于 盼
Yu Pan
①『六識図』の画面に六本の松といくつか白骨をかくことである。六本の松の木は人間の目、耳、鼻、舌、体、そして心を象徴している。白骨は人間がこの世の中に残した最後のものだ。私はよく死亡のことについて考えている。人の人生の最終的な結果はほんの少しの骨しか残っていないことを理解した後、実生活では、時々起こる不愉快なことを気にしたくない。私も寛容になる。つまらないことに貴重な時間を費やす意味がないと思う。私にとって、物事の本質を見抜いた後でも、生活に対して前向きで、楽観的な態度を保つことができて、これは意味のある人生だと思っている。
②今年、私は初めて竹の成長過程を見て、畏敬の念を抱く。竹には強い生命力があり、土に埋められた竹の根にどれだけのエネルギーを抱いているのだろうか。蝉は7日間しか生きないと言われているので、蝉と竹の生命力は真逆だ。夏に、道で偶然に蝉の蛹を拾って家に持ち帰る。その夜、私は蝉の脱皮の全過程を興味深く観察した。調べてみると、蝉の不思議な一生を知った。彼らは殻を落とす前に数年あるいは10年以上も土の中に隠れたままで、土から出て蝉として現れる特定の年を選ぶ。目的は、交配の完了と子孫の繁殖だ。
金箔の部分は上部が肉眼で見える光景であり、下部の黒箔の部分が土の下に隠されているものを表している。この絵を描く意図は、竹と蝉の生命力と使命感を称賛するだけでなく、人や物を軽々に判断しないように気を配ることだ。多くの場合、私たちが見たり理解したりするのはほんの少し、言わば氷山の一角であり、私たちはより広い心で世界を受け入れる必要があると考える。私は芸術表現において、第一義的には、その視点――世界観をこそ提示したいのだ。
③『紅白梅図』は尾形光琳へのオマージュである。私は光琳の『紅白梅図』をきっかけにして、日本画と琳派絵画を勉強し始めた。もちろん梅の花も大好きな花で、他の花とは比べ物にならない。寒い冬に独自で咲き、冷たい香りがさわやかだ。この絵には比較的に多くの技法や素材が併用されていた。梅の木と枝などが線描で描かれて、書道の漢字を書く意識も込められて、線で表現されている。多様な筆運びや水墨の使い方によって、微妙な変化を探求した。
④この作品は今年の中秋祭りに円山公園に月を眺め楽しんだときの情感を発散させたものである。円山公園にある石の椅子に一人で座って、空に浮かぶ大きな満月を見て、子供の頃の中秋祭りのたびに家族と一緒に月を見ていたことを突然思い出した。姉妹と私は月餅と甘い果物を食べました。そして月について、古代の詩を唱えながら月を賞賛している間、私は幸せで浸り眠りたくなかった。まるで絵の中に小さな鹿が遊んだり、追いかけたりするように自由自在だ。今現在、月はまだその月ですが、時間は静かにずれている。川に揺れる月の影を見た瞬間、いきなり≪金剛経≫が頭に浮かんだ。すべての有為の法「夢のような幻の水の泡」は、露のように電気のようなものであり、それが正しいということである。この作品に使用された技法は比較的にシンプルで、色は比較的に純粋だ。そのように描き方より、私がもっとも追求する詩的な表現にもきっと役に立つだろう。
何 璐希
He Luxi
月というと、どんなイメージを起こさせる?不規則に見えるパネルを、円形のパネルの周りに並べることで、その画面を通して、観る人に連想させるのは、円形のパネルは月の記号としても使うことである。 同時に、この画面全体の雰囲気を見ると、もっとたくさん月光の下にある生物を想像できるかもしれない。
見る人の、月に対しての思い出がこの作品の破片になって、いるから、そこで作品が完成すると思う。
川瀬 美帆
Kawase Miho
「私たちは自由意志を持っているようで実は自然法則に従って生きている」というオランダの哲学者バルフ・デ・スピノザの言葉に触発され、「ゆらぐ自画像」を描き続ける。アイデンティティに迫ることにより見え隠れする自身の生い立ちを壁の中で育つ水槽の中の存在と重ねた。「ゆらぎ」や「うつろい」をなぞらえる銀箔を硫化させ黒変させる行為は、コントロールの効かない予測不能な結果をもたらす。その中に美を見出そうとする試みが、スネールの歩いた足跡のように私たちの道標になれば幸いだ。
髙田 久惠
Takada Hisae
泥の中から背を伸ばし、葉の隙間から覗かせた花の可憐さを。
風に身を任せ、揺られても揺らぐことのない芯の強さを見た。
真夏の暑い日差しを一身に浴びて生きてきたのだろう。
うつむき、水中に沈む敗荷は生まれた場所へ戻っていくようだ。
全てを受け入れ、夏の終わりを静かに待つ姿は誰かと重なった。
心の奥にしまわれた記憶は、いつか似た感動と出会えた時、もう一度思い出すことができる。失くしたものが戻らなくとも、感じたことは失くならないのです。
陳 慧洋
Huiyang Chen
①世の中で一番美しいものの一つは自然だ。この「自然」は花鳥や魚や虫などの生物も指し、山や川などの自然景観も含める。宇宙の全部物の総体であっても良い。または生活態度でも考えられている。作品の中で墨が流動した形成する模様を底にして、動植物と仏像を画面に入る。動植物は自然景観の意味があり。墨の流動は生活態度を象徴する。「科学の終りは玄学です」と言っており、仏像は宇宙にあるすべての事物を表している。
②敦煌学が成立したのは、敦煌蔵経洞の発見と内部書籍などの公表によるものである。当時の敦煌の看守であった王道士がスタンインに経書を売ったという説が多いが、当時の社会状況と合わせて経書が盗まれたという説の方が好きだったので、それを絵にして表現したいと思った。
③この絵における一つの意味は、山というモチーフを使って、自分の自由、精神の解放に対する「隠逸コンプレックス」を表現することである。 そのため、私の制作は細密に描いた細密画のような作品ではなく、点と面の重ねより山の形を描いて、写意画のような形になっている。二つ目の意味は、画面の中にある山の峰がしだいに進むは、人生の目標を示しているということ。人生とは、一つ一つの高い山を越えるように、一つ一つの人生の目標を達成することではないだろうか。仏像の存在は、登る途中で自分を見失うことしないように、初心を保つための座標の存在である。三つの意味は、君子が持つ崇高な品性を表すことである、自分の品性を養うことを大切にする。迎賓松の描写は、強さ、平和、熱意、包容力を宿しており、強靱で勇敢に極限を突破しようとする激励の精神示していた。
④雲の変化を利用して、見えないものを描きながら、白黒の衝突で心の中の「見えないもの」を浮き彫りにする。雲と中心光の白黒の色調は鑑賞者の注目を集め、人物が色や金線を使うと画面の圧迫感がなくなる。
黒と白の二色は、必ずしも憂鬱や神秘的な雰囲気ではなく、希望も含めている。例えば黒い鍾乳洞の中を歩くように、鍾乳洞の先に出口があり。それは溶洞から出る力を駆り立てる。光はいつも人間に希望を与えてくれるから。
● 美術工芸領域 日本画
▶︎ デザイン領域 アニメーション、マンガ、キャラクターデザイン
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