REPORT2020.08.12

京都歴史

現地の声に耳を傾ける ― ウトロ地区「再開発」

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  • 永尾 祐人

(取材・文:文芸表現学科3年生 永尾祐人)

 京都芸術大学 文芸表現学科 中村純ゼミ(編集・取材執筆)では、「ことばと芸術で社会を変革する-SDGs(※)の実践」をテーマに取材執筆をして、発信する活動を行っています。
※SDGs(Sustainable Development Goals)

 2015年9月の国連サミットで採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」において記載されている2016年から2030年までの国際目標。地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットからその目標は構成されています。
※京都芸術大学SDGs推進室:https://www.kyoto-art.ac.jp/info/research/sdgs/

 2019年度後期授業では、大阪 鶴橋、京都 崇仁・東九条などの地域へ学生が実際に足を運び、インタビューやフィールドワークを行っています。今回は2019年11月30日、京都府宇治市ウトロ地区出身の在日コリアン三世である、世界的プロパフォーマーの「ちゃんへん.」さんにお話を伺ってきました。


ちゃんへん.さんとの出会い

 今回ちゃんへん.さんにお話を伺うきっかけとなったのは、2019年11月3日に京都市立凌風小学校・中学校を会場に行われた「東九条マダン」だった。

 京都駅の南に位置する東九条は、京都で最も多くの在日コリアンが住む地域である。マダン”とは“広場”の意味。「東九条で、韓国・朝鮮人と日本人がひとつのマダンに集い一つになって、みんなのまつりを実現したい」という思いをこめて「東九条マダン」と名付けられた。

 現在は、コリア文化だけでなく様々な文化的背景を持つ人々が、それらを楽しく表現できる場として存在している。ゼミの一環として、このイベントに学生たちで足を運んだ際、ちゃんへん.さんがジャグリングをステージで披露している姿が目に飛び込んできた。パフォーマンス終了後に「ぜひインタビューをしたい!」と本人に話を持ちかけてみたところ、快く了承してくださり、同年11月某日ヴェルディ京都造形芸術大学(現名称:京都芸術大学)店にて取材を行った。

 ちゃんへん.さんは中学2年生の頃にジャグリングと出会い、パフォーマーを目指して独学で技や芸を学び始めた。練習を積み重ねていく中で、半年後に地域のイベントに出演することとなり、そこで初めての舞台を経験した。

 ちゃんへん.さんが一躍有名になったのは「大道芸ワールドカップ2002」である。最年少となる17歳で出場し、観客の人気投票で1位を獲得。その後プロパフォーマーとして活動の幅を広げていった。高校卒業後には海外での活動も増え、これまでに世界82カ国と地域で講演を行う。2010年に行われた「第50回ムーンバフェスティバル」では最優秀パフォーマー賞を受賞。現在は国内外を問わず年間200を越える公演を行い、幅広く活動している。

第27回東九条マダンにてパフォーマンス中のちゃんへん.さん


ちゃんへん.さんの出身『ウトロ地区』の始まり

 ちゃんへん.さんは、ウトロ地区出身の在日コリアン三世である。

 京都府宇治市にあるウトロ地区は、戦時中の1940年頃に飛行場計画があった場所だった。多くの朝鮮人が建設労働力として動員され、その家族とともに生活した飯場である。

 1945年に日本は第二次世界大戦で敗戦したが、アメリカはこれ以上日本が暴走しないように軍事施設を徴収。ウトロ地区の隣に自衛隊が存在しているが、それは飛行場計画があった場所の名残なのだ。

 GHQからすると、この場所は大して重要な場所ではなかった。そしてそこにいるのは殆ど朝鮮人だったためGHQから放置の対応を受け、自分たちはどうすればいいのだろうかと、ただ指示が出されるのを待つ以外方法がなかった。

 しかし、1950年に朝鮮戦争が始まり、朝鮮半島に帰りたくても帰れない状況が生まれてしまう。その結果、雨風を凌ぐために一時的に自衛隊大久保駐屯地の北隣にプレハブ小屋を作ることになる。

 ここでおさえなければならないことは、好きでこのエリアにプレハブ小屋を建て住みついたわけではないということだ。

 1953年に朝鮮戦争が休戦したものの、当時の人はまだ朝鮮半島へ帰ることができず、今より良い家を作り、それが徐々に街へと発展を遂げていく。しかしそこは元々日本の土地であり、後になって朝鮮人が勝手に不法的に住んでいるという構図になっていった。これがいわゆる「ウトロ地区問題」の始まりであった。

 戦争中は日韓併合により、朝鮮半島出身者は「日本人」とされていた。しかし日本の敗戦後、旧植民地出身者は、日本国籍を剥奪されて無権利状態になった。

 ウトロは、飯場で住居付き労働現場だったが、その土地は民間企業に売り渡されたため、退去しなければならなくなった。しかし、そこに住み、働いていた旧植民地出身者には、何の補償もなく、ほかの働き口もなく、そこに残らざるを得なかったのだ。

 法的に見てしまえば「不法占拠ですよ」と簡単に片付けられてしまうが、当時の朝鮮人の方からすると「自分たちは日本に来ざるを得なかった」という意見があった。裁判になったときには不法占拠に見られるかもしれないが、それに至る経緯を見れば、朝鮮人は勝手に移り住もうと思ってやって来たわけではないのだ。

 日本政府による徴用令により1941年から始まった朝鮮人強制労働の犠牲者、またはその子孫が、今もなおウトロ地区に住んでいる。ウトロ地区の形成は、戦時中に軍の飛行場建設労働者たちが不毛の地だったこの地域に仮住まいを始めたことがきっかけだった。

 当時の彼らにとっては、やむを得なかった判断であり、これを「不法占拠だ」の一点張りで日本人が土地から追い出そうとするのは、あまりに勝手すぎる行動であると考えられる。

 これが法律の非常に難しい点である。

 このような土地問題や裁判などに注目した韓国政府は募金などを集め、それをウトロ地区に寄付することとなる。あくまで募金を行ったのは韓国政府であり、日本政府ではないことをご理解いただきたい。そのお金でウトロ地区の半分の土地は解決されているが、再開発が今でも行われている状況であり、マンションなどが建築され徐々に外見は綺麗になっている。

 

コミュニティの崩壊

 2011年、東日本大震災が発生し多くの地域が甚大な被害を受けた。避難活動が始まり、ちゃんへん.さんも実際に被災地や避難所に訪れパフォーマンスを行った。

 避難所の次は仮設住宅になり、その後復興住宅へと移っていく被災者を見ている中で多くの人が「前の仮設住宅の方が良かった」と声が上がった。徐々に復興していく中で、ちゃんへん.さんは出身であるウトロ地区と似ている点を感じたという。

 パフォーマンス活動を行っていく際に世界で15個ほどのスラム街を訪れたことがあり、そこで必ずする質問があるという。

「この場所、自殺多いですか?」

 スラム街では自殺という言葉を全く聞かず、貧しい国や地域であればあるほど自殺率は低い。その点について考えた結果、昔の人々は隣の家の人と交流が盛んで、非常に近場のコミュニティが成り立っている。スラム街も同じでコミュニティがしっかりしているのだという。困っている人がいたら「大丈夫ですか?」と声がかけられる。最近は孤独死が存在するなど、コミュニティがしっかり機能していない面がある。

 震災で例えると、まず震災が起きることによってひとつのコミュニティが壊れる。そして被災地や避難所に訪れると、そこでコミュニティが成立している。しかし次に仮設住宅に移ると築いたコミュニティがなくなってしまう。するとまた仮設住宅でコミュニティが成り立ち、また次に復興住宅へと移っていく。そこがゴールみたいなもので、あまり交流をしなくなると、現地の人の声を聞いた。

 まとめると、最低でも3回ほどコミュニティが潰されていることになる。結果、鬱になる人が増えたり、やはり人と関わっていた時期の方が良かった、という声が多く上がってきたという。何度も苦しい思いを経験する中で積もっていく声は、非常に重みのあるものである。

熱心にお話してくださった ちゃんへん.さん

 

「再開発」の実情と現地の声

 ウトロ地区で唯一生き残っている在日コリアン一世の方と、ウトロ地区に新しくできたマンションを見に行ったというちゃんへん.さん。まだ工事の途中で整備されていない地面とアスファルトの境目があり、アスファルトに足を踏み入れた瞬間に一世の方が「うわ、歩きにくいな」と一言目に発し、ちゃんへん.さんは衝撃のあまり「え、こんな地面が歩きにくいの?」と聞いたという。一世の方からすると半世紀、70年以上なにも整備されていない地面を歩いていて、足がそれに慣れてしまっていたのだろう。

 その後も環境の変化だったのかもしれないが、マンションの部屋に入り一世の方がクローゼットや台所を確認した後にベッドに座り、小さな声で「前の家の方が良かったな」と発した。この方の家は窓ガラスも割れていて、天井も崩壊しそうな程で、雨が降れば少し雨漏りするという。

 住むという意味で見ればマンションの方が良さそうに見えてしまうだろう。しかし一世の人からすれば、日本に渡ってきて自分の家が建った時のことも覚えていて、両親が一生懸命にウトロという街を作っていく姿も見てきた。その上で半世紀以上同じ家で住み続けていた。

 ちゃんへん.さんも同じで、自分の家が取り壊される日にその場に訪れ様子を眺めていると、始めのうちは「壊されていくなあ」と思っていたのだが、その場で1つちゃんへん.さんの目に留まったものがあった。それは幼い頃に身長記録などをペンでよく書いていたという家の柱だった。それが勢いよく折れた時に、ちゃんへん.さんは涙を流した。自分の家が壊されているはずなのに、自分の身体の一部が壊されているような感覚に襲われたという。なにか物が崩れていく瞬間というのはいとも簡単に形がなくなってしまうが、心の中に残っている思い出はそう簡単に壊れはしないものなのだ。

 その日のできごとを思い出した時に、一世の方は自分が思っている以上に身体の一部が壊されていたのではないだろうかと感じ、それを機に新しい団地に移り住んでからというもの、その方に全く元気がないという。

 

コミュニティを機能させる「思いやり」

 このように復興や発展開発は順調に前に進んでいるように感じるが、人の幸せというものは良い車に乗ったり、良い家に住んだり、良いアクセサリーを身につけたりすることとは、直結しないのではないだろうか。地域のコミュニティが壊れていくことには、おそらく在日コリアン一世の方も反対だったのではないだろうか。

 しかしその想いは、外から来た人たちのウトロ地区を守ろうという強い気持ちや行動を前に、伝えられなくなってしまったのではないだろうか、と私は考える。

 これからの時代、私たちにも起こりうるできごとだ。実際に住んでいる人たちの声に耳を傾け、手を取り合う。それが今、先進国が注視すべき課題であろう。スラム街や復興住宅の人たちの話を聞いた上で共通しているのは「コミュニティがしっかりしていた」という点。現代人が忘れている本当の思いやりを築くことで、これまで以上にコミュニティはしっかりと機能し、明るく優しい世界が作れるだろう。そのために私たち芸術を学ぶ者に何ができるのか。これからも芸術を学ぶ身として常に意識していきたい。

 

『ぼくは挑戦人』ホーム社

16歳でプロデビューを果たしたジャグリングパフォーマーちゃんへん.さんによる著書。

これまでのいじめ体験、そして自らのアイデンティティに悩みながら、世界を巡る中でその答えを見出したちゃんへん.さん半生を振り返る一冊。※8月26日刊行

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ジャグリングパフォーマーちゃんへん.公式HP

 

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  • 永尾 祐人Yuto Nagao

    1999年大阪府生まれ。文芸表現学科2018年度入学。学科の学びだけでなく、舞台・音楽・映像など様々な分野を日々学んでいる。周りの人から「何でも屋」と言われることが多い。好きな食べ物は唐揚げ。

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