REPORT2025.03.31

130年の歴史を持つ銀行を舞台にした価値をめぐるアーティストの思考・試行実験「Skeptically Curious:価値の変成をめぐる複数の試み」

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  • 京都芸術大学 広報課

京都の「価値」の集積地、130年の歴史を持つ四条烏丸のみずほ銀行での初めての展覧会

2025年2月25日(火)から3月7日(金)まで、みずほ銀行京都支店で、支店開業130周年記念事業として、京都芸術大学との共同主催により、京都芸術大学美術工芸科の教員、学生などによる展覧会「Skeptically Curious:価値の変成をめぐる複数の試み」が開催された。130年前と言えば、1894(明治27)年にあたり、日本が近代国家としてさまざまな制度を整えた頃にあたる。

みずほ銀行京都支店は、四条通と烏丸通が交わる交差点周辺の京都の中心市街地、四条烏丸にあり、そこにはメガバンクが集積している。ある意味で京都の近代から現代までの経済を支えてきた場所といってもよい。また、それらは長刀鉾町に位置している。祇園祭の山鉾の中で唯一、生稚児を乗せ巡行の先頭に立ち、鉾先に大長刀をつけた「長刀鉾」を、同じ町民として支えているのは象徴的である。

京都では近年、現代アートに関するさまざまなイベントや展覧会が開催されるようになっている。ホテルやカフェ、百貨店といった商業施設は当然のことながら、神社仏閣や町屋といった京都ならではの建築空間での展覧会は珍しいものではなくなってきている。しかし銀行での展覧会というのは、今までほとんどなかったかもしれない。特に使われていない空間などを利用したものではなく、「銀行の顔」ともいえる窓口業務が行われている1階、2階で、平日の営業時間中も含めて開催されたことは画期的といってよいだろう。

 

銀行が金銭的な価値を守ってきたならば、芸術は文化的、美術的な価値を守ってきたともいえる。実は、双方ともに価値をめぐる社会的な営みであったといえるかもしれない。そのような多元性のある価値とは何か?という問いや価値に対する疑いも含んだ好奇心をテーマに、美術工芸学科の教員、池田光弘、髙橋耕平、竹内万里子、福本双紅のディレクションによって、池田光弘、石黒健一、大澤一太、髙橋耕平、副産物産店、福本双紅、山本雄教、宇野真太郎、清原緋蕗、黄浩、白井桜子、白簱花呼、相馬優依、TANG QINGYU、則包怜音、ムシスミ、渡辺周といった、美術工芸科の教員や現役の学生、卒業生などのアーティストが参加した。

通貨、貨幣とは物やサービスと交換可能な価値といえる。また、為替のように異なる国の通貨と交換する仕組みでもある。近年では「Bitcoin」のような国家が信用保証せずに、ブロックチェーンのようなネットワークによって交換される仮想通貨もある。しかし、かつての「金本位制」は廃止されており、裏付けられる物質はないため、今日においては、通貨にせよ、仮想通貨にせよ、それらは常に変動し、価値が安定しているわけではないし、紙幣やデータそのものに価値があるわけではない。あるのは、テクノロジーを介した不確かな人と人同士の「信用」というものだけである。


世界最長の貨幣と「価値」の原点を問う
 

本展では、会場入り口に、そのような物質と離れていく貨幣とは対極的な貨幣が象徴的に展示されている。それは1969年より南オセアニアで現地調査を続け、さまざまな資料を収集している染色家の福本繁樹氏によるコレクションであり、世界最長の貨幣とされる「パンダナス布の貨幣(sigo-ngafugafulu)」である。それはヴァヌアツのアンバイ島で編まれたもので、80メートル余りにも及ぶ。村の男が結婚する際、両親が婚資として花嫁の父親に贈ったものだという。しかし、これが「貨幣」として他のものと交換されるということではなく、それだけの労力をかけた証に近いものだろう。

福本繁樹所蔵《パンダナス布の貨幣(sigo-ngafugafulu)》1982年収集
福本繁樹所蔵《パンダナス布の貨幣(sigo-ngafugafulu)部分》1982年収集


また、同じく福本繁樹氏のコレクションの全長4メートルに及ぶ「貝貨(tafuli’ae)」は、貝を削って希少な赤や白黒のビーズをつくり、紐に通して仕上げられている。中にはイルカの歯も組み込まれている。これらは希少性や美術的な完成度、技巧、そこにかけられた労力といったものが、価値の源泉であったことを示すものだろう。しかしそれは、今日の貨幣経済のようなものではなく、人類学者のマルセル・モースやブロニスワフ・マリノフスキが提示したように、贈与と交換によって共同体が維持されていたことを示すものである。今日のような一部の人間が物質的な豊かさに集中するグローバル資本主義社会や貨幣とは根本的に異なっていることも重要である。

福本繁樹所蔵 上:《貝貨 (tafuli’ae)》1990年収集 部分 下:《腕輪(aba gwaro、a’afe)》1982年収集
左から:《貝貨 (tafuli’ae)》部分 、《首飾り(fulu)》1973年収集、《紐衣》1982年収集
福本繁樹所蔵 貝貨 (tafuli’ae)を作るための材料、および道具等の部分        貝貨 (tafuli’ae)を作るための材料、および道具等の部分


石黒健一は、「石貨」と仮想通貨の根幹技術であるブロックチェーンとの相似について述べられた経済学の論考を見て、ミクロネシアのヤップ島にフィールドワークと現地での共同制作をもとしたインスタレーションを発表した。そのような原始的な「石貨」のリサーチを2年間する中で見えてきたものは植民地支配や第二次世界大戦、その後のグローバリズムの中で喪失し変容した人々の歴史や文化、価値観であった。そこで人々と対話しながら、彫刻としての「石貨」や日本統治時代に日本人がもたらした伝統工芸化したストーリーボードの木彫、インタビューや旅の風景の映像をインスタレーションにし、変容していく価値を表現した。

石黒健一《石貨の島と我が彫刻》2020年

 

 

山本雄教《かみの男(741 yen)》2025年

1階受付窓口の背後の柱には大きな「渋沢栄一」の肖像画が掲げられている。言うまでもなく、近代最大の実業家で「日本資本主義の父」と称され、多くの銀行や企業を創設した。実は、みずほ銀行のルーツである日本最古の銀行、第一国立銀行(後の第一勧業銀行)も渋沢が創設し、後に日本最初の株式会社にもなっている。ご存知の通り、渋沢栄一は2024年から新一万円札の顔である。お札の顔はそれだけで権威であり、偶像化されている。自然過ぎて気付かないのが不思議であるが、それは山本雄教が木造パネルに1円玉を貼り合わせて、鉛筆でフロッタージュすることによってできた作品である。しかし形と陰影だけの変化でそれが「渋沢栄一」であることがわかる。それは私たちが見ているものは、いかに不確かなものを確かなものとして受け取っているかという象徴的な作品であるだろう。フロッタージュの元となった木造パネルと複製された「渋沢栄一」のイメージは、2階の応接室にも展示されている。また、ATMの前には木造パネルに1円を貼り付けた四曲一双のアルミ箔ともいえる屏風が展示されている。これは貨幣が物質へと還元化されたものといえるだろう。 

山本雄教《741 yen》2025年
山本雄教《One》2025年


同じく貨幣の物質的な側面を浮かび上がらせた作品に、渡辺周が紙幣を撮影した作品がある。紙幣を折って立たせたり、寝かせたりした状態を撮影することで、紙幣としての側面から紙としての側面に認識が移行する瞬間がある。しかし、それは機械にとっても同じである。紙幣をスキャニングしたり加工したりしようとすると、エラーが生じる。それはコンピューターが紙幣を紙ではなく、貨幣として認識している証拠である。貨幣と物質が繋がっている場合、わたしたちはその裂け目も含めて利用しているのだ。 

渡辺周《紙》2025年


貨幣の物質性を強く感じさせる資料も展示されている。それは太平洋戦争末期に制作された陶貨である。日本中で金属供出が行われ、貨幣の金属ですら必要になった太平洋末期、陶器の生産地である瀬戸、有田、京都で陶貨が制作されたが、結局使用されないまま敗戦となった幻の貨幣である。耐久性のテストはなされていただろうが、近代戦争の中で、貨幣が土という原始的なメディウムに戻っていくのは皮肉である。
 

左から、10銭陶貨裏、10銭陶貨表、5銭陶貨裏、5銭陶貨表、1銭陶貨裏、1銭陶貨表(いずれも昭和20年 未発行)
左から、10銭陶貨裏、10銭陶貨表
左から、1銭陶貨裏、1銭陶貨表


宇野真太郎は、紙幣や硬貨といった貨幣の物質的側面ではなく、財布といったそれらを入れる物質に注目した。具体的にはアトリエに忘れた財布の形状を模して、木彫による彫刻作品にした。財布の中には、2700円が入っていたとのことだが、はたして木彫の財布が、2700円以上の価値があるかどうか。価値とは何かを考えさせられる。   

宇野真太郎《その時は二千七百円入っていた財布(Lee)》2025年 全体
宇野真太郎《その時は二千七百円入っていた財布(Lee)》2025年 部分


則包怜音は、貨幣そのものでないが、為替の変動をテーマに、ペインティングを行った。具体的には、円とドルの価値の変動を主に青と赤の色と記号的な形によって分類し、升目の中に変動値を塗っていく。選ばれた色や形に恣意性があるため、画面から為替の変動を表したものと読み取ることはできないが、何かしらの法則性のあるものであると見ているものは直観するだろう。それは絵画の中に現れた貨幣という力の拮抗といえるかもしれない。
 

(左) 則包怜音《価値の形状》2025年
作品の基になった為替の表


機能性の喪失と転生の形

アーティストが作品を制作する際に捨てた廃材を生産の際に生まれた「副産物」として捉え、それらを元に彫刻作品やインスタレーション、ワークショップなどを発表している矢津吉隆山田毅によるアートユニット、副産物産店は、「副産物」を積み上げて最小限でつなぎとめる作品を展示した。組み合わされた「副産物」同士に関係性はなく、積み上げやすさ以外は偶然性と恣意性に過ぎないが、ある種のシュールレアリスム的な要素と、古くから世界中で見られる石積みのような面白さがある。積み上げられただけで価値を持ち、崩れてしまえば価値がなくなるという、危ういバランスの上に価値が維持されているという貨幣の世界の隠喩でもあるだろう。   

副産物産店 左から《Balance and Fixation #01》《Balance and Fixation #02》《Balance and Fixation #03》いずれも2025年

逆に、大澤一太髙橋耕平は、自身の作品をひたすら燃やしていくというパフォーマンスを映像作品に仕上げた。アーティストが作品にする際に出る廃材は、副産物産店のように再利用しない限り、ゴミとなる。しかし、完成した作品であっても、美術館やコレクターに収集されず、自身も所蔵しないものはゴミとなる。しかし、それらを積極的に燃やして焼失するプロセスを映像にすることで、別の作品に転生させるのだ。さらに、福本双紅と髙橋は、写真を燃やしてできた灰を器に盛り付け、二度窯で焼くことにより、釉薬のように扱う陶芸作品を提示した。結果的に陶器に釉薬のような色はつかず、灰が固まったような状態になっているが、これもまた転生の形だろう。

福本双紅+髙橋耕平《カルデラ》2025年
大澤一太 + 髙橋耕平《Rebirth or Eternal Death》2025年

清原緋蕗は、金具、紐、ビーズ、安全ピンといった、本来であれば、美術作品ではなく、展覧会のバックヤードで、美術作品を支えたり、隠れて居たり、背景となったりしている道具を全面に出し、それらを紐に通し、金具にからませている。本来の道具の機能は失うが、視覚的なリズムと単位への派生を思わせる。

清原緋蕗《How to measure_》2025年


TANG QINGYUは、巨大な眼と髪をプリントしたキノコ状のオブジェによって、銀行に隠れている無数の視線を可視化した。それは入口付近やエスカレーターといった会場に偏在して設置された。価値の集積している銀行や美術館といった空間は、必ず監視の眼がある。大きな美術館では一つの空間に一人は監視員がついている。銀行においては店員だけではなく、無数の監視カメラがある。もちろん、問題を起こす人でなければ、監視の眼は気にならない。しかし、何か問題を起こそうとする人にとってはその見えない視線が一気に表出することになる。それはフーコーの指摘する一望監視システム「パノプティコン」のようなものだろう。TANG QINGYUは、眼によって見えない価値の外延を浮かび上がらせたといえるだろう。

TANG QINGYU《隠れん坊(Hide and Seek)》2024年

 

未だ見ぬ出会いの中に見出す価値

貨幣そのものをモチーフにしたものではないが、価値を問う作品も多い。白簱花呼は、初心者向けのサボテンとして、価値の低いものと見られてきた「シャコバサボテン」と身体の部分を描き、価値体系の中から疎外され周縁化している風景を組み合わせ、価値の外延を描き出した。

展示風景
白簱花呼《Cactus》2025年
白簱花呼《yknow what..hell yeah(わかってるよ…やったー)》2025年


ムシスミは、さまざまな記憶の中から抽出した抽象的な風景を描きだしている。それはどこかで見た風景を組み合わせ、生成したものともいえる。今日においては、過去の膨大な写真データから、AIは新しい風景を克明に描き出すことができる。あるいは、脳波を抽出して、どのような映像を見ているか、あるいは、どのような映像を思い出しているか出力することもできるようになっている。岩絵具をスプレーで吹き付けたというムシスミの絵画は、実際の風景のフォーカスをぼかしたようでもあり、鮮明ではない記憶の中の風景のようでもある。そのぼかした状態は記憶の余白であり、人間的なものだといえる。それを埋める形で誰もがどこかで見た風景を想起するだろう。

ムシスミ《On the Grass》2024年
ムシスミ《stage 0》2024年

 

池田光弘は、「新しい風景」に価値を見出している。もともとは実際に旅をしてみた風景のスケッチや写真をもとに、絵画として構成していた。私たちは、日常の中において、脳の恒常性の働きによって、変化の少ないものはできるだけ感じないように設計されている。日常に刺激がなくなるのは、むしろ恒常性がよく働いている証拠である。しかし、旅に出て別の場所に行ったとき、すべてが日常とは異なる変化の連続であるため、脳はフル活動することになる。旅はそのような感覚刺激を活性化させる。

しかし、コロナ禍で旅をすることができなくなり、過去の写真などを見返す中で、見落としていた写真を発見したり、写真の部分を拡大したりして、新たな風景と出会い直すようになった。また、新たな風景をボードに油絵具で模写し、それをモノタイプで写し取ったものをベースに、絵画に仕上げている。モノタイプは彫りがなく、1枚しか写せない版画のようなものなので、1枚ずつ異なるものになる。それを何度も繰り返し、旅で見る風景のような、自身が初めて見た風景に出会うまで続ける。池田は、そこから大きな絵画に再構成していくという方法を採用している。しかし、そのような手続きが重要なわけではなく、自身の行為を通じて、新しい風景に出会うことが目的といってよい。鑑賞者は、池田が出会った「新しい風景」としてのイメージに出会うことになる。池田の絵画に、見たことのない奇妙な感覚を覚えるのもそのせいだろう。今回、元になっているモノタイプが展示された。
 

池田光弘《untiteled (monotype no.13)》2024年

 

白井桜子は、服飾の勉強をした後、ペインティングをするようになった。描かれたモチーフは、人物を想定しているが、描かれるものは模様やパターンといった抽象的なものである。パッチワークのようにそれらのパターンを組み合わせ、その人らしさに近づける。もっとも難しいのは人の価値であり、誰かにとって良い人間も他の誰かにとって悪いという場合もある。価値とは、見るものによって変わるプリズム状のものであることを表現しているともいえる。

白井桜子《parallel#4》2024年


福本双紅は、正円の輪の状態にした陶土を窯の中で平に置くのではなく、吊るように設置し、陶土が重力によって楕円形に変形していくプロセスと、焼成することによって固まっていくプロセス、釉薬が溶けていき輪の最下部でしずくになる状態を形に取り出し、プラチナ箔をほどこした。それは人間の生む価値が、自然に大きく左右され、完全にコントロールできないという人間社会の限界と、自然が生み出す恩恵や価値の可能性を示すものといってよい。

福本双紅《しずく》2023年


同じく陶土と磁土による作品を制作した黄浩も、創作における自然の介入と変化、それらとの共生がテーマになっている。円形や半円形の外形と文様が重ねられ、無限に変化、成長する形を暗示している。釉薬として、貝殻と真珠を使用した「真珠光沢釉」が施された。福本繁樹氏のコレクションにあるように、貝殻は貝貨として広範囲で使用されてきた歴史がある。また、真珠の独特な質感と光沢は、古来から王や貴族に愛され、現在においても高級品として扱われている。真珠は異物をアコヤ貝や白蝶貝が取り込み、真珠質が何層にも包み込むことによって生まれる。現在では、人工的に異物を入れて、養殖真珠がつくられている。まさしく、自然と人工と協働作業によって生まれる美しさが、価値の根源といってもいいかもしれない。

黄浩《流光》2024年 全体
黄浩《流光》2024年 部分

 

相馬優依は、そのような貨幣経済を生み出す今日の人間社会以前ともいえる、文化全体を想像して絵画にしている。そこで使用される文字なども考案されており、描かれた絵画は中世的な村落やそれを描いたタペストリーのようにも見える。この世にはない、相馬が描いた空想の世界であるが、文字や貨幣が現在とは異なる発展をしたのかもしれないという問いを孕んでいる。それはどこかで、福本繁樹が南オセアニアで収集したコレクションとも通じるものがある。我々が生んでいる貨幣とは何か?貨幣のない世界、別の交換社会の可能性を改めて問うものでもあるだろう。

相馬優依《わすれ すまい》2024年
相馬優依《かたりべたち》2025年 部分
相馬優依《かたりべたち》2025年 部分

 

本展は、当たり前となってしまった貨幣や銀行が、データだけで実態のない仮想通貨やオンライン店舗へ移行する中、贈与経済や貨幣の物質的側面、交換不可能な価値といったものを物理空間の中で改めて問うものといえるだろう。そして、交換可能な貨幣以前の世界を遡れば、人間的な労力や美術的な価値こそが貨幣であったことを指し示している。同時に、銀行の実店舗内で開催することによって、窓口業務に代表されるような、人と人の身体を介した交流や空間での体験に、代替不可能な価値があることが改めて認識されたのではないか。その意味でも、価値を扱いながらふだん交わらない銀行とアートが出会ったのは大きな成果だろう。

そして、マーケットの勃興によって、アートが一元的な貨幣価値に収斂していっている現在、本展では、そこから逃れたり、ズレることで見える多元的なアートの価値や可能性、価値の変成といったものを可視化し、異なる軸の存在を明らかにしたといえるだろう。

(文=三木 学 写真=大河原光)

 

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