INTERVIEW2021.11.26

アート

若手アーティストと共闘し進化する ― ギャラリスト・李沙耶さん:卒業生からのメッセージ

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  • 京都芸術大学 広報課

若手アーティストを積極的に紹介するコマーシャルギャラリー「LEESAYA」のディレクターを務める李沙耶(り・さや)さん。
2012年度に京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)美術工芸学科を卒業後、ギャラリストとしての活動をはじめ、2019年10月、東京・下目黒に「LEESAYA」を開廊しました。入学当初は作家になることを志していたと話す李さんに、在学中のエピソードやギャラリストの道を歩むまでの経緯、そして今後の目標についてインタビューを行いました。

LEESAYA

住所:東京都目黒区下目黒3–14–2
電話:03-6881-4389
開館時間:12:00~19:00(日 ~17:00)
休館日:月、火、祝
URL:http://www.leesaya.jp

― 本学に進学しようと思ったきっかけを教えてください。

まずひとつめに、青木芳昭先生の影響が大きいですね。高校時代に青木先生が運営する「中央美術研究所」という美術予備校に通っていたのですが、この予備校が少し変わっていて。単に芸術大学に合格するためだけに美術を学ぶのではなく、絵の具を一から素材で作ったりと、自分が何を使って何を描いているのか、ということを常に考えさせられるような指導がありました。絵画技法材料研究を専門とされている青木先生から、画材の質によって作品の保存状態が変わることを教えられ、絵画を文化、美術、歴史として残すためには、作家が素材の特性を理解し、物質としての絵画が何によって成り立っているのかということに意識を向ける必要があることを学びました。

絵を描くだけではなくて、残していく努力を予備校時代から教わっていたので、青木先生のいらっしゃる大学に入学すれば楽しいだろうな、勉強になるだろうなと考え、当時の京都造形芸術大学への進学を決めました。

ふたつめとしては、やっぱり京都芸術大学って芸術大学としてすごく変わっていて、そんな面白い大学に惹かれたからですかね。椿昇先生が「とにかく横のつながりを大事にしろ、それが絶対将来の助けになるから」とずっと仰っていて。その言葉通り、1年生から全学科混合のクラス編成で “ねぶた” を作るじゃないですか。普通の芸術大学としてはあまりない光景で、すごい変な大学だなと思いました。やたら先生たちも派手ですし(笑)。私が在学していたころは、相原信洋先生や田名網敬一先生といった、いわゆるスターアーティストの先生が普通にキャンパスで歩いていて。今でも名だたる先生方が集まっていらっしゃいますが、すごいなと思うのと同時に、変なの~と思っていました(笑)。
あと、単純に京都での学生生活に憧れてたっていうのもありますけどね!(笑)

 

ウルトラファクトリーとの出会い

― 入学前後で変化したことはありますか?

入学前は作家として食べていくことを志していたのですが、美術工芸学科で学ぶうちに、私はキャンバスに向き合って自分自身を掘り下げる自己理解のプロセスよりも、誰かと話して意見を交わすことで自己理解するプロセスの方が向いているなということにだんだんと気が付いてきました。

また、私は二浪していたこともあり、予備校時代に毎日朝から晩まで散々模写やデッサンをこなしてきていたので、いざ大学に入学して、また基礎的なデッサンから授業が始まったことにショックを受けてしまいました。今思えば同じデッサンでも、また違った取り組み方ができたと思うのですが、当時の私は悶々としてしまうことも多くあって、美術工芸学科にいることが少ししんどかったんです。そんなときにウルトラファクトリー立ち上げのキックオフミーティングがあったんですよ。周りもみんな「なんだ?ウルトラファクトリーって」とざわざわしていました。

試しに参加してみたら、椿先生が世界の美術マーケットの話とか、アーティストがアート業界で生き抜くための姿勢についてマシンガントークで喋られるわけですよ。こういうことを言ってくれる人は私の周りにいなかったな、この世界は教わってこなかったなと気づいて。椿先生の見ている世界は自分が見ている世界と全然違って驚愕しました。その衝撃は今でも鮮明に覚えています。

ウルトラファクトリー開設。第一期生の集合写真。


今ではリサーチ不足だなと思うのですが、当時ヤノベケンジ先生や椿先生が大学にいることもあまりよくわかっていませんでした。私の実家が茨城県の水戸芸術館に近いところにあるのですが、おふたりともその美術館で展覧会をされていて。高校生の時に知らず知らずのうちに訪れた椿先生の「国連少年」展は未だに記憶に残っていて、人生が変わるほどの展覧会でした。

キックオフミーティングで椿先生のお話を聞くうちに “あの展覧会の人だ!” とつながり、これはなにかのお導きかもしれないと運命を感じてしまい、“知らない世界があるんだったら知りたい!” と、ウルトラファクトリーに頑張って通ってみることにしました。

椿昇「国連少年」水戸芸術館現代美術ギャラリー、2003年

 

― では、ウルトラファクトリーの第一期生なのですね!

そうなんです。だからウルトラプロジェクトには1回目から参加しています。私が1年生の時にウルトラファクトリーが出来たので、4年間を通してウルトラプロジェクトざんまいでした。数々のプロジェクトをやりすぎて、もう何をやったか思い出せないくらい(笑)。

その中でも「劇団パパ・タラフマラ」の舞台美術のプロジェクトは一番過酷でした… 普通、美術品は観賞が目的なので手で触れないものですが、舞台美術はある意味特殊です。役者が身につけて成立するものもあったり、小道具として投げたり回したりするようなものを作らないといけなかったので、ヤノベ先生自身も初めてすることが多かったですし、ウルトラファクトリーのスタッフもノウハウがなくて。先生たちに「導かれる」というよりは、一緒に考えて実験的に作っていくような状況でした。

毎日ウルトラファクトリーに通い詰めて制作を進めました。
プロジェクトの修了会で、思わず涙する李さん。
ガリバー&スウィフト〜作家ジョナサン・スウィフトの猫・料理法(2008年)


舞台なので公演日も決まっていますし、絶対に失敗が許されません。本当にあの時期はずーっとウルトラファクトリーで制作をしていました。大変だったけど、やっぱり楽しかったという気持ちが一番に残っています。
思えばパパ・タラフマラのプロジェクトで一緒だった人が今でも仲がいい友人かもしれません。先日もメンバーの家に行ってBBQをしました!みんなで修羅場を乗り越えたからこその絆みたいなものがありますね。

1年生の時は、ねぶたとウルトラの両立が大変でしたが、3年生にもなると授業も自分で調整できるようになってきて、よく個別でヤノベ先生の手伝いをするようになりました。
ヤノベ先生から「ラッキードラゴンの羽の部分を作ってくれや」と言われ、「じゃあ、夏休みの帰省から戻ったらやりますわ」みたいな感じで(笑)。ヤノベ先生とはときどき喧嘩しながらもやっていたな~(笑)。4年生の時は、ウルトラとは関係ないんですけど、釜山ビエンナーレの搬入に、ヤノベ先生との個人的なつながりで連れて行ってもらったりもしました。結果的に、搬出は私一人と現地のスタッフの方々とでやったりしていましたね(笑)。

《ラッキードラゴン》を組み立てるヤノベ先生と李さん。
釜山ビエンナーレ搬入時の様子。


ウルトラプロジェクトが今も続いて多くの学生が応募するようになったのは、先生方やスタッフのみなさんが試行錯誤をして、ある程度の成功体験を用意してくれているからだと感じます。達成感や成功体験って、意外とがむしゃらにやっても得られないことが多いので、個人的にはそんな体験を学生のうちからできたことは代えがたい経験だなと思っています。


― ウルトラプロジェクトがない時はどんな学生生活でしたか。

実はプロジェクトがないときもウルトラファクトリーにずっといました(笑)。“FRP(繊維強化プラスチック)で立体ってどうやって作るのだろう” と疑問に思えば、ヤノベ先生の制作手法を間近で見て体験して、自分の作品に落とし込んで制作するとか。そうするうちに気がつけば、油画の教室で油絵を描くのではなくて、ウルトラファクトリーで樹脂を扱ったり溶接をする学生生活になっていました。

“大変”より“楽しい”の思い出が残るウルトラプロジェクト。
さまざまな素材を扱うきっかけとなったウルトラファクトリー。


とはいえ、美術工芸学科から完全に離れたかというとそうではありません。
入学後にも青木先生にはお世話になっていて、大学に行けば青木先生の研究室にお邪魔していました。青木先生から毎日のように聞く素材研究のお話のおかげで、自然と絵画以外で使う素材にも興味が広がり、ウルトラファクトリーで鉄や木などさまざまな素材に触れることにつながりました。美術工芸学科の課題で描いた油絵を飾るための額縁を、木工室に通って自分で作ってみたりもしましたね。ウルトラファクトリーのおかげで、美術工芸学科の学びが外に広がっていった感覚です。


当たり前なのですが、木って一回切るともうくっつかないんだとか、あらゆる素材を実際に扱ってみて、その手間やコストをウルトラファクトリーで学ぶことができました。それは今の仕事にも活きていて、作家からの制作や価格相談がくるときも、あらゆる素材を扱った経験が考える基盤になっているなと感じます。

 

 

悩みに悩んだ進路選択

― ギャラリストとして活躍する李さん。進路選択はスムーズでしたか?

いえいえ。進路選択はめちゃくちゃ迷いました…。
就職活動の手はじめに大規模な合同企業説明会に行って、わたし、絶望しちゃったんです。みんな同じスーツを着て、同じ髪型で、薄い化粧で。私は大学でいろんな人がいていいって教わってきたはずなのに、また順位をつけられる世界に戻るんだと悲しくなってしまい、一社も話を聞けずに帰ってきてしまいました。だから就職活動はいわゆる正規ルートはやめようと決心しました。

とはいえ、私はウルトラファクトリーに集まってくる優秀な学生たちと比べて、人間としての魅力も実力もなにもないと思っていて。当時は物流の波が来ていたし、運転も嫌いじゃないからトラックの運転手もいいな、ウルトラファクトリーで免許もとったから溶接工でもいいかも、といった風に消去法で就職先を探していました。

そうした私を見るに見かねたヤノベ先生から「ほんとにそれがお前のやりたいことなのか」と聞かれ、「僕の所属するギャラリーで人が足りていないから、インターンシップに行ってみるか」と「山本現代」(現在はANOMALY:アノマリー)を紹介していただきました。
そこで「山本現代」のギャラリスト・山本裕子さんと出会って、“この人と一緒に働かないと人生後悔するな” と感じました。インターンシップが終わった後も、どう考えても山本さんのもとで働くこと以外のイメージが湧かなくて。まともなメール一つ打てなかった私ですが、なんとか無理やり就職させてもらいました。
 

― ヤノベ先生の導きもあったのですね。

そういえばヤノベ先生になぜギャラリーを薦めてくれたのか聞いたことがないな… あ、でも、わたしの唯一得意なことは飲み会の幹事だったんですよ(笑)。スケジュール管理が得意で、生意気にもヤノベ先生に「このペースじゃ間に合わないじゃないですか」と言うくらい。マネジメントが得意なところや飲み会の幹事キャラだった私を見てギャラリストに向いていると思ったのかも(笑)。

私自身、ヤノベ先生に紹介されるまではギャラリストの道を考えていなかったのですが、振り返れば、私はいつも新しい人や考えとの出会いを求めていて、自分が知らない世界を知りたいという気持ちがこの仕事につながったのだと思います。

まだ途中ですが、虫の目から徐々に鳥の目を手に入れていっているような感覚があります。予備校では素材を学び、大学では制作全体を学び、仕事ではアーティストを支え、そして作品を売る人へ、と。さらに今の興味関心はマーケットや美術史にまで及んでおり、どんどん世界が広がっていっているような気がします。

 

 

「山本現代」から「LEESAYA」の立ち上げまで

― 「山本現代」でのお仕事はいかがでしたか。

「山本現代」には7年ほど勤めました。やっぱり一番の財産は「山本現代」という歴史のあるギャラリーで働けたおかげで、いろんな人に出会えたことかな。20代そこそこの小娘が大手企業の社長さんに会えたり、世界的に有名なコレクターの方と一緒に食事もできちゃうわけですよね。自分の力では到底会えそうにもない人に普通に出会えて、日本をどうしていこうか考えているような方々のお話を同じ空気を吸いながら聞けたことは大きな経験です。自分で一から独立してやっているとなかなかすぐにそういった経験はできないので。みなさん、私が立ち上げたギャラリーのこけら落としの展覧会の初日にも来てくださり、感動しました。

 

― 独立に踏み切ったきっかけを教えてください。

大きなきっかけになったのは「山本現代」が合併したことです。「山本現代」は「URANO」「ハシモトアートオフィス」のふたつのギャラリーと2018年に合併し、「ANOMALY」という新たなギャラリーに生まれ変わりました。尊敬するボスの世代がなにかを変えようと挑戦しているわけですから、自分の世代もなにか新しいことができないかと思うようになりました。

2019年10月「LEESAYA」が開廊。
ヤノベ先生や「ANOMALY」からの開廊祝い。


また、ギャラリストとして働く中で、自分の世代の若手アーティストへのフォローが足りていないことに問題意識を抱いていました。20~30代のアーティストと長期的に一緒に働くコマーシャルギャラリーが少ないんです。「山本現代」で働いていた時に、友人のアーティストからよく相談を受けることがあったのですが、十分に応えられないもどかしさがありました。ギャラリストとしての自分自身の在り方について色々と考え、「ANOMALY」の立ち上げに1年だけ関わらせていただき、自分のギャラリー「LEESAYA」を2019年10月にオープンしました。
 

― 独立してから大変だったことはありますか?

う~ん、ずっと楽しんでやっているからな~。あ、でもオープン直後に、コロナの波が押し寄せてきたときはすこし焦りましたね。世の中が全部クローズしてしまって、予定していたアートフェアにも行けなくて。売上がゼロだった時期が2ヶ月くらい続いたので、あの時はさすがに“家賃どうしよう”とヒヤヒヤしました。

まあ、それもなんとかなったし…大変なことは、今のところないかもしれません(笑)。忙しくて大変なことはうれしいことなので。今は緊急事態宣言も緩和されて、東京都以外のお客様も戻りつつあります。
 

― 大学での経験が今の仕事につながっていることがあれば聞かせてください。

私のギャラリーのアートディレクションを担当してくれている中家寿之さんも「パパ・タラフマラ」プロジェクトで一緒に奮闘した仲間ですし、在学中に仲良くしていた作家の多くがうちの所属アーティストになってくれています。例えば金光男さんは学年は違えど、在学中から仲が良かった一人です。

今年の8月に「LEESAYA」で開催した「山中suplex(やまなかスープレックス)」のグループ展「血の塩/Salt of the Blood」でご一緒した石黒健一さんとは、学生時代に一緒に学外でアトリエを借りていました。学年でいうと3年も離れていますし、一緒に過ごした時間でいうとわずかなのですが、温泉旅行やキャンプに行ったりと、関係が緩やかに続いていました。そして10年越しに自分が独立したギャラリーで展覧会をやってくれるなんて、本当にご縁だなと。有難いことです。

※参考:ヤノベケンジの龍がつくる新たな伝説と福知山の光のネットワーク「ALTERNATIVE KYOTO もうひとつの京都」(https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/905

2021年8月21日から9月11日にかけて展示された山中suplexによる「血の塩/Salt of the Blood」。


友人ではないですが、ヤノベ先生にはウルトラプロジェクトでみっちり指導していただいて、自分の人生において大事なことをたくさん教わり、深いお付き合いになりました。ギャラリーに就職した後も、ヤノベ先生の作家担当をさせてもらい、ウルトラファクトリーでこれまた喧嘩しながら(笑)、ゴールに向かって伴奏するのは卒業後も変わらない光景でした。

 

ヤノベ先生と在学中の李さん。
ヤノベ先生にお祝いのケーキ!


私の今の仕事はマンデイのねぶた制作で出会った友人やウルトラファクトリーで知り合った作家など、横のつながりで支えられているので、このつながりを作ってくれた京都芸術大学には感謝しかありません。

 

 

「LEESAYA」のこれから

― 今後の目標を教えてください。

悲観的になっているわけではないのですが、事実として日本のマーケットは今後それほど大きくならない状況で、今のままのシステムに依存する生き方に疑問を持っています。活動の幅は日本だけではなく、韓国や中国など東アジアを中心に広げていきたいです。世界中のさまざまなエリアで仕事をしていきたいという経営者としての考えがひとつあります。

アートフェア「DELTA2021」会場、FL田SHとの合同ブースにて。


ギャラリストとしては、ジャンルや表現の境目なく、芸術として価値のあるものを紹介していきたいです。実は扱う素材やジャンルによって作品に大きな溝があるんです。例えば版画の作品はやたら安い、陶芸作品はアート作品として売りづらいとか。

「ジャンル横断」という言葉が一時期はやりましたが、「横断」という言葉自体がおかしいと考えています。互いに影響し合いながらひとつの世界で生きているはずなのに、なぜ境目をつけるのだろうという違和感を感じていて、今はジャンルにおける制約や問題をなるべくフラットにしたいと思っています。

だから「LEESAYA」では素材や売りやすさにこだわらず、ファッションアイテムとしてのアート作品を展示したり、陶芸も版画も彫刻もとにかくアートに関わるものは境なく扱っています。
 

― 在学生へのメッセージ

そうですね… 「得意なこと」をするのがいいと思います。社会に出ると、あれもこれもなんでもやれって言われるけど、全部デキる人なんていないし、私も苦手なことがたくさんあります。得意なことを極めていれば、需要と共有がフィットするタイミングが必ず来ます。だから私はいまだに飲み会の幹事をやりまくっています(笑)。

あともう一つ言いたいのは、せっかく自分が好きな芸術という分野に出会って、せっかく自分で決めて学んでいるんだから、それだけで十分幸せじゃん、と。自分が好きなことさえ見つけられない人も多いわけで、それを見つけられて、しかも自分の好きなことができているなんて超奇跡だと思います。稼げない、制作がうまくいかない、とかいろいろあるけれど、あまり世の中や自分に悲観しなくていいレベルの場所にいますよと言ってあげたいです。

 

 

取材中に「私にはなにもないので、ただただご縁のおかげで成り立っています」と度々仰っていた李さん。その“ご縁”があるのも、李さんが着々と積み上げられてきた経験や築き上げられた関係、そして何事にも真摯に向き合うお人柄からなのではないでしょうか。

独立して2年経った今、情勢もあってコミットできていなかった海外市場に進出するため、海外のアートフェアをリサーチ中。国内では、11月下旬に現代美術のアートフェア「DELTA 2021」に参加されるとか。アートフェア「DELTA」は既存のアートフェアとは異なる視点を持って、ギャラリーとコレクター、アートファンを繋ぐ新しい「場」の創造を目的に発足されたものです。美術ファンの方もアートとは縁のない方も楽しんでいただけるフェアとなっております。「LEESAYA」が紹介する唯一無二の若手アーティストにぜひご注目ください。

DELTA 2021

DELTA Executive Committeeが主催する現代美術のアートフェア。新進気鋭のギャラリーから日本の現代美術を牽引してきたギャラリーなど、16軒(大阪3軒、京都3軒、東京10軒)が集結。次代のギャラリスト、ディレクター陣が独自の審美眼で選びぬいた作品が一堂に会します。

会場 シーサイドスタジオCASO
住所 大阪市港区海岸通二丁目7-23
会期 2021年11月26日(金) ‒ 28日(日)
プレビュー 25日(木) 16:00-19:00 ※招待者、関係者のみ入場可
一般公開 26日(金) 14:00-20:00、27日(土) 12:00-19:00、28日(日) 12:00-18:00

https://delta-art.net/

 

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