REPORT2020.07.31

京都歴史

刃物となる言葉、平和を紡ぐ言葉 — 崇仁フィールドワーク

edited by
  • 滝田 由凪
  • 朝倉 みなみ
  • 永尾 祐人
  • 一丸 野々香
  • 後藤 英治
  • 小山 浩暉

(取材・文:文芸表現学科 3年 滝田由凪、朝倉みなみ、永尾祐人、一丸野々香、後藤英治、4年 小山浩暉)

 京都芸術大学 文芸表現学科 中村純ゼミ(編集・取材執筆)では、「ことばと芸術で社会を変革する-SDGs(※)の実践」をテーマに取材執筆をして、発信する活動を行っています。
※SDGs(Sustainable Development Goals)

 2015年9月の国連サミットで採択された「我々の世界を変革する:持続可能な開発のための2030アジェンダ」において記載されている2016年から2030年までの国際目標。地球上の誰一人として取り残さない(leave no one behind)持続可能な世界を実現するための17のゴール・169のターゲットからその目標は構成されています。
※京都芸術大学SDGs推進室:https://www.kyoto-art.ac.jp/info/research/sdgs/

 2019年12月、私たちは、地域情報誌『崇仁 ~ひと・まち・れきし~』を発行している崇仁発信実行委員会代表の藤尾まさよさんの案内で、京都駅南東の崇仁地区をフィールドワークしました。


はじめに 崇仁地区とは

 京都駅から東に10分足らず。京都駅の喧騒が嘘のような閑静な住宅地が広がる。ここは崇仁地区。同和対策事業の対象となっていた地区だ。歴史的に差別的な扱いを受けてきた地域だが、2023年に京都市立芸術大学の移転が計画されており、その南側に位置する東九条地域にはTHEATRE  E9  KYOTO(シアターEナインキョウト)という新たな劇場が建てられるなど、文化芸術によるまちづくりが進められている。

 今回フィールドワークで講義をしてくださったのは、藤尾(ふじお)まさよさんだ。
自身の出身である崇仁地区で、地域での活動を記録したフリーペーパー『崇仁 ~ひと・まち・れきし~』を制作。崇仁地区を実際に歩きながら伝えるフィールドワーク、学生たちへの講義などを通し崇仁地区を知ってもらう活動をしている。そこからひとりひとりが住みやすく、繋がれる地域応援をしてくれたら、という思いをもっている。

 

― そもそもなぜ、京都芸術大学の文芸表現学科、中村純ゼミの私たちが崇仁を訪れたのか。

・「被差別部落と呼ばれる地域があること」は知っているものの、よく考えたことがない問題だったから。
・同和教育を受けたことはあるが、その地域を実際に訪れたことはなく、より深く知りたいと考えたから。
・文化芸術によるまちづくりが推進されているが、アートと地域の関わりについて考えたいから。
・地元の方はこれからの街の変化やアーティストたちとの共存について、どのように考えているのか、生の声を聞きたいから。
 

 これらの点を踏まえて、私たちは崇仁地区に向かった。

柳原銀行は、被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行。現在は地域の歴史や文化を展示、紹介する記念資料館として使われている

 東京出身の私は、私たちが訪れた崇仁地区をはじめ、日本各地で今もなお残る特定の地域への差別の考えについて、下調べの段階で既に衝撃を受けていた。戦時中、もっとさかのぼれば江戸時代の身分差別等の時代背景をまだ引きずる地域があるということ、社会に出ても「あの地域の人だから……」と陰で言われたり、働きにくい環境、住みにくい環境が現代の日本においてもなお存在しているというのだ。

「昔の私は、ここの地域の人やったら差別されて当たり前と思っていた」という藤尾さんの言葉がとても胸に刺さり、同じ日本に暮らすのに、どうしてここまで考えや経験が違うのかと悲しい気持ちになった。

戦後、建設された改良住宅。近く取り壊される予定となっている

 

改良住宅が建設される以前の崇仁地区の住まい

 私たちの周りでは、身分階級構造はなく、ひとりひとりが自分の生活を営み、それぞれの幸せを感じている。
 その幸せを踏みにじるかのように、酷い言葉を浴びせたり、社会的差別をする人々。
 そして、その実態を知らなかった自分は、平和ボケしていたんだなと感じた。


同和問題(部落差別問題の行政用語)
同和対策審議会答申において「日本社会の歴史的発展の過程において形成された身分階級構造の差別により、日本国民の一部の集団が経済的・社会的・文化的に低位の状態におかれ、それらが現代社会においても名残が残っていること、市民的権利と自由を完全に保障されていないという深刻な社会問題」と記されている。

(文:滝田 由凪)


崇仁地区のこれまで

 藤尾さんの口から語られる被差別部落の歴史には、現代の私たちにとって衝撃的なものが多くあった。

 明治政府がおこなった身分解放令に不満を持った平民が被差別部落の民を襲った事件(解放令反対一揆)があったことや、未だに意識の奥底には差別の念が染みついてしまっている人もいるということなど、改めて認識したことがたくさんある。

 私たちがこの時代を生きるためにも、過去になにがあったのかを知るのはとても大切なこと。被差別部落のこれまでについて、藤尾さんから教えていただいたことを中心に見ていこう。

京都市下京いきいき市民活動センターにて、被差別部落の歴史について話を聞くゼミのメンバーたち

 

― オール・ロマンス事件

 藤尾さんの話に出てきた「オール・ロマンス事件」という言葉。私に聞き覚えはなかった。

 オール・ロマンス事件とは、当時九条保健所で衛生指導の仕事をしていた京都市職員が、1951年刊行の『オール・ロマンス』誌の10月号に掲載した『特殊部落』という小説がきっかけで起きた事件である。小説『特殊部落』の舞台は京都市の東七条。小説内で被差別部落はとんでもない無法地帯のように描かれていた。

 差別的な小説だとして抗議したのが、部落解放全国委員会の京都府連合会。東京のオール・ロマンス社に抗議し、根本原因は差別の実態を放置していた行政のあり方であることを明らかにした。このような糾弾闘争によって、京都市の同和事業は着手されたという。

 この事件について藤尾さんは――
「しかしその時代、私が生まれた時代には、人権学習なんてものはありませんでした。ですから、自治体職員といえども心の中に差別意識はあったんですね。それが見事に表れていました」と、語る。

 また、『特殊部落』の筆者は後に、部落解放運動家である三木一平宛に反省文を送っている。その内容は「私たちは今まで特定地区を差別してきたが、なぜ差別をしていたのか人権の勉強の最中考えてみると、それらにはなんら差別されるべき理由がない」というものだった。
 藤尾さんの言葉を借りるなら、彼は「意識をして正しい情報を取り入れる」ことができていなかったのだろう。そして今、私たちは「意識をして正しい情報を取り入れる」ことができているのだろうか。

 オール・ロマンス事件は、小説という芸術作品が火種となった事件である。このような痛ましい事件があったということを知ったうえで、私たちにはどのような表現が出来るのか。差別意識に対し、芸術という分野がどのように作用するのかを考え続けなければいけない。

参考:
平野一郎『オール・ロマンス事件差別行政の糾弾闘争』部落解放研究所、1988年
竹口等『我等の歌 崇仁歴史年表』阿吽社、2010年

(文:朝倉 みなみ)


すべての始まりは、自分がどう捉えるのか

 崇仁地域で生まれ育ち、部落問題を主とした講演活動を行っておられる藤尾まさよさん。この日は本学の教員である中村純先生引率の下、多文化共生プログラムの一環としてインタビューを行った。藤尾さんは、気付けば徐々に学生との距離も近くなっていたとても気さくで明るい方だ。

お話を伺った藤尾まさよさんの微笑みは、崇仁地区の歴史を伝えていこうという強い意思を内に宿しているよう

 実際に藤尾さんの講演を聞くと、自分にとって衝撃的な話が飛び出した。

「なんで差別するのか。自分が差別される側になるという不安のもとに差別する。自分が差別する側になっておけば差別されない、となんとなく思っている。だから差別する。それがどんどん残っていく」という、近畿大学の奥田均先生の言葉をよく覚えていると藤尾さんは言う。話は徐々に深くへと進んでいく。

 幼い頃は部落出身であるというだけで様々な差別を受け、当時差別の原因がわからずにいた藤尾さんは差別されるたびに涙を流したという。ここで問題となるのは、これが差別であると判断できず、無自覚に差別を行っている人間が多数存在しているという点だ。差別をする側にいる人間は、あくまで自分たちが部落出身ではないという不確かな理由のもとで話をしているのだと、関西学院大学の三浦耕吉朗先生が仰っていたという。今まで自分はどれだけ無自覚に差別を行ってきたのだろうと思い、心が非常に痛くなった。

 差別の際に生じる罵詈雑言で多くの人たちが簡単に命を奪われてきた。その一例となったのが、1923年に南関東地域を中心に大きな被害をもたらした関東大震災だ。

「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「この地震は朝鮮人が起こしたんだ」との噂が流れ、その言葉を鵜呑みにした人々によって、多くの朝鮮人が殺害された。

 みんなが言っているから、と鵜呑みにしてしまう人々にも非はあるが、非難すべきはその情報を最初に流した者だ。日常の些細な言葉が、何かが起こったときに大きな力となり、命までをも奪ってしまう。言葉は時に人を殺す刃物になってしまう。その刃物を学んでいる私たちにとって、この構造を重く受け止めねばならない。

 誰もが生きやすい世界を作るためには、良い世界を作ろうとする人間が必要だ。しかし現代、誰かが生きにくいと感じているということは、まだその考えを持つ人間が足りていないということなのだ。

 すべての始まりは、自分がどう捉えるのか。自身の言動が今の社会、これからの社会にどう繋がっていくのか。そこに意識を向け働きかけていくことが大切なのだ。

 平和を想う芸術という分野を学ぶにあたって、そのようなことを誰もが忘れてはならない。その意識が薄れた瞬間に芸術という分野は、非常に鋭い刃物へと姿を変えてしまうだろう。
他者を想い、優しい言葉で世界が溢れたのなら、芸術はきっと今以上により良いものへと姿を変えるはずだ。

(文:永尾 祐人)

 

実際の街並みと歴史

藤尾さんは、実際に崇仁地区を案内しながら、街の歴史や現状について語った

 崇仁地区の発祥は『六条村』と言い、七条通りの南側に位置する地域だった。高瀬川の沿いにあったその村は、川の近くということもあり皮革産業が栄えていき、産業が発展することで仕事を求めて多くの人が住むようになったのである。

 そんな昔栄えていた皮革産業も、技術が受け継がれていくこともなく、今では百軒以上あった皮革産業は西川屋商店という皮製品専門店一軒を残して、他は廃業していった。機械化や自動化が進み、職人が作った高価なものの需要が減っていくことで多くの技術や文化が廃れていく中、崇仁もその例外ではなかった。

 時代と共にその街並みも姿を変えつつある。

 昔は道路と道路の間に建つ家などユニークな家もあったそうだが、今ではもう解体され道の一部になっている。五十年前に建てられた改良住宅群も、市営住宅になった影響で家賃が収入に応じた額になり、必然的にはねあがった家賃のせいで出ていく人が増えた。狭く風呂もない市営住宅は、住む人もどんどん減少していき、今度解体されて京都市立芸術大学の校舎になる予定だと藤尾さんは言う。

 鴨川の近くにある崇仁小学校は、昔、崇仁の人々がお金を持ち寄り、知恵を出し合い、力を合わせ、自分の手で土を積み上げ作った小学校である。しかしその崇仁小学校も、来年度解体されることが決定しているそうだ。地域の99パーセントの人が通ったその学校は、多い年には全校生徒合わせて1300人もの生徒が通っていたそうだが、今から10年前、閉校した年には49人にまで減ってしまったという。その後、地域外の小学校と統合したが、時代が進み平成になっても部落差別を受けている崇仁の小学校と統合することを嫌がる人たちがいたと藤尾さんは語った。

 生まれたときから周囲の環境に刷り込まれた知識は、そう簡単に変えられるものではない。だからこそ自分で色んなことを知り色んなものを見て、自分で判断できるような人が増えれば、こういった前時代的な差別も減っていくのではないだろうか。

(文:一丸 野々香)

 

まとめ

「僕らがどんなに頑張ってもあかんのや。どうせ社会は認めてくれへんねや」

 この言葉は藤尾さんがPTAの役員を務めていた中学校の在校生、即ち15歳の若い生徒が言った言葉だ。もう15年前ほどになるが、この中学校の卒業生のひとりが、進学先の高校のクラスメイトに出身の学校や地域について差別的なことを言われたという。

 老若男女を問わず誰の心にも影を落とす「差別」。自分や家族、友人や身の回りの人々がこういった「差別」を受けたと思うと、私は胸の痛みが止まらない。

 そう強く願うからこそ、今回藤尾さんから伺ったお話が、生きていくうえでとても大事なことに感じられる。同時に、自分たちの生活意識を見直さなければならないとも思う。一日一日、日々を過ごしていく中で、ある物事やある人物のことを、思い込みや十分な知識をもたないままに判断してしまっていないだろうか。

「大切なことは、ひとつの物事に色々な視点をもち、あなたたちひとりひとりが自分の頭でしっかりと考えることです」藤尾さんの言葉は、私たちの心に反問の視点をもたせる。

 率直にいって、今の私たち全員に「差別」に対するこういった心構えができているとは到底思えない。そのため、自分の周りの大切な人々に辛い思いをさせないためにも、これから私たちは自身の頭を意識的にしっかりと働かせ毎日を生きていかなければならない。「差別」は曖昧な知識や無遠慮な無意識から生まれるもの。大切なことは、人を悲しませたくない、という心をもって自覚的に生きていくことのはずだ。

 また、私たち芸術表現を学ぶ人間は「差別」に対して無自覚であってはならないと思う。いつの世も、芸術は平和を愛する人の心のための学問だったとは、藤尾さんもおっしゃっていたことだ。人も物も溢れるこの現代に、私たちにはどういった表現活動ができるだろう。それはきっと大それたことではなく、誰かに悲しい思いをしてほしくないという願いに根ざしたことのはずだ。

 私たちは何を書くのだろう。小説、詩、エッセイ、インタビュー記事。様々なことについて、私たちは様々に言葉を紡ぐ。一文字一文字に心を遣い、時にはたった一語に多くの時間をかけ、私たちは言葉を紡いでいく。その営為に自分の奥底への深い眼差しは必要不可欠であるし、ましてや他者への思いやりはなくてはならないものだと思う。

 芸術が人に優劣をつけない平和を愛する学問である限り、私たちは誰かを悲しませないために、他人が無意識に人を傷つけないために、他者への思いやりと正確な知識をもって書き続けなければならない。

(文:後藤 英治)

(編集長:小山浩暉)

 

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    2000年東京生まれ。文芸表現学科2018年度入学。
    自分の中の引き出しを増やすべく、さまざまな事に興味関心をもつ。
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