EXTRA2016.12.22

京都

古都に息づくクリスマス ―キャロル・聖夜(末富)[京の和菓子探訪 #7]

edited by
  • 瓜生通信編集部
  • 小池 ひかり
  • 高橋 保世

クリスマスが近づいてきました。

クリスマスイヴといえば、大人も子どもケーキをいただくのが世界中の定番となっているのですが、ここ京都では、クリスマス用の上生菓子もあるのです。もしかすると、京都にクリスマスのイメージは合わないとお思いの方もいらっしゃるのではないでしょうか。じつは、京都はキリスト教とも歴史的に深い関係があるのです。

今回は、京都とキリスト教の長く深い関係を紐解きつつ、伝統と革新の町ならではのクリスマスの和菓子をご紹介します。

日本にキリスト教が伝わったのは、ご存知のように戦国時代のこと。イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエル(1506−52)が、天文18年(1549)、薩摩に上陸し、翌、天文19年に堺を経て京都に入ったのが、キリスト教と京都の最初の出会いでした。残念ながら、将軍足利義輝との謁見も叶わず、また戦乱で荒廃した都に落胆し、ザビエルはわずか11日で京都を離れました。

その後、ザビエルと同じイエズス会の宣教師ガスパル・ヴィレラ(1525−72)は、永禄2年(1559)に京都に入り、堺のキリシタン医師パウロの紹介で知遇を得た建仁寺永源庵主の取り計らいで妙覚寺において将軍義輝に接見することができ、これを機に京都でのキリスト教の説教を始めました。永禄3年(1560)の初めには、改めて将軍に謁見し、正式に布教の許可をえて、翌永禄4年には京都に最初の礼拝堂が建設されました。とは言っても、仏教の拠点でもある京都での布教は順調に進まなかったようです。

しかし、既成の仏教勢力を武力で制した織田信長が入京すると、当時京都に入っていたイエズス会宣教師オルガンティーノ(1533−1609)らは、信長から厚遇を受けることになります。京都に南蛮寺(教会)が建設され、京都を拠点に畿内への布教活動が行われ、信者を獲得していきました。

ところが、天正15年(1587)、豊臣秀吉はバテレン追放令を発布します。京都の宣教師は追放、南蛮寺は破壊されました。ただし、この時期には、まだ徹底的な弾圧にまでは至らなかったのですが、慶長元年(1596)スペイン船サン・フェリーペ号の土佐漂着で、キリスト教とスペインの勢力拡大の関係に疑念を持った秀吉は、京都、大坂でスペイン系であるフランシスコ会の26人の宣教師・日本人信徒らを捕らえ、洛中引き回しの上、徒歩で長崎へ送り、十字架上での処刑を断行しました。これが日本で最初の殉教者となり、1862年、彼らはローマ教皇ピオ9世により、全員聖人に列せられました。

当初、キリシタンに寛大な姿勢を取っていた徳川家康も、長崎貿易をめぐってのイエズス会の政治的介入などを露呈した岡本大八事件後、慶長17年(1612)幕府直轄領の禁教令を、翌18年には全国に及ぶ禁教を命じました。元和5年(1619)52名にも及ぶ京都の大殉教の後、長崎の元和の大殉教、江戸の大殉教、寛永14年(1637)には島原・天草一揆が鎮圧され、キリスト教への迫害が続きました。幕末、明治初期までに殉教者は、3、4万名にものぼるとされています。こうした禁教の状況は、明治6年(1873)まで継承されました。

安政5年(1858)、日米修好通商条約が結ばれると、外国人居留地における外国人の信仰が保証されるようになり、翌年から一斉に宣教師が来日します。そして明治6年、ようやく禁教令の高札が撤去されることになったのです。

京都には先に明治5年(1872)プロテスタントのギューリックやペリーが伝道を始めていましたが、明治初年に、京都にキリスト教を根付かせる大きな事業を起こしたのは、新島襄(1843−90)であったと言えましょう。彼は山本覚馬とともに、明治8年(1875)同志社英学校を創立しました。これはのちの同志社大学となります。

新島は上州安中(あんなか)藩士・新島民治の子として、江戸屋敷で生まれ、幕府軍艦操練所などで洋学を学び、アメリカ人宣教師の訳した漢訳聖書に触れたことで、アメリカを目指すことを決意しました。元治元年(1864)鎖国という状況下、国禁を犯して備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗船して、開港地、函館に向かい、米国船ベルリン号で密航、上海を経由して翌65年ボストンに到着します。1866年に洗礼を受け、1870年にはアーモスト大学を卒業。1872年にはアメリカ訪問中の岩倉使節団に参加する形で、ヨーロッパの教育制度の調査にも当たりました。

そして、1875年アメリカン・ボード海外伝道部の大会で日本でのキリスト教主義大学の設立を訴え、多額の寄付を集めて、帰国を果たします。こうして、明治8年(1875)11月29日、公家華族の高松保実(やすざね)から屋敷地を半分賃貸して、仮校舎とし、同志社英学校を、設立しました。さらに翌年、学校は旧薩摩藩邸跡地に移ります。ご存知の方も多いかもしれませんが、これは何れも御所に近接する場所です。

つい数年前まで、禁じられていたキリスト教を基に創設された学校が、なぜこのような御所の周辺に構えられたのか、不思議に思われる方も多いかもしれません。じつは、明治初年ならではの京都の事情があったと考えられます。

幕末、元治元年(1864)の蛤御門の変で、焼け野原となった京都。その復興の途上であった慶応4年(1868)、江戸は東京と改められ、明治と改元されて間もなく、天皇東幸の詔が発せられたのです。明治2年(1869)東京「奠都(てんと)」、つまり仮に都を移すという形で、実質は遷都となったわけです。こうして御所はもちろん、公家屋敷、各藩の藩邸などが、一斉にもぬけの殻となってしまったのが、当時の状況です。

近代化の象徴としての新しいキリスト教の学校建設は、京都が急ぎ前を向いて進もうとしていた時代に、御所の北、薩摩藩邸跡地という場に根を下ろしたことになります。明治9年(1876)には、京都御苑内の元公家屋敷地に女子塾(のちの同志社女学校)も設立されました。

同志社礼拝堂チャペル

クリスマスイルミネーションの様子

今日、重要文化財となっている同志社礼拝堂チャペルは、明治19年(1886)年に建造されたもので、設計は、宣教師でもあったD.C.グリーン、施工は京大工の三上吉兵衛によるものです。現存する最古の赤煉瓦造のプロテスタント教会として、伝統的な京大工が挑んだ洋風建築に明治時代の近代化の象徴的な姿を見ることができます。

同志社以外にも、京都には続々とミッション系の学校が設立されていきました。平安女学院、京都聖母女学院、ノートルダム女学院、洛星中学、高等学校。これらのキリスト教の学校出身者が、意外にも京都の茶道、華道の家元、さらには、京都の伝統産業を引き継ぐ老舗の子弟にも多いことは、あまり知られていないかもしれません。

旧家ご出身の京都造形芸術大学 通信教育部歴史遺産コースの栗本徳子教授も、中学から大学院まで同志社の出身ですが、チャペルでの礼拝やクリスマスには特別な思い出を持っているとのこと。

「父が同志社中学、母が同志社女子中学から大学出身だったので、キリスト教信者でもないのに、ふたりはクリスマスイヴには、ロウソクに火を灯し、キリスト降誕を祝う賛美歌を次々に歌うのです。幼い頃からの習慣で、いつしかキリスト教文化に淡い憧れを持つようになって、同志社中学へ進学しました。ホザナコーラスに入部して、毎朝、チャペルの礼拝では、前席で賛美歌を歌っていました。」

今回スポットをあてる末富製のクリスマスの上生菓子「キャロル」と「聖夜」も、1980年代に生まれたものだとか。早くからキリスト教を受け入れ、伝統と革新の土地柄である京都で、30年近くも愛されてきているこの和菓子について、「瓜生通信」編集部の小池ひかりさんに紹介してもらいましょう。

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末富製「聖夜」「キャロル」
「キャロル」
「聖夜」

一般的にクリスマスに食べるものと言えば、チキンやローストビーフのような洋食とケーキのイメージです。外来文化ならではの行事だからです。

しかし、京菓子司 末富は、このような西洋文化のクリスマスツリーを、和菓子の技で見事にアレンジしました。

緑色のクリスマスツリー「聖夜」は、柔くてなめらかなきんとんがほろりと優しくほどけるような食感です。

白いクリスマスツリー「キャロル」は、ひとたび口に入れると、山芋のかおりが口の中に広がり、「聖夜」よりはどっしりと食べ応えのあるきんとんが楽しめます。

飾りとしてついているのは、上菓子にかかせない素材「こなし」を色とりどりに固めたものです。見た目が可愛らしいだけでなく、ツリーのきんとんと、その中に潜んでいるこし餡の柔らかい食感との違いも楽しむことができ、また洋菓子で時々遭遇する硬すぎたり、ジャリっとした残念な食感とは無縁な優しさです。
 

小池ひかり(情報デザイン学科1年生)

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クリスマスケーキのかわりに、末富製「聖夜」「キャロル」を楽しみながら、賛美歌やクリスマスソングを口ずさむ、そんなクリスマスはいかがでしょうか。

いずれにしましても、みなさまにとって良いクリスマスとなりますように。

Merry Chiristmas!

 

<写真:高橋保世(美術工芸学科3年生)>

京菓子司 末富 本店

住所 京都市下京区松原通室町東入
電話番号 075-351-0808
営業時間 9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日
価格 キャロル 918円(税込)/聖夜 756円(税込)

http://www.kyoto-suetomi.com/

 

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  • 瓜生通信編集部URYUTSUSHIN Editorial Team

    京都造形芸術大学 広報誌『瓜生通信』編集部。学生編集部員24名、京都造形芸術大学教職員からなる。

  • 小池 ひかりHikari Koike

    1997年広島県生まれ。京都造形芸術大学情報デザイン学科2016年度入学。主にグラフィックデザイン全般を学んでいる。好きな事は週に1度の映画鑑賞。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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