EXTRA2020.02.14

京都歴史

もみじ綾なす真如堂の「お十夜」と特別誂えの和菓子【第1篇】-緑菴 こなし製 十夜鉦-[京の暮らしと和菓子 #29-1]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

第1篇 真如堂「お十夜」の由緒と鉦講の念仏

1.お十夜とは

 11月の京都は言うまでもなく、紅葉の寺社や名園などを訪ねる多くの観光客で賑わいます。ただ、近頃は紅葉の時期がやや遅れぎみで、11月末から12月上旬にかけてが、見頃の時期となることも少なくありません。令和元年の秋も近年の例にたがわず、11月上旬、ようやく梢の縁が少し色づくといった、遅めの進み具合でした。

真如堂 門前の楓の葉が少し色づき始めた令和元年11月5日

 今回ご紹介する真如堂も紅葉の名所として知られていますが、紅葉が進んでいない11月上旬は、まだ観光客もまばらです。そして、ちょうどこの時期に真如堂(真正極楽寺)で行われますのが「お十夜」です。

 「お十夜」とは、阿弥陀如来への十日十夜にわたる念仏法要のことで、旧暦10月5日の夜から15日朝までの連日十日間に及ぶ仏事です。

 各地の浄土宗寺院でも行われますが、その創始は、この真如堂でのことと伝えられます。天台宗の真如堂における本尊の阿弥陀信仰については、のちに詳述することにしますが、永享年間(1429〜41)伊勢守(いせのかみ)平貞国(たいらのさだくに)が、世の無常を感じ真如堂に三日三夜参籠し、剃髪しようとしていた時、夢に現れた高僧の言葉で遁世を思いとどまったところ、家督を継ぐことになったと言います。これも真如堂の本尊阿弥陀如来のおかげと、お礼のためにさらに七日七夜の参籠を続け、つごう十日十夜の間、不断念仏を唱えたことがお十夜の始まりとされます(注1)。

 平貞国は、室町幕府6代将軍足利義教(よしのり)に失脚させられた兄貞経(さだつね)のあとをつぎ、永享3年(1431)室町幕府の政所執事を務めることになっており、この経緯が先の由緒と重なります。その後、義教、義勝(7代将軍)、義政(8代将軍)に仕えたことで知られます。

 また、阿弥陀如来の四十八願と極楽往生を説いた『無量寿経』には、「この世において十日十夜の間、善行を行うことは、仏の国で千年修行することより尊い」と記されます。

 こうした阿弥陀信仰に基づく法会が、浄土宗に取り入れられることになったのは、60年ほど経った明応4年(1495)のことです。鎌倉光明寺の第9世、観譽祐崇上人(かんよゆうそうしょうにん)は後土御門(ごつちみかど)天皇の帰依をうけ、勅許によって宮中で真如堂の僧らとともに十夜念仏を行い、この後、鎌倉光明寺でも毎年行われたことから、次第に浄土宗の行事として各地の寺院に広まったとされます。

真如堂 門前の石碑

 現在、お十夜と言っても、一部の寺院の行事と思われがちかもしれませんが、かつては多くの人がつめかける年中行事であったことが、意外にも、近松門左衛門の作品にも見ることができるのです。

 ちょうど、大阪の国立文楽劇場の11月公演で「心中天網島(しんじゅうてんのあみじま)」を観る機会があったのですが、紙屋治兵衛と遊女小春の心中までのいきさつに、「お十夜」が伏線として随所に現れることに改めて気づき、近松の作品を読み返しました。

 思いつめる小春が、客の侍に「十夜の間に死ぬと成仏できるのか」と問う場面が出てきます。さらに一旦、小春との別れを覚悟した治兵衛が外出することもなく炬燵(こたつ)の中にこもっている場面では、「外は十夜の人通り」と、十夜念仏に出かける人の賑わいを対比的に描きます。そこへ嫁の母親が勢い訪ね来て、「十夜講」の集まりで聞いた小春の身請けの噂話を、治兵衛の裏切りに違いないと決めつけ、攻め立てる所業。このことで、小春への想いに火がついていくという展開へのきっかけとなります。そして最期に二人は網島の「お十夜」最中の大長寺の藪の外、念仏を傍えに心中に至るのです。

 10月のこの時期、誰もが出かける「お十夜」であり、作品では、阿弥陀浄土への往生を願う「お十夜」が、死に直面する二人に、切ない情感を与えています。この作品の元になった実際の心中事件も、享保5年(1720)の10月14日、お十夜中の大長寺で起こったのでした。

 さて心中はともかくも、「お十夜」は晩秋、初冬の風物詩ともいえるような季節感と強く結びついていたことは、間違いありません。年中行事は現在、新暦の同月同日で行われるもの、旧暦の時期を意識して、新暦のひと月遅れの日程で行われるものと、まちまちになっていますが、「お十夜」は、ひと月遅れの11月5日から15日を当てることが多いようです。やはり少し冷え込んで澄んだ空気に包まれる晩秋から初冬の夕べにこそ、この行事は相応しいという季節感が、誰しもにあったに違いありません。

 真如堂の「お十夜」は、11月5日の夕方の開闢(かいびゃく)法要に始まり、14日までは毎夕、鉦講の方々が念仏を唱え、そして15日は「結願大法要」、「稚児お練り」など、まる1日をかけて、じつに大々的な法会として営まれます。

 本第1篇では、この11月5日の開闢法要を中心にご紹介することにいたします。

山門からまっすぐ本堂へ続く参道
本堂前の楓は、少し色づきが進む
真如堂本堂
真如堂本堂

2.11月5日 真如堂お十夜

 11月5日、お十夜開闢法要の始まる前、少し日の傾いてきた頃に真如堂を訪ねました。本堂前に建てられた二本の回向柱(えこうばしら)に白い布の長い紐が結わえられています。これは本尊阿弥陀如来の右手につながる「善の綱」というもので、「お十夜」の間に参詣する人々がこの綱に触れることで、本尊阿弥陀如来と直接繋がることができるのです。

本堂前の2本の回向柱と善の綱
本堂から真西に見えるのは愛宕山
善の綱は本堂の中へ続く
夕日に照らされる「十夜大法要」の木札

 善の綱は、まっすぐ本堂の中へ続きます。参集の方々が座す外陣を過ぎ、内陣では五色の綱に引き継がれ、宮殿(くうでん)へ、そして阿弥陀如来へと続きます。

 多くの人びとが、そしてかの伊勢守平貞国が篤い信心を寄せた阿弥陀如来は、今宵厨子が開扉され、お姿を現わされるのです。この阿弥陀如来への信仰こそ、「お十夜」の原点です。

善の綱は、外陣を通り、内陣へ
五色の綱が内陣へ、そして宮殿(くうでん)へ
法要の準備の整った内陣

 大永4年(1524)の『真如堂縁起』によると、真如堂は、永観2年(984)の春、比叡山の僧、戒算(かいざん)が夢告を受け、延暦寺常行三昧堂(じょうぎょうざんまいどう)の円仁(えんにん)作の阿弥陀如来像を、神楽岡(かぐらおか)の東にあった藤原詮子(せんし)の離宮に移したことが、その創始とされます。

 円仁(794〜864)は、最澄の最晩年の弟子であり、入唐求法(にっとうぐほう)僧として838年に中国へ渡りますが、ちょうど会昌(かいしょう)の廃仏という仏教弾圧の時期に当たり、苦悩しながら足掛け10年にわたる求法の旅を続けたのでした。この時の中国各地での見聞を記録した『入唐求法巡礼行記』は、紀行文学の先駆けであり、また当時の中国の状況を知る重要な歴史資料としても貴重なものとなっています。

 先の『真如堂縁起』では、この円仁が唐からの帰国の際、船中に出現した小身の阿弥陀如来に「吾が朝に来至ありて、一切衆生を済度し給うべき本願、偽り坐しまさずば、吾が法衣(ほうえ)へ移り給え」と祈念したと説かれます。

 そして帰国後、先に手に入れていた霊木を用いて「弥陀立像(みだりゅうぞう)一刀三礼(いっとうさんらい)に彫刻して彼(かの)船中出現の化仏を腹身し給う。」と、円仁自身が刀を入れるたびに三礼して、かの阿弥陀如来を彫刻したと言うのです。

 続いて、円仁が弥陀の像に延暦寺の常行堂の本尊になっていただきたいと申し上げると、三度頭(かぶり)を振られたので、改めて、京都に下りて一切衆生、中でも女人を救済していただきたいと申し上げると、三度頷かれたというのです。

 衆生救済、さらには女人救済を本願とする円仁自刻の阿弥陀如来像が、円仁在世より1世紀以上たった時期に、戒算によって如来の本願を叶えるべく、都の東の丘陵地、神楽岡のしかも女人救済にふさわしく、円融天皇の女御であった藤原詮子の離宮へ移されたというになります。

 現在、美術史的には、本像は円仁の在世中である9世紀に遡る作ではなく、戒算が移したとされる10世紀後半の制作になるものと考えられています。しかし、井上一稔氏の研究では、様式の特徴から9世紀の古像を範として作られたもの、ついては縁起の説くところとも重なる、円仁の時代の阿弥陀如来像を意識して制作された可能性があると推測されています(注1)。

 しかも興味深いのは、後世には大量に制作されるようになった立像(りゅうぞう)の阿弥陀如来ですが、平安時代中頃までの阿弥陀如来は坐像が一般的で、本像は現在確かめ得る「立像の最古例」となっているのです。

 10世紀ではまだ珍しい立ち姿の阿弥陀如来像であったとすると、船中で円仁の前に特別に姿を現された阿弥陀如来というその特殊な由緒もまた肯けます。

 長い時代を通じて、多くの善男善女の信心を集めてきた阿弥陀如来ですが、秘仏となっているご本尊が、お十夜の開闢に合わせてご開帳される今日は、真如堂にとってまた格別な法会の夜となります。

 そして、その須弥壇の脇には、お十夜の起源となった平貞国の肖像が祀られて、ともに供養されるのです。

内陣の右脇壇の前に伊勢貞国の供養壇が設けられます
平貞国の肖像と位牌

3.お十夜開闢法要と鉦講

 さて、真如堂のお十夜法要で何より特筆すべきは、在家信者の方々による念仏です。寺僧の聲明による法会と、在家の方が大型の鉦鼓を撞木(しゅもく)で打ち鳴らしながら唱える念仏が相俟って、法要は独特の雰囲気を作り上げるのです。

 在家の方々によって組織された鉦講(かねこう)の鉦と念仏は、民俗芸能として高く評価されて、平成25年(2013)に「真如堂の十夜鉦」として、京都市の無形民俗文化財に登録されています。

内陣の南側に鉦講中の提灯が掛けられ、鉦講の方々の臨座の席が設けられている
内陣の西端に設けられた一段高い鉦座には、十夜鉦が西に4つ、東に四つ並べられ、法要の始まりを待つ
真如堂と墨書された十夜鉦
一山の修僧の入堂。内陣に着座される
奥村貫主が導師となり開闢法要が始まる

 午後5時、いよいよ僧侶の皆さんが入堂され、法要が始まりました。真如堂貫主、奥村慶淳師が導師を勤められる法要は、一山の修僧らの天台聲明(しょうみょう)によって、品格高く厳かに進みます。まずここでは、鉦講の物故者の方々の追善回向が行われます。

 道場を清める散華(さんげ)が行われたのち、貫主様が仏前に進んで礼拝焼香された後、続いて、揃いの法被を着た鉦講中の代表の方々も焼香をされます。

美しい聲明(しょうみょう)が続く
内陣の南側に鉦講中の方々が臨座される
修僧は聲明を唱えながら華籠(けこ)を手に散華する
奥村貫主が前に進み出て、焼香をされる
鉦講中の代表の方々の焼香
鉦講の方々は揃いの法被姿
追善回向の法要

 僧侶の聲明による一連の法会が一段落した後、鉦座の雪洞(ぼんぼり)の蝋燭に火が灯されて、鉦講の方々は次々に鉦座に上がります。

鉦座の雪洞の蝋燭に火をつける
雪洞に紙張りのおおいをつけて
鉦座に灯が入り、準備が整う
内陣の端に東の鉦座、西の鉦座が設けられ、4人ずつが座り、鉦を打ち始める

 そして、ここから鉦講の方々の鉦が始まります。ゆっくりとした調子で「グアン グアン グアン グアン グアン グアン」と6回打ち鳴らすのを何度も繰り返す「笹づけ」というものから始まります。

 鉦は、架に掛けられた大型の双盤(そうばん)と言われるもので、祇園囃子や念仏聖などの高い音で鳴る小型の鉦とは違って、独特に低い音で堂内にしんみりとした響きを放ちます。

 少しずつ速度が速まり、また強弱をつけられて、鐘の音は繰り返されます。

笹づけと呼ばれる、ゆっくりとした打ち方で鉦をつく

 その間に、僧侶の方数名が、本尊の宮殿の前と横に上がり、いよいよ秘仏阿弥陀如来のご開帳です。正面と側面の厨子扉が開け放たれました。

 私たちは、そっと宮殿の脇扉の方から、尊像を拝しました。黄金に輝く宮殿の中、荘厳具の間から見え隠れする阿弥陀如来のお姿は、柔らかく来迎印を結ばれていました。その右手には、まさに五色の善の綱が結えられています。

 この日は、これよりお近くで拝することは叶いませんが、11月15日、結願の日には、阿弥陀如来の真ん前にまで上がって拝することができるので、第2編では、その正面からのお姿をお伝えいたしましょう。

内々陣で、阿弥陀如来に読経を唱える導師と衆僧
僧侶による阿弥陀経の読経

 導師、衆僧の皆さんが一段高い内々陣の本尊正面に一列に座られると、鉦講の鉦は一旦休止されます。

 そして、今度は僧侶の皆さんが、開帳された阿弥陀如来に阿弥陀経を唱えられます。僧侶の方々の読経が終わりますと、ここで鉦講の方々の念仏が始まります。こうして、僧侶と信者とが交互に阿弥陀への読経、念仏を届けるのです。

「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」

 合間に鉦を打ちながらの念仏が続きます。

「アミダァーブォウフォホン(グアン) ブォオーホン(グアン)」

「アミダァーブォウフォホン(グアン) ブォオーホン(グアン)」

「ナァーアイ(グアン)マァーアイ(グアン)ダァーアイ(グアン)」

「ナァーアイ(グアン)マァーアイ(グアン)ダァーアイ(グアン)」

「エェーへェーン(グアン)エンマァーアイ(グアン)ダァーヘェン(グアン)オンブォーホン(グアン)オーン」

 そのお唱えの言葉の意味は、私にはよくわからないのですが、阿弥陀如来を讃えるものであることは想像できます。

 このお十夜にだけお姿を現される秘仏阿弥陀如来との対面を、待ち望んできた世俗の信者が、今宵、鉦、念仏でお迎えしますとの思いを込めたものに他なりません。

僧侶が読経する間、鉦講は鉦を止め、読経に聞き入る
僧侶の読経が終ると、鉦講の方々の鉦と念仏が始まります
念仏と鉦による鉦講中の十夜念仏
念仏と鉦による鉦講中の十夜念仏 撞木を大きく振り下ろして鉦を打つ
念仏と鉦による鉦講中の十夜念仏
念仏と鉦による鉦講中の十夜念仏
念仏と鉦による鉦講中の十夜念仏

 

 導師ほかの僧侶の方々は、最後に、お十念(南無阿弥陀仏を10回唱える)を授けるために、鉦を打たずに臨座している鉦講中の方々へ、また鉦を打っておられる方々へと、それぞれの方向に身体を向けて念仏を唱えながら合掌されます。すると鉦講の方々も頭を垂れて合掌され、これを受けます。

 お十夜は、こうして僧と在家の両者の祈りがひとつとなって、阿弥陀如来に届けられるのだということを、改めて感じた瞬間でした。

僧侶と鉦講の方々が、お互いに相対して合掌礼拝されます
鉦講の方の合掌
平貞国の肖像にお参りをする僧侶

 最後に僧侶の方々は、内々陣から下りられ、伊勢守平貞国の供養壇の前に並ばれて、読経されます。その間、鉦講の方々は、笹づけと呼ばれる鉦打ちを続けられます。読経と鉦、両者の合奏のうちに、平貞国への回向が行われるのです。

 僧の方々が退堂すると、鉦も打ち終えられて開闢法要は終えられます。

 明日から14日までは、毎夜、鉦講の方々が交代で本尊阿弥陀如来に十夜鉦と念仏をあげられるのです。

僧が退堂されるまで続く鉦
鉦座の雪洞も火が消されていく
法要が終わり本堂の扉が閉じられる

 法会が終わり本堂の扉が閉じられる頃、真っ暗な境内は、少し冷え込んだ夜気に包まれていました。なんともいえない晩秋の侘びた気配を感じつつ、鉦と素朴な念仏の声がしみじみと身の内に残るような夜道の帰路となったのでした。

4.特別誂えの和菓子 十夜鐘

 今回、このお十夜の取材は、和菓子の名店「緑菴」さんのお孫さんが、11月15日の「稚児お練り」に出られるとお聞きしたことに始まります。ご主人のご紹介のおかげで真如堂での取材をお許しいただくことができたのでした。

 奥村貫主様に、緑菴さんのご主人に伴われてご挨拶に伺った時に、この際、「お十夜」に合わせたお菓子を作ってみてはというお話になったのでした。

 ご主人の「どんなものがよろしいでしょう?」との問いに、すぐさま私は、「ぜひ、こなしのお菓子を」とリクエストしてしまったのです。

 「こなし」とは、京都の和菓子の代表的技法とされるものですが、餡に小麦粉を混ぜて強く蒸しあげ、熱いうちに練ってこなすので、「こなし」と言われるのだそうです。

 餡より少し硬く、関東の「練りきり」よりもやや弾力のあるモチッとした食感で、あっさりとした甘みと独特の風味をもつ素材なのです。「こなし」をこなせるようになると、京都の和菓子職人として一人前と言われるそうです。

 緑菴さんの店頭では、11月にいつも「山路(やまみち)」と銘打たれた「こなし」のお菓子が並ぶのですが、私はこれが大好物なのです。

 何色かに染めたこなしを餡のまわりに巻き上げて、山路を思わせる柔らかな曲線の姿に作られたものですが、甘すぎずしっとりした「こなし」と中央の餡が、両者の食感の違いとともに、絶妙の質感でまとまっているのです。私は、秋の銘菓のひとつだと思っています。

 そのお味が頭にあったために、何のためらいもなく「こなし」をと申し上げてしまったのですが、すると即座に、「それなら、十夜鉦をお作りしましょう」と答えてくださったのです。

 そのお話だけでは、私の中に何のイメージもなかったのですが、鉦の縁の幾重にもある筋を、こなしを重ね巻くことで表すことをお考えであったことを、出来上がったお菓子を見て、了解しました。

黄色と白のこなしを何重にも巻いて、中に白餡を包み込んでいます。黄金色の鉦を象徴するように、金粉を少しおいて、じつに上品なお菓子となりました。

お味は、もちろん「こなし」の質感と餡のバランスが絶妙で、その程よい甘さと餡の旨味がこれまた格別な味わいでした。思い描いた通りの好物の「こなし」のお菓子が出来上がりました。

 緑菴さんは、これに限らず相談すれば、趣向に合わせたオリジナルなお菓子を調整してくださるお店ですが、大量生産でなく、細やかに注文に答えてくださるこうした和菓子店が、私の知るだけでも数店はあります。

 こうしたお店も京都の財産だと私は思います。

 ちょうど、京都造形芸術大学の教職員茶道部のお稽古の日に、このお菓子をまた作っていただいて、ご指導いただいている北見宗樹先生にも召し上がってもらいました。

 先生も、緑菴さんのお菓子をご愛用されているのですが、このお十夜にちなんだ新しいお菓子を、

 「もう、定番のお菓子にされてもいいのではないかしら。よくできていますね。」

と、お気に召したご様子でした。

 和菓子の特別注文、少し贅沢なことですが、京都ならではの和菓子の楽しみ方のひとつです。

緑菴

住所 京都市左京区浄土寺下南田町126-6
電話番号 075-751-7126
営業時間 10:00〜19:00
料金 432円(税込)※要予約
定休日 第2、第4水曜日(祝祭日は除く)

https://www.ryokuan-kyoto.com/

注1. 福将昌之「真如堂における十夜法要と双盤念仏 —僧侶の念仏から世俗の鉦講へ- 『宗教と社会』Vol.21 2015年 由緒については諸説あること、また鉦講や双盤念仏についての詳細が解かれています。

注2. 井上一稔「真正極楽寺(真如堂)《阿弥陀如来立像》をめぐって」『美術フォーラム21』VOL.15 2007年

  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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