もみじ綾なす真如堂の「お十夜」と特別誂えの和菓子【第2篇】-緑菴 こなし製 十夜鉦-[京の暮らしと和菓子 #29-2]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
第1篇はコチラから。
第2篇 令和元年 11月15日 お十夜結願大法要
真如堂に知る僧のある十夜かな 高浜虚子
これは真如堂お十夜を詠んだ虚子の句です。真如堂お十夜の由来と11月5日の開闢(かいびゃく)の法要については、第1篇でご紹介しましたので、まずは、そちらをご一読いただければと思いますが、「お十夜」は、じつは俳句の冬の季語ともなっています。天台宗の真如堂のお十夜がその起源とされますが、浄土宗寺院にも広がり、全国各地で行われる初冬の年中行事として、「お十夜」は多くの俳句に詠まれてきました。
この第2篇では、令和元年11月15日に行われた真如堂のお十夜結願大法要の一日を追いながら、今は見かけにくくなったかつてのお十夜の風景をも、俳句の中に見出しつつ辿っていきたいと思います。
冒頭の句について、俳句の研究者でもない私が、じつは勝手な解釈を持っています。虚子が熱心に通った比叡山延暦寺で知り合いとなった僧侶を、たまたま真如堂十夜法要に見とめた時の作句で、そしてその僧侶は、のちに真如堂貫主、延暦寺座主ともなられた渋谷慈鎧(じがい)師ではなかったかと。
いかに「お十夜発祥の寺」と人に知られた真如堂であっても、地元の熱心な念仏信者が詰めかける「お十夜」においては、虚子もまたよそ者の参拝者としての身の上であったわけでしょう。本堂内陣で法要を勤める僧侶の中に思いもよらず知り合いの姿を認めたことで、安堵のような親近感を持ったに違いありません。その付かず離れずの距離感をみごとに詠みあげた句と私には受け取れるのです。
改めて、檀家や信者でないよそ者である私も、今回、貫主の奥村慶淳様から特別のお許しをいただいての取材ではありますが、信者の方々の祈りを妨げることのないようにと、心せねばなりません。
今回もカメラの高橋さんとふたり、まずは境内に参集する人々の姿に、在りし日の「お十夜」をも垣間見ながら、本堂へと進んで参りましょう。
朝9時過ぎに山門をくぐりますと、11月5日の開闢から十日経ち、山内は一段と紅葉が進み、目にも鮮やかな景色が広がっていました。
1.お十夜と庶民の祈り
十夜婆山門に来て腰伸ばす 町田しげき
じつはこの「十夜婆(じゅうやばば)」も季語なのです。お十夜に熱心に通うのは、特におばあさんたちであることから、この言葉が生まれたのでしょうが、そのやや滑稽な生態を詠んだ俳句がたくさんあります。
姑の鬼もこもれる十夜かな 閑鵞
婆の眼をこすりこすりつ十夜講 高澤良一
十夜講お婆の白河夜船かな 高澤良一
本来のお十夜は夜を徹して念仏や法話が行われたのですが、そこに集う十夜婆たちの眠そうな、あるいはぐっすり寝込んでしまっている様子が詠まれています。また姑の鬼も十夜におこもりするとは面白い表現ですが、嫁に厳しい老女世代が詰めかけていたことの証しとも言えましょう。
俳句で詠まれたような十夜婆たちのおこもりの姿は、残念ながらもはや見ることはできません。
水張つて十夜盥に新塔婆 橋添やよひ
開闢の日にはなかった水の入った盥(たらい)が、回向柱(えこうばしら)の元に置かれていました。回向柱には、第1篇でも書きましたように、本尊秘仏の阿弥陀如来の御手につながる白い「善の綱」が結わえられています。この秘仏阿弥陀如来のお導きとお十夜法要の功徳をもって、先祖や物故者がどうか極楽へ往生することができますようにという祈りを込めた水塔婆なのです。
そこをさらに進むと、今度はまたおいしそうなものが並ぶテントが設えられています。十夜粥と十夜柿、十夜多幸(蛸)が授与されています。
十夜寺の門に市たつ田舎かな 尾崎迷堂
田舎に限らず、じつはかつて真如堂でも、境内、門前に多くの屋台が並んでいたと、貫主様から昔のお話を伺いました。いつしか屋台が出なくなったことで、元は本堂内で出していた十夜粥を本堂前の参道にテントの屋台を設けて授与するようになったということです。
前掛の人の出入り十夜がゆ 竹内悦子
割烹着をつけたご婦人方が十夜粥のお世話をされています。用意が整ったばかりの時間に、早速に頂戴することといたしました。
ほんのりとした塩味の小豆粥にお昆布の佃煮が添えられています。お十夜の結願の前夜から朝方まで続いた念仏に、その疲れた身体を癒すため、食べやすいようにと朝方作られたのが「十夜粥」と言われます。
十夜粥善女となりてすすりけり 森下清子
十夜粥美味しやぽつくりとは死ねず 木田千女
夜を徹した念仏は行われなくなったとはいえ、やはり季語ともなっている「十夜粥」は、結願の日の朝につきものの食事です。
そして、この「十夜粥」は、中風封じ、タレコ止めに効くと書かれます。タレコ止めとは、下の世話にならないということです。それにしても「タレコ止め」とはなんとも直截な言いようですが、この庶民性こそ、十夜婆の真面目とも言えましょう。
何より嫁や家族に迷惑をかけずに往生したいという、これは切なる十夜婆たちの願いなのです。
十夜粥の向かいには、やはり「お十夜」につきものの十夜柿と十夜多幸(蛸)が供されるテントが張られています。
お十夜の柿みな尖る盆の上 波多野爽波
たむろして熟柿すゝれる十夜婆々 河野静雲
お十夜の柿が荷物になりにけり 大石悦子
この柿についても、「お十夜」の俳句の中によく見られます。ちょうど柿の旬の時期でもあり、かつては「お十夜」の時期に立つ境内の露店で売られていたのでしょう。少し尖った形の赤く照った柿が並びます。
ところが、十夜多幸は俳句に全く詠まれません。それもそのはず、蛸は夏の季語なのですから、お十夜と蛸を一緒に詠みこむと、冬と夏の季語が交ざってしまうことになります。
でもなぜこの時期にわざわざ蛸を十夜多幸として食すのかと改めて調べてみると、マダコは、夏季だけでなく11月から1月頃の冬期も旬であることがわかりました。年中手に入る輸入物の冷凍蛸が当たり前となってしまっている昨今、こうした旬の季節感がすっかり失われていることに気づかされました。
今では他の具材も一緒にしたおでんも作られていますが、蛸が主役には違いありません。串に刺してあっさり煮られた蛸。少し寒くなったこの時期、柔らかい身からじわっと染み出すお出汁がほっとするお味です。
柿も蛸も、11月の旬を楽しむ「お十夜」ならではの庶民の味覚だったのでしょう。
ご本尊にお参りをする前というのに、好奇心のまま境内で見かけたものをなんとも次々口にしてしまい、もし今は亡き祖父母や両親がそばにいたら、きっと叱られたに違いないと思いつつ、ようやっと本堂へ向かう不信心者です。
さてこの本堂前には、大きな菩提樹が植わっております。昭和51年、京都巨樹名木に指定された樹ですが、これを詠んだものかと思われるお十夜の俳句もございます。俗にこの菩提樹の実を持って帰ると、身代わりの御守りになるとも言われているそうです。
菩提樹の下の天幕(テント)や十夜粥 平橋昌子
十夜冥加菩提樹の実も拾ひ得て 中川四明
見渡せば、私たちも含め、参拝者の多くが女性です。もちろん十夜婆などと呼べるような姿は見当たりませんが、真如堂のご本尊が、女人救済をお約束くださった阿弥陀様であることと、やはり関係があるのかもしれません。
そして本堂へと続く白い善の綱ですが、この綱に触れることで、本尊阿弥陀如来と直接にご縁を結ぶ有難い寄る辺となるものです。こうしたかつては言わずもがなであった習俗も、現代では知らない方も多いためでしょうか、この日は愛らしい阿弥陀様のイラストとともに説明の札が結びつけられていました。
善の綱は本堂内をさらに内陣へ、そして宮殿(くうでん)の中の阿弥陀如来へと続きます。午後からの法要の時間までには、まだかなり時間がありますが、お参りの方が三々五々集まり始めておられ、鉦講の方々の十夜鉦は、すでに始まっておりました。
今日だけの特別な功徳は、開帳された秘仏阿弥陀如来を、宮殿の高さまで間近に登って礼拝することができるというものです。すでに何人かの参拝者が阿弥陀如来の御前に登られ、深々と礼拝されておられました。
そして私たちもご本尊の宮殿前に上がらせていただきました。
ああ、なんと穏やかな平安仏のお姿でしょう。
第1篇でその来歴や制作された時代などについて詳述しましたが、真如堂の創建当初からの10世紀に遡るお像で、しかも現在最古の立像(りゅうぞう)形式の阿弥陀如来像です。
美術史的には、躰部のボリュームや衣文の彫りの深さなどに、やや古様を残しながらも、次の時代の様式、11世紀の定朝様(じょうちょうよう)に代表される、穏やかでバランスのとれた和様彫刻への道筋を、確実にうかがわせる作風です。
思わず魅せられてしまう、この洗練された美しいお姿ゆえに、女人救済の阿弥陀如来として、時代を超えて多くの女性の篤い信仰を集めてきたのではないだろうかと、改めて思い至りました。
十夜粥うけて南無阿弥陀仏かな 副島いみ子
そして、この仏前に蒔絵の施された美しい椀で供えられているのが、十夜粥です。開帳された秘仏の御前に参集して、一晩念仏を唱え続けた参拝者が、結願の朝、十夜粥をその阿弥陀仏と共にするという供養のあり方にも、お十夜でこそ味わうことができる仏凡の一体感ではなかったかと思います。
宮殿の脇に回りますと、そちらの扉が、第1篇でご紹介した開闢のご開帳の時と違って、内側につけられている網状の扉まで解放されて、善の綱が結ばれた阿弥陀様の右手が、よりはっきりと拝見できるようになっていました。
間近に拝する阿弥陀如来、そしてその柔らかい御手は、言いようもない神々しさをたたえておりました。
そして11月5日の開闢以来の十日間、毎夕、十夜鉦と念仏を続けてこられた鉦講の方々にとっても、結願の今日は、まさに満行の時を迎える日です。
阿弥陀如来の四十八願と極楽往生を説いた『無量寿経』に説かれる、「この世において十日十夜の間、善行を行うことは、仏の国で千年修行することより尊い」とされる、その教えに因んで、夕刻の数時間とはいえ、毎日続けられた十夜鉦と念仏の結願です。
開闢の折りには揃いの法被を着ておられた鉦講中の方々ですが、今日は裃をつけて鉦座に上がられておられます。その凜としたお姿に、この十日間のご精進の有りようが偲ばれます。
2.稚児行列と結願大法要
午後2時の結願大法要に向けて、お昼すぎから各塔頭(たっちゅう)で稚児行列のための準備が始まります。私たちは貫主様のご自坊、覚円院を訪ねました。
第1篇で取り上げました今回ご紹介のお菓子「十夜鉦」をお作りくださった緑菴さんのお孫さんも、今日お稚児さんをつとめられるのですが、そのお支度が進んでいるはずです。
お座敷では、覚円院の奥様はじめ、お母様、お祖母様などの着付けを担当される大人が、次々と装束を着付けておられました。紫の袴に稚児狩衣と呼ばれる金襴で織られた華やかな上着をつけていきます。
小学校に上がる前の幼い男女児にとって、慣れない装束で長時間過ごすのは、なかなかたいへんなことだと思いますが、生涯に三度稚児をつとめると幸せな人生が送れるとも言われるご縁に、親心の思いを感じます。
袴を踏まないように袴の丈を合わせて、紐の結びはきつすぎず、ゆるすぎずと気を遣いながらの着付け。胸前にしごき帯を結んで、最後に女児は瓔珞(ようらく)のついた天冠を、男児は金の烏帽子を頭頂につけて、愛らしいお稚児さんたちが生まれます。
本坊前に勢ぞろいしたお稚児さんと付き添いのご家族の方々で、貫主様を中心に記念撮影が行われた後、いよいよ境内からの行道(ぎょうどう)が始まります。先頭は、山伏の方の法螺貝、続くのは、尼僧とご婦人方のご詠歌、そして鞍馬保育園児たちです。そのあとにお稚児さんと付き添いのお母様方が続きます。
くぐりたる楓に染まる稚児の列 白井爽風
妊りし母を従へ十夜稚児 安部氷出海
すぐかしぐ稚児の冠練供養 福原実砂
紅葉の境内を進む稚児行列です。お母様に手を引かれ、本堂へと向かいます。最後の句は、お十夜ではない「練供養(ねりくよう)」のときの稚児行列を詠んだものですが、稚児の天冠はなかなかおさまりにくく、すぐに傾き気味になるのです。この句に出会った時、緑菴さんのお孫さんも冠を気にしながら歩いておられたことを、微笑ましく思い出しました。
稚児行列の後には、一山の僧の方々の行道が続きます。赤や紫の法衣に袴、揃いの袈裟を着すいわゆる「袍裳七条袈裟(ほうもしちじょうげさ)」という正装の僧列は、じつに厳かで、目を奪われる美しさです。その最後を赤い大傘を指し掛けられて進まれるのが貫主様ですが、貫主様の着けられている袈裟、横被(おうひ)は、見たこともないみごとな綴錦の逸品です。
じつは、後で貫主様から特別にこの袈裟、横被を見せていただくことができたのですが、江戸時代以来、真如堂の大壇越(だんおつ)として莫大な寄進をされてきた三井家が特別注文で作らせて、一山の僧と貫主様用に寄進された袈裟であるということです。
行道の一行は、本堂の回廊を一周したあと、堂内へ入って内陣の須弥壇(しゅみだん)の周りを一周します。境内行道が始まる頃から、鉦講中の方々は本堂内の鉦座で、ゆっくりと6回打ち鳴らすのを何度も繰り返す「笹づけ」と呼ばれる打ち方を続けられています。
入堂後、僧侶の方々は内々陣へ、お稚児さんたちは内陣の北側に着座されます。全員が着座するとともに、鉦も一旦打ち終えられ、いよいよ結願大法要が始まります。
一山の僧が出座す十夜の燭 加藤芳雪
僧侶の方々の唱えられる阿弥陀経が始まってしばらくすると、再び鉦講の方々の鉦が始まります。京都市の無形民俗文化財ともなっている「真如堂 十夜鉦」です。
最初は大鉦と呼ばれる打ち方で、低く大きな音で
「グアン グアン グアン グアン グアン グアン」と6回打たれます。その後少し音を落として6回ずつの鉦が繰り返し続きます。
私には、鉦の打ち分け方と曲目の違いを、詳細に聞き分けることは難しかったのですが、「そそり」「三ツ裏」「あてそそり」「打ち分け」「そそり流し」「たぐり」などと呼ばれるそれぞれの鉦の打ち方があり、鉦を打つ撞木(しゅもく)の当て方、打ち方の強弱や速度を変えながら十夜鉦は、僧侶の読経と相まって奏でられます。
法会の続く間、須弥壇まわりにある和蝋燭の芯が長くなってくると灯が揺らぎだします。蝋燭の芯を切って炎を落ち着かせるという、かつて実家の仏壇でもやっていた懐かしい光景を久方ぶりに見ました。ことにお十夜は、長い時間蝋燭を灯しているので、こうした場面はよく目にすることになるのでしょう。俳句にも、取り上げられていました。
燭切つて高座明るき十夜かな 野島無量子
僧の方々の読経などが終わる頃、7回ずつの鉦の音を徐々に小さくしていく「七つ止め」が打たれます。僧侶の皆さんが立ち上がられ、参詣者の方を向いて「お十念」が授けられます。
「お十念」とは、「南無阿弥陀仏」という六字の名号を十回唱えるものですが、内々陣の方から、正面、南、北と向きをかえて、参集の皆の方に向いて唱えられるものです。
鉦講の方々もお念仏を唱えられ、お十念が終わるとまた鉦を2回打たれます。
こうして結願大法要が終わり、内々陣から貫主様が下りてこられると、ひとりひとりのお稚児さんたちの頭に、数珠を押し当てる加持(かじ)が行われます。元気に賢く育ちますように、笑顔の貫主様と大役を終えてホッとしたお稚児さんとの和やかなひと時です。
本坊に戻られたところで、私たちは貫主様をお訪ねし、先ほど着けておられた袈裟と橫被を見せていただきました。
誠にみごとな七条袈裟で、田相部(でんそうぶ)には、とりどりの花が絵画と見紛うほどの緻密な綴れ織で表されています。
取り上げられているのは、鯛釣草(たいつりそう)、百合、撫子(なでしこ)、パンジー、白梅、花菖蒲、柳、紫陽花、桔梗(ききょう)、楓、藤、菊、山桜、椿、蕨(わらび)、蔦、木蓮、秋海棠(しゅうかいどう)、牡丹、水仙、竜胆(りんどう)と、山野草も交えた四季の花々です。
肩からかける長い橫被には、金の霞の間に見え隠れする青竹です。ため息が出るほどの織り技で、さすがに三井家からの寄進と舌を巻きました。
11月15日の結願大法要に列席させていただいて、その盛儀を目の当たりにしたことで、第1篇でご紹介した、緑菴さんの特別誂えの和菓子「十夜鉦」は、まさにこの結願の日に相応しい華やかさと気品を表したお菓子であったと、改めて納得いたしました。
さて、この日の午後5時、日の暮れの迫った本堂に、いよいよ秘仏阿弥陀如来の御閉帳の時がやってきました。
先に鉦座に上がられた鉦講の方々が、「笹づけ」を打たれる中、僧侶の方々が入堂されます。
僧侶の方の聲明の間、鉦講の十夜鉦も続きます。
十夜鉦揃へばかなし澄み通り 滝沢鶯衣
そして導師によって「伽陀之文」が唱えられます。
「それおもんみれば
西方浄土は十方諸仏の国土に超え
念仏三昧は一切修善の行業に勝れたり・・・」
続いて真如堂秘仏阿弥陀如来の由緒、またお十夜の濫觴、伊勢守貞国の事跡を説き、さらに
「月の明らかなる秋の夕べには
引聲梵唄(いんじょうぼんばい)の妙典を相い調べ
風の清き冬の朝(あした)には
称名念仏の功徳を回向す
仰ぎ願わくは
篤く本尊を念じたてまつる輩(ともがら)
現世には定んで円満の寿福の家に遊び
後生には必ず往生極楽の望みを遂げんことを」
まさにお十夜に込められた僧俗の願いが読み上げられます。
御十念の後、法会の最後に回向伽陀(えこうかだ)を僧俗ともに唱えます。
「願以此功徳(がんにしくどく)平等施一切(びょうどうせいっさい) 同発菩提心(どうほつぼだいしん)往生安楽国」
皆によって百万遍念仏が唱えられる中、宮殿の扉が閉じられていきます。
ナンマイダーブツ ナンマイダーブツ ナンマイダーブツ
正面と脇の扉が閉じられようとするとき、鉦講の方々が大きな声で
「ナンマイダー」と一斉に唱え、そして最後に振り下ろされる大きな鉦の一打と同時に、宮殿正面の扉がバタンと閉じられるのです。
まるで「さようなら」と別れを惜しむかのように。
導師と僧侶の方々は、閉じられた宮殿に向かって最後の礼拝をされました。
こうして、十日間の阿弥陀如来への十夜講は果てたのでした。
何か切ない思いを抱きつつ本堂の外に出ると、とっぷり暮れた境内には初冬の冷気と暗闇が広がっていました。
京の町暮れて十夜の真如堂 稲畑汀子
緑菴
住所 | 京都市左京区浄土寺下南田町126-6 |
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電話番号 | 075-751-7126 |
営業時間 | 10:00〜19:00 |
価格 | 432円(税込)※要予約 |
定休日 | 第2、第4水曜日(祝祭日は除く) |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。