⼈形を運び入れ設えてくれたものです。

 

床にかけられている檜扇には、やはり兜とともに菖蒲が描かれています。また人形は、関東好みの武者姿ではありません。製造は、江戸明和年間より御雛京人形司を務める丸平大木人形店で、箱書きには「馬上公達」とありました。五月人形に関する書籍で色々探してみましたところ、大正天皇に贈られた乗馬御所人形に形が近く、やはり京都の方の好みは、荒っぽい武者姿よりもノーブルなお公家さんなのかもしれません。

さて、12回続いて参りましたこの「京の和菓子探訪」ですが、来⽉よりこの生まれも育ちも京都の栗本徳⼦先生にエッセイの形で新たな企画として京都の和菓⼦をご紹介いただこうと思います。

どうぞお楽しみに。

 

<写真:高橋保世(美術工芸学科4年生)>

 

【参考図書】

◇『和菓子の京都』<川端道喜/岩波新書119>

◇『ものと人間の文化史89 もち(糯・餠)』<渡部忠世・深澤小百合/法政大学出版局>

◇『現存する最古の料理書 斉民要術』<田中静一・小島麗逸・太田泰弘(編訳)/雄山閣出版>

◇『日本民俗文化大系9 暦と祭事ー日本人の季節感覚ー』<宮田登/小学館>

◇『特別展図録 五月人形ー節句の歴史と人形たちー』<龍野市立歴史文化資料館>

◇『武者人形の流れー男児の節句人形ー』<京都府立総合資料館>

◇『図説 和菓子の今昔』<青木直己/淡交社>

川端道喜(かわばたどうき)

住所 京都市左京区下鴨南野々神町2-12
電話番号 075-781-8117
営業時間 9:30~17:30
定休日
価格 「水仙粽」(5本1束)3,900円(税込)/「羊羹粽」(5本1束)3,900円(税込)

※ご購入の際は、事前の予約が必要になります。

 

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  • 瓜生通信編集部URYUTSUSHIN Editorial Team

    京都造形芸術大学 広報誌『瓜生通信』編集部。学生編集部員24名、京都造形芸術大学教職員からなる。

  • 小池 ひかりHikari Koike

    1997年広島県生まれ。京都造形芸術大学情報デザイン学科2016年度入学。主にグラフィックデザイン全般を学んでいる。好きな事は週に1度の映画鑑賞。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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