EXTRA2019.08.31

京都歴史

祈りの中で燃え立つ送り火、そしてこの時期だけの大文字のお菓子 ―緑菴 葛饅頭 送り火と 紫野源水 干菓子 大文字[京の暮らしと和菓子 #27]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

   8月16日の夜、今年も五山送り火は、恙なく京都の山々に点じられました。じつは列島を縦断した台風10号の進路と暴風雨の時間によっては、実施も危ぶまれるほどのギリギリのタイミングでした。数日前から関係者は気を揉み続け、また地元では行事の一部に変更も生じていたのです。
 結局、京都では15日夜から16日朝にかけて、強い風雨に見舞われましたが、なんとか台風一過の当日を迎えることができました。
 「五山送り火」と称されるのは、京都盆地を取り巻く東・北・西の山中で、大文字、妙法、船形、左大文字、鳥居形に、護摩木を焚き上げるものです。まず午後8時に東山の大文字に点火され、続いて北山の東寄りにある松ヶ崎の妙・法の2山が8時5分頃、北山の西賀茂にある船形は8時10分頃、さらに西よりにある大北山の左大文字は、8時15分頃、そして一番西に位置する嵯峨曼荼羅山の鳥居形は8時20分頃に火が点されます。
 このわずか40分くらいの時間に、送り火の見える地域に住む京都の人たちは、少し見晴らしの良い河原や橋へ出かけたり、「ああ、昔はここから見えたのに、高い建物ができて端に寄らんともう見えへんようになってしもたわ」と自宅の窓際でぼやいたりしながら、それでも何らかの送り火を目にすると、お盆のお精霊(しょらい)さんを偲び、しみじみとゆく夏を思うのです。

 以前の本コラムでも少し書きましたが、それこそお盆の間、毎日のお精霊さんへのお膳を整え、十件近いお寺さんをお迎えして、お墓参りにも三ヶ寺に出かけるという、かなり念のいったお盆を過ごす我が家でしたが、残念ながら実家のある伏見は市内のかなり南に位置していて、送り火を見ることは叶いません。
 ですから、お盆と直結した行事とはいえ、このしみじみと送り火を見て、家族で先祖を送るという思いは薄かったように思います。祖父が、ホテルの屋上や料亭の庭で送り火を鑑賞する食事付きのイベントに家族を連れて行ってくれたことは何度かありましたが、子供にとっては「よそゆき気分」のお出かけで、こうした思いとはかけ離れていたように思います。

日中の大文字山

 ところが、大文字山のある左京区に住むようになって25年、今の私には送り火は全く違うものとなりました。今回は、京都の洛中、四条や三条などの中心部ではなく、まさに大文字山の近く鴨東(鴨川の東)地域に暮らす人々にとっての地元での大文字送り火をご紹介しようと、本記事を企画しました。
 じつは、左京区の大文字山周辺では、町内によって人々が連れ立って早朝登山をするという習慣が根付いているところがあります。私の住んでいるマンションでは全くそんな習慣はありませんでしたが、息子が所属していた下鴨ボーイスカウトでも、毎年8月16日に大文字早朝登山が行われていました。
 それは、今考えても小学生にはなかなか厳しい訓練でしたが、早朝3時に京都大学のある百万遍を出発して今出川通を東に大文字山まで歩き、さらに真っ暗闇の大文字山を懐中電灯を灯しながら登るのです。大の字の中心辺りに着くと、見晴らしの良いそこから京都の夜景を見下ろします。街にきらめく灯りが、少しずつ消えていき、朝の光が街を照らし始めるのをゆっくり眺めながら、朝食のおにぎりを頬張ります。こうしてすっかり明るくなった午前6時すぎに下山すると、ちょうど銀閣寺門前に護摩木の受け付け所が開いているのです。ここで、それぞれ松割木や護摩木に願い事を書いたりして納めるという恒例行事でした。
 これに保護者として同伴するうち、気持ちの良い大文字山での夜明けと、当夜大文字の焔を見るとき、自分が納めた松割木が、今まさに燃えているという臨場感を噛み締められることに、すっかり魅せられてしまいました。
 さすがに今は暗闇登山をしようと思いませんが、まだ人の少ない明け始めの5時頃からの早朝登山を、ここのところ毎年友人らを誘って年中行事にしているのです。
 今年は、この早朝登山にカメラの高橋さんにも付き合ってもらい、明け方の大文字の様子や、午前7時頃には町内の旗を持って登ってこられる地元の人々で、意外に賑わっている16日朝の大文字山をつぶさに記事にするところから始めるつもりでした。
 ところが、台風10号来襲のため、土砂降りのうす暗い山中を登るという危険を冒すことは諦めることとなりました。さらに今年は台風の影響で銀閣寺門前での一般の護摩木の受け付けも中止となってしまったのです。
 
 ですが、今回はいわゆる大文字ファンともいうべきこうした左京地元民の送り火の日の過ごし方とはまったく違う、まさに大文字送り火を実際に営んでおられる方々の姿を間近に拝見させて頂く得難い機会をいただいたのです。
 じつは、今年の5月の下鴨神社流鏑馬神事にも参加してくれた京都造形芸術大学の京都.comというクラブが、毎年、大文字保存会に協力して送り火に使う薪の運搬をボランティアとしてお手伝いしているのですが、その活動の様子と、送り火を行う山上での一部始終の取材を、大文字保存会から特別にお許しいただくことができました。
 大文字山は、16日の午後2時以降、大文字保存会の関係者以外は、登山禁止となっています。地元の人といえども一般にはこれ以降のお山での様子を知ることはできません。私にとっても初めての経験です。今回なんとか台風の難からも免れ、これを皆さんにレポートできることをたいへん幸せに思います。

観光客で賑わっている大文字山登山口に続く銀閣寺門前の道
大文字門前の家々にかけられる弘法大師の提灯
大文字門前の家々にかけられる弘法大師の提灯

 さて、16日、大文字保存会関係者は、銀閣寺の前を左に曲がった突き当たりにある八神社に午後2寺に集合することになっていました。八神社は、大文字山登山口の傍に位置します。
 ここへ行くまでの銀閣寺参道には、山形に大文字の紋と弘法大師の文字の入った紅い提灯が軒先にかけられている家々があることに気づきます。この辺りは、まさに大文字保存会の方々の地元、古くは浄土寺村といった地域になります。
 大文字の起源や大の字の筆者に関しては、さまざまな説が行われていて特定しがたいのですが、この送り火の風習は江戸時代前期までには確実に行われていたことが、当時の地誌類から知ることができます。諸説ある中に、大の字は弘法大師の筆になるとの伝承があり、山上にも、大の字のすべての字画が交わる点(金尾という)には弘法大師堂が設けられており、弘法大師信仰と強い結びつきがあることを知ることができます。

 こうした大文字保存会の方々がお住いの地域には、もと広大な寺域を誇る浄土寺がありました。平安時代、天台宗の円珍(814〜91)が住したとも伝えられますが、その創建は不詳です。寛仁3年(1019)に天台座主明救が再興したため、明救を開祖としています。室町時代に足利義政がこの地に山荘(現在の銀閣寺)を営んだことで、相国寺の西、北築山町に移建され、その後浄土寺は廃絶します。しかし、元浄土寺の境内地に暮らしていた住民はそのままこの地に残り、今に至るまで大文字送り火を担い、現在の保存会に続いているのです。 

八神社 右に曲がると大文字山の登山口 8月16日午後2時以降の登山禁止の看板が立てられている
八神社

 カメラの高橋さんと集合時間には少し早く八神社に到着したのですが、境内の木々は、まだ台風の余波と思われる荒い風にて、時より大きくしなっていました。
 徐々に人が集まり始め、時間が近づくと八神社前の広場は多くの関係者で溢れかえるほどになっていました。京都五山送り火連合会会長で大文字保存会の会長でもある長谷川英文さんが、関係者に挨拶をされて注意事項などが伝えられるといよいよ出発です。
 京都造形芸術大学からは、京都.comのメンバーに、特別に歴史遺産学科有志の学生も加わって、総勢10名の参加となりました。

午後2時 八神社に集合した大文字保存会関係者
京都造形芸術大学の京都.comのメンバー他、歴史遺産学科有志の学生たち
八神社を出発する京都造形芸術大学の学生ボランティア

 大文字山は、東山三十六峯の主峰、如意ヶ嶽(にょいがたけ)の西峰にあたる標高466mの山です。山歩きになれた健脚の方にはさほどのことはないのでしょうが、普段あまり運動をしていない人間にとっては、そこそこ登りがいのある山でもあります。学生たちは、スイスイと登っていきますが、私はゆっくり、時々休みながらの登山です。

最初は緩い坂道が続きます
この辺りは、学生たちはまだ楽々と 横には大文字川が流れる
いよいよ本格的な山道へ
登り口はかなり急峻な道
暑いながらも時々台風の後の強めの風が吹きます
足元は、前日からの雨で湿っています 丸太の段は滑りやすい
登山道わきには、昨年7月の豪雨のせいか、昨年から崖くずれしたままの箇所もあり、ロープが張られている
登山道の走り根は、雨のあと滑りやすくなっている

 昨年、大文字送り火の当日に登った時から、山が荒れていると感じていました。昨年の7月豪雨では、左京区の各学区には避難指示が相次いで出ていたのですが、8月の大文字の日には崖くずれの痕のような場所も登山道わきに見られました。今年も昨年の崖くずれの場所には同じようにロープが張られて、黄色と黒の射線のテープが危険を知らせていました。
 また昨年9月4日には台風21号が京都を襲い、左京区の山では倒木などが相次いだのです。今回の大文字山でも、少し開けた千人塚のあたりには、倒木の処理をしたような切り出された木が積み上げられていました。
 千人塚は、第2次世界大戦中に陸軍がここを掘った時、おびただしい人骨が出てきたことから、地元の方が石碑を建てて弔われたのだと言います。

千人塚 この辺りは少し開けて平坦な広場になっている 倒木の処理をしたと思われる切り出された木々が置かれている

 だいたい大文字登山では、この千人塚付近の広場のような場所が、休憩の地点となることが多いのです。一同、ここでひと休みの時間です。英気を養って再び登山開始ですが、この後出てくる階段が、じつは山道よりもきつくて疲れてしまいます。階段と平坦な尾根道を繰り返して、ようやく大の字の一文字の上に登りつきます。

千人塚の手前でひと休み
千人塚を横に、登山再開
人工の階段で急坂を登るのは、かえってキツイのですが
平坦な尾根道で少しホッとしつつ
最後の階段を登りきる

 大の字の周囲は木が払われているため、一気に眺望が開けます。初めて登った人なら、必ずここで「おおー。」と声を上げてしまうことでしょう。ここから京都の街を一望するのは、大文字山登山の最大の魅力と言えます。

大の字の一文字の上にステージが作られていて、皆ここで到着の開放感を味わう
登りきって思わず笑みがこぼれる学生たち
眼下に京都の街が広がる 手前は大の字の北のながれの火床
大の字の地点に到着して、笑顔の京都造形芸術大学京都.comのメンバーと歴史遺産学科有志の学生たち

 登山で汗をたっぷりかいた後、下界よりは涼しい風に癒されながら水分補給をしてひと休みすると、関係者一同いよいよボランティア活動の本番です。
 さて、大の字の一文字の上のステージは平坦に作られていますが、この中央部分の少し下部に最も中心となる大きな火床「金尾」が設けられています。1画目の一文字はこの「金尾」の左に8箇所、右に10箇所で構成され、2画目の縦の左払いは「金尾」の上に9箇所の火床、「金尾」から下には20箇所の火床が下ります。また、3画目の右の払いは「金尾」から下へ27箇所の火床が設けられています。この左右のはらいの部分を「北のながれ」「南のながれ」と呼んでいます。

gozan-okuribi.comより(http://gozan-okuribi.com/dai.html)

 この北と南のながれに沿って階段が作られており、その横の各火床は、土を持って平坦にして石積みで固められています。
 京都造形芸術大学の学生たちは、北のながれの階段を持ち場に、みんなで並んで松割木のリレーに当たりました。こうして人海戦術でなんと総数600束もの薪が各火床へと運ばれます。
 火床に薪を配り終えると、夕立などに備えて、一旦ビニールの覆いをかけて薪が濡れないように保護しておきます。今年は、心配されながらも夕立にあうことはなかったのですが、なぜか送り火の日は、よく夕立が降るのです。

北のながれの階段と火床
南のながれの階段と火床
薪を手渡しでリレーする
どんどん薪が送られる
薪を手渡しでリレーする けっこうひと束の薪は重量があります
次から次へと手渡しで
階段の後ろに見えるのが火床 石積みされて平坦な火床のエリアが作られている
一列に並んで
歴史遺産学科の中国からの留学生も参加
時折、台風の名残の強い風が、山上の木々を大きく揺らす
上から下へ息を合わせて
おおかたの火床に薪が配られました
リレー終了で、笑顔のVサイン
薪の保護のためにビニールをかける 学生たちもお手伝い
薪の保護のためにビニールをかける 学生たちもお手伝い
あとで、火床に薪が組まれるまで時を待つ
各火床に薪の設置が整いました
一仕事終わって

日暮れを待ちながら

こうしてボランティアの仕事が終わると、大文字保存会の会員とその家族・親族の方々で、今年の割り当てが決まっている担当の火床の薪が組まれていきます。保存会の会員は旧浄土寺村の住民で、代々送り火に携わってこられた47軒のお家の方々です。
 二の字形に地面に固定されている大谷石の土台に松割木を組み上げていかれます。松割木と松割木の隙間には、しっかり乾かしてパリパリになった枯れ松葉が挟み込まれます。松葉の油分が火をつきやすく、また火力を上げることにもなるのでしょうが、松割木と松葉という意外にもシンプルで少量の材料だけで、京都中から見えるほどのあの焔になっていることに、改めて驚きを覚えました。

松割木を組む
大文字保存会会員の家族・親族が力を合わせて
薪と薪の間にしっかり乾かした松葉を挟んでいきます
乾かしてパリパリになった松葉を差し込む
松葉が火床の燃料
組みあがってきた松割木

 松割木が組み終わるとその上に、護摩木を組んでいきます。今年は、台風のために一般受付がなく、大文字保存会の関係者しか松割木や護摩木に祈願を書けなかったので、白いままなのが少し寂しいですが、普段なら、皆の思いが込められた薪や護摩木が組み上げられることになるのです。
 そして最後に、全体の側面を覆うように、麦わらが立てかけられます。全体が崩れないように、また夕立などで湿気たりしないように、完成した火床にはまたビニールがかけられます。

松割木の上に、護摩木を組んでいきます
今年は台風のせいで一般の松割木、護摩木の受付がなかったので、祈願などが書き込まれていないもの
麦わらの束をほどいて
薪が崩れないように気をつけながら麦わらを立てかけ、覆っていきます
麦わらを全体に回します
完成した火床には、また夕立を避けるためにビニールの覆いがかけられ点火までの時間を待ちます
火床が完成すると、家族で用意したお弁当を火床の脇で広げて、夕食を取りながら、点火を待ちます

さて、大の字の「金尾」の東に据えられているのが、石積みで作られた弘法大師堂です。ここには、日中から花や供物が供えられていますが、あとで書きますが、点火の前にはここで法要が営まれます。

大文字山の弘法大師堂
この火床の基礎は二の字ではなく東西南北にそれぞれ二の字を延ばしたような十字形となっています

 ちょうどこのお堂の正面に、「金尾」の最も大きな火床が組み上げられます。大文字を見たことがある方ならなるほどと思われるかと思いますが、一文字とはらいの交わった真ん中が最も大きな焔を上げているのは、このビッグサイズの火床のせいです。

 他の火床の大谷石の基礎が二の字形であったのに比べると、東西南北にそれぞれ二の字を延ばしたような十字形となっていて、2倍くらいの大きさであることがわかります。これも同じように松葉を挟みながら組み上げますが、その高さも他の火床の2倍以上に積み上げられていきました。
 護摩木、麦わらも同様に大きな火床が完成していきます。

十字形の大谷石の基礎の上に、松割木を並べていく
火床の向こうに見えるのが弘法大師堂とその前の防火扉
ここでも松葉を挟んでいきます
どんどん組み上げられる松割木
大文字保存会のベテランたちが整然と汲みあげる薪
松割木の上に護摩木を汲みあげ、麦わらを立てかける
祈願の書かれた松割木も見える

 大文字保存会会長の長谷川さんに、材料のことをお尋ねしました。それによると、松割木は、樹齢50年くらいで直径70センチほどの木を、あちこち探しに行かれて調達され、それをしっかり乾かしてから薪割りの作業をして、ほぼ一年かけて600束揃えておられるといいます。
 そして松葉は、2月頃に集めたものをご自宅で半年かけて乾かして100束用意しておられるとのこと。驚くべき手間暇をかけて、一般の人にはまったく見えないところで営々と準備に時間と労力をかけておられることを知りました。
 長谷川さんに、素朴な疑問をぶつけてみました。
「稲の藁でも茅でもなくて、なぜ麦わらなのですか?」
「それ一本取ってきてみいな」
と言われて、火床の麦わらを指さされました。一本抜き取って渡すと、手に持ちながら、
「稲藁やとこんなにしっかりしてへんし、焼けるとしなーと倒れてくるのや」
また半分に折られて、
「見てみい。この空洞。これが空気を送り込んで導火線としてよう燃えるのや」
と見せてくださったのです。まことによく吟味された材料であることを改めて知りました。
 でも、こんなに長い麦わらは、手に入りにくいのではと尋ねると
「そうや。手刈りしてもらわんとこの長さは確保できひんからな。あちこち探して、今は大原野で、パン作りをするために麦が必要な人に協力してもろて、作ってもろてる」
というのです。
 先に、火床の材料はシンプルなものでできていると思ってしまっていた自分の認識の甘さが恥ずかしくなりました。どれ一つとってもその確保には、ひとかたならぬ苦労が伴っているのだと思い知ったのでした。

トランシーバーで、各所と連絡を取りながら全体を統括しておられる長谷川さん
麦の穂を脱穀したあとが残る麦わら
麦わらを折って、その性質について語る長谷川さん
出来上がった「金尾」の火床

 火床が完成すると、消防署の関係者と、各学区の消防団の方々が、火床の火を管理するため、消火用のホースを用意したり、水を入れるリュックのような袋を背負ったり、ポリタンクに水を入れたりして、防火の準備を整えていかれます。
日が暮れると、火床の周辺にあらかじめ放水したり、持ち場へ移動されたりして火床の近くに待機されます。

消防団の方々 背中の袋に水を入れます
背中の袋とつながったホースで、消火に備えます
日没の時を迎えます
火床のまわりの草原に放水をする消防関係者
ポリタンクに水を満たす消防関係者
灯が点り始めた京都の街
とっぷり暮れた街

 日が沈むと、辺りはすっかり暗くなり、街の灯が灯り始めました。
 その頃には弘法大師堂に、大文字御本尊として弘法大師坐像が運び込まれていました。そして午後7時から、各火床担当の保存会員が揃うなか、銀閣寺の北に隣接する浄土院から招かれたご住職さまによる読経で、法要が始まります。

弘法大師堂に運び入れられた弘法大師坐像
弘法大師像を前にお経を唱える浄土院のご住職さま
大文字保存会の会員が列する法要
大文字保存会の会員が列する法要
鈴(りん)を鳴らしながら経を唱えられるご住職

 点火の午後8時が近づいています。毎年この日の京都は街の光を普段より落として、送り火を迎えます。

大きなネオンが落とされた京都の街
松明にする麦わらの束を長い柄に付けたものを手に点火の時を待つ

 午後7時55分頃、会長の長谷川さんが、弘法大師堂の灯明から火を取って、その前にある金尾の火床に慎重に運び出されます。これで種火がつくられて点火の準備が整います。大文字点火を待つ街の人々の目にも、点火時間前に1点だけ火が灯ったことが見えているはずです。私は、これを今まで、単に準備の段取りのひとつとしか思っていませんでした。大文字の金尾のこの最初の火こそ、送り火の本当の意味を託した祈りの火であることを、初めて知りました。

焔を消さないように法被の懐で慎重にろうそくを運ぶ
種火をつくる
種火が燃え上がる
公式点火の5分前に、麓からはこの1点の火が見える

 午後8時が迫ると、会長は長い柄の先に麦わらの束をつけて箒のような形にした松明を取り、この最初の焔から採火して高く掲げます。そしてマイクを使って、それぞれの大の字の持ち場に声をかけます。
「一文字いいか」
「字頭いいか」
「北の流れいいか」
「南の流れいいか」
そのたびに「いいぞ」、「よし」などの声が上がります。この確認を終えると松明を高く大きく振り回し
「てんかあ!」
これが一斉点火の合図です。

長谷川さんが松明を高く上げて、一斉点火の声をあげておられる

金尾の火床に松明を差し入れる

金尾の火床に松明を差し入れる

 大きな金尾の火床には、先ほどの長い柄付きの松明をいくつも使って、方々から火を入れます。薪に火が点くと近くにいる私たちは、まったく目が開けられないほどの、もうもうとした煙にまかれ、瞬く間に立ち上がる灼熱の焔とその風に襲われます。近くにいることなど、とてもかないません。こんなに激しい火力で燃え上がるのだということも初めて体験しました。

金尾の薪が燃え上がる
松明で四方から火をつける
燃え上がった金尾の火床
猛火のごとく焔と煙が立ち上がる
金尾の火

 私は、煙で涙が止まらない情けない状態になっていましたが、その間も読経は続きます。見ると、あまりにも激しい金尾の焔で焼かれてしまいそうな弘法大師堂の前には、防火扉が閉じられ、その後ろで焔に向かって浄土院のご住職らが拍子木を打ち鳴らし、経を唱え続けておられるのです。

金尾の火が弘法大師堂に燃え移りそうに
凄まじい焔と煙
弘法大師堂の防火扉が閉じられている
その内側で読経を唱える

 大の字の各火床も焔を上げています。

 今まさに東山に堂々と燃え盛った大の字が完成していることでしょう。

大の字の各火床にも火が立ち上る
大の字の各火床にも火が立ち上る
一文字の火床
一文字の火床のひとつ
街から見る大文字(今出川通り辺りから撮影)

 そして気づくと、北山の方には、妙法、船形の火がついていました。
 少し火力がおさまってくると、防火扉が開かれてご住職らは、なおも拍子木を打ち、大きなお声で読経を続けられます。

妙法と船形にも火が点る

少し火がおさまって、防火扉を開いて読経は続く
防火扉が開かれて、読経の声と拍子木の音が外へ響きだす
金尾の火が少し落ち着いて、防火扉が開いた弘法大師堂 読経と拍子木の音が響く

 左大文字にも火が入りました。その頃から、少しずつこちらの火が落ち着いてきます。長谷川会長が昼間にお話しした時におっしゃっていました。西の鳥居形がついたら、こちらはなるべく火を落としてゆきたいと。 

 「お精霊さんが、はよ西へ戻って行けるように、送らなあかんしな。いつまでも燃えてるのではあかんのや」

左大文字が点る
徐々に火がおさまり始める
火床をとりまく保存会の方々

消えかけの火床

最後に点火する鳥居形を遠望する

埋み火となっていく
埋み火となっていく

 会長のおっしゃったとおり、西の曼荼羅山の鳥居形が燃え始めると、あの猛火の如き金尾の火も、すっかり小さくなっていました。 

 徐々に埋み火のようになる火床を見つめていると、まるで先ほどの焔と煙が夢の中の出来事であったかのような、幾ばくの寂寥感とでもいうような感慨を覚えるのでした。亡き祖父、祖母、父、母の面影を思いつつ。
 大文字山上で、送り火に込められていた深い祈りの世界を知った8月16日の夜でした。

緑菴(りょくあん)の「葛饅頭 送り火」

 さて、家でお盆の仏事をするしないに関わらず、京都では、やはり大文字は何と言っても欠かせない年中行事です。ですから、和菓子の世界でもこの日にだけ作られる大文字にちなんだ上生菓子が、あちこちの和菓子店で供されています。
 そのなかでも、とくに大文字の麓に位置するお店、緑菴(りょくあん)さんの葛饅頭を今回ご紹介したいと思います。
 大の字形を葛饅頭に入れて出されているお店は他にもあるのですが、私は、さすがに大文字山のお膝元にある緑菴さんと思っています。大文字の山の姿を彷彿とする葛の形が秀逸。しかも、年中、大の字の周囲は樹木が払われ草だけになっているので、山にできているぽっかりと草色の部分があるのですが、赤い餡でその形のままにつくり、そこへ印で大の字を押すという独特の手法で作られています。

 山にごく近い麓から大文字を見ると、まさに赤く燃え立つのは火床の炎だけでなく、その赤い火色を受けて立ち上がる濛々たる煙の広がりも合わせて大の字の輝きをみることができるのです。
 私はこの大の字の周りの赤い餡に、かえってその燃え立つ炎を見る思いがするのです。
 しかも緑菴さんの葛饅頭は、豊かな香りと独特の弾力のある吉野葛で作った皮はもちろんのこと、これに包まれた漉し餡が美味しい。お店で炊き上げられた滑らかな漉し餡がやはり、ただの葛饅頭とは違う上生菓子としての品格をみごとに見せてくださいます。

炎を感じさせる赤い餡

 そして今回は、もう一店、左大文字に近い紫野源水さんのお干菓子もご紹介したいと思います。
 遠方の知り合いから、あなたの紹介するお菓子は美味しそうだけれど、日持ちのしないものばかりで、旅行で京都に来た時に買って帰れないものばかりと、言われてしまっていることもあるのですが、やはり上生菓子の大文字のお菓子は特別に注文しない限り、お盆の間だけのお菓子ということになるので、少し日持ちが可能なお干菓子にも大文字のお菓子があることを、取り上げておきたいのです。

紫野源水 干菓子 大文字(すり琥珀)

 こちらはむしろ、燃え立つ大の字というより、夏らしいうちわの風情を取り入れたものです。この美しい姿に、まずうっとりしてしまうのですが、その製法をお聞きして、改めていかに手の込んだものであるのかを再認識してしまいました。
 これは「すり琥珀」の技法で作られたものですが、寒天を溶かし、砂糖を入れたものを、砂糖がかく拌によって白くなるまで、すり鉢で摺って摺って滑らかにし、羊羹型に流し入れます。寒天液を見計らって、白と青の色が完全には混じり合わないよう、しかも適度に溶けあうように按配して固めます。これを長い帯状に切り、さらに団扇の型抜きをして、一本ずつ団扇の持ち手の黒文字の串をさします。その上で赤い大の字をひとつひとつに入れていくのです。
 こんな手間暇がかかっての美しさとは、私のような一口二口で食べてしまう食いしん坊には、想像もつかないことでした。じっくりその姿を拝見してから、口に運ばないととの思いを新たにしました。
 それでもやはり串を持って、早速かじってしまう私なのですが、すり琥珀ならではのシャリっと感に、丁寧に擦られたことがわかるきめ細やかさが加わって、これまたみごとに上品な仕上がりです。

干菓子 青楓(州浜製)と大文字(すり琥珀)

 涼しげな取り合わせに選んだ「青楓」のお干菓子は、州浜製です。水飴と大豆粉と砂糖を用いて固めたものですが、木型の型押しで立体感のある形にしたもので、源水さんのこだわりを見る思いがします。この木型を作っていた職人さんは既に引退されており、これに代わる職人さんはまだ見つかっていないそうです。
 しかも「州浜」の香ばしく炒った大豆の香りと旨味が、濃厚に口に広がります。さっぱりとした「すり琥珀」とはまた違う味と食感に出会うことで、お干菓子の取り合わせの面白さを楽しむことができました。
 
 祖母はよく「大文字が終わると秋の気配がしだすねえ。」と言っていました。そういえば、16日が明けて、翌日の朝の空には、うろこ雲が広がっていました。とはいえ、大文字が終わっても京都は、そうやすやすと残暑は引きません。
 それでもここ数日は、夜になると蟲の声が届くようにもなりました。
 秋は、少しずつ近づいています。

緑菴

住所 京都市左京区浄土寺下南田町126-6
電話番号 075-751-7126
営業時間 10:00〜19:00
店頭販売期間 8月13日〜8月16日、注文の場合は要相談
定休日 第2、第4水曜日(祝祭日は除く)
価格 420円(税別)

https://www.ryokuan-kyoto.com/

紫野源水

住所 京都府京都市北区小山西大野町78−1
電話番号 075-451-8857
営業時間 10:00〜18:00
販売期間 大文字 7月末〜8月16日、青楓 5月~8月16日
定休日 日曜・祝日
価格 大文字 130円(税別)青楓 120円(税別)

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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