EXTRA2019.08.06

京都歴史

祇園祭 山鉾巡行の花 綾傘鉾とお稚児さん―末富 稚児の袖[京の暮らしと和菓子 #26]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 7月1日からのひと月、祇園祭は31日の疫神社夏越祭を最後に全てを終えました。令和元年の祇園祭は、鷹山の再興に向けた唐櫃巡行が実現した年でもありましたが、何よりも祇園祭の創始から1150年を数える節目の年であったのです。

 祇園祭は、平安時代の御霊会(ごりょうえ)にその起源が求められます。御霊とは、政争などによって無実の罪で非業の死を遂げた人物の魂の事を言い、これが怨霊となって祟りを起こすと信じられていたのです。とくに平安京という都市での疫病は、ひとたび流行すると蔓延し、多くの犠牲者を生むことになり、これが御霊の祟りのせいであると考えられたのです。

 貞観5年(863)、神泉苑で怨霊を鎮めるための御霊会が宮中行事として初めて行われました。そして、疫病が流行った貞観11年(869)、当時の国の数である66本の「鉾」を神泉苑に立て、神輿を担いでいき御霊会を行ったのが、祇園祭の原点とされます。この鉾は、今のような山車(だし)の形式ではなく、今も京都各地の祭礼で見ることができる長い柄の先に刀をつけた「剣鉾」のようなものであったと考えられていますが、御霊会に鉾が用いられた最初の例となります。今年はそれから数えて1150年となるのです。

 祇園社(現在の八坂神社)の成立には諸説ありますが、一説には貞観18年(876)に僧円如が、播磨国広峰(ひろみね)社に祀られていた牛頭天王(ごずてんのう)を京都東山に移したとされます。インドの祇園精舎の守護神である牛頭天王は、一方で災厄をもたらす厄神として恐れられた渡来神でもありました。御霊の脅威をさらに威力を持つ外来の厄神で鎮めるという構造であったことがわかります。920年から30年代には神仏習合の「祇園天神堂」あるいは「祇園感神院社」と称される祭祀施設が東山山麓の現在地に成立していたと考えられます。そしてのちに、牛頭天王は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の本地(ほんじ)であると考えられるようになりました。

八坂神社 本殿

 

 また『備後国風土記(びんごのくにふどき)』の逸文にみえる武塔神(むとうのかみ)と蘇民将来(そみんしょうらい)の話も祇園信仰と結びついていきました。すなわち、武塔神が旅の途中に宿を求めた時、神を歓待した蘇民将来に応えて、疫病が流行ったとき「蘇民将来の子孫」であると名乗って腰に茅(ち)の輪をつけると、疫病を免れることができると教えたというものです。この神も素戔鳴尊と習合し、さらに祇園社の縁起に取り込まれていきました。

 慶応4年(1868)に八坂神社と改称され、神仏習合を廃して祭神は素戔嗚尊となりました。祭りの期間に山鉾町で授与される粽(ちまき)には、いずれも「蘇民将来子孫也」という護符がつけられていることはよく知られています。八坂神社の氏子はみな「蘇民将来子孫」を名乗ることで、疫病を被らないというご利益をうけることになるのです。

綾傘鉾の粽 上部に「蘇民将来子孫也」の護符をつける

 

 平安時代の京都に生まれ、時代を超えてそこに住まいしてきた人々によって守り続けられてきた祇園祭という驚くべき祭礼に、今年はまことに特別な計らいを賜って、少し内側に入って拝見する機会を得たのです。

 インド旅行でたまたまご一緒したご縁がもとで、すっかり意気投合して、楽しいお出かけによくお付き合いいただく、山鉾町の近くに住む友人から「うちの孫が今年、綾傘鉾のお稚児さんを勤めるの」とお聞きしたのでした。お孫さんは、洛央小学校1年生の田阪裕康君。実は彼女のご子息で裕康君のお父様も、かつて綾傘鉾のお稚児さんをされた経験があり、今回、親子2代にわたるお勤めをされることとなったのです。

 それを聞いて、厚かましくも本記事での取材を願い出たところ、彼女のお口添えのおかげで、綾傘鉾保存会にも特別のお許しを頂き、綾傘鉾とお稚児さんの祭での一部始終を実見できるというまことに貴重な経験をさせていただいたのでした。

 今回は、この綾傘鉾のお稚児さんに関わる祭事を中心にお伝えしたいと思います。 

 綾傘鉾は、四条通から一本南にあたる東西の通り、綾小路通りを室町通から西に入った善長寺町にある鉾です。鉾といっても他の鉾のようにお囃子を乗せる曳き鉾形式ではなく、古くからの祭礼行列の風流(ふりゅう)の伝統をひく、大傘、棒振り踊り、お囃子などを伴った徒歩による巡行という特筆すべき形態をとっています。とくに傘は、その下に御霊を集めるとされ、各地の祭礼の花傘などにもその伝統をみることができるのですが、古い祭礼の形を残すものです。

綾傘鉾の巡行 大傘2基

 

棒振り踊りと締め太鼓 棒振りは赤熊(しゃぐま)をつけて、覆面をする 締め太鼓は面をつけた二人組み

 

 綾傘鉾について、応仁の乱以前のことは記録がなく詳細は分かりませんが、乱後の復興について伝える「祇園社記第十五御霊会山鉾記応仁一乱後再興」の「ほく(鉾)の次第」に「綾小路室町之間 はやし物」という記載があります。その所在からも現在の綾傘鉾の場所に、応仁の乱以前に「風流囃子もの」を行う綾傘鉾があった可能性は大きいと思われます。

 江戸時代18世紀から19世紀の記録からは、鶏卵を持った金鶏を大傘の上につけて、生き稚児3〜4名に、壬生村から出仕する棒振1名、隠太鼓2名に、鉦、太鼓、笛のお囃子など、人数は異なるものの、現在の綾傘鉾とほぼ同様の構成で巡行していたことがわかります。

享保12年(1727)作の金鶏。禁門の変の大火でも焼失を免れ、現在も巡行の時に大傘の上に取り付けられる

 

 ところが天保5年(1834)、北観音山の新調に伴って譲り受けた旧部材を用いて、曳き鉾が作られたのです。その姿をのちに模型として製作したものが残されていますが、屋根の上に金鶏を戴いた傘を乗せた姿であったことがわかります。

明治時代にかつての曳き鉾の姿として作られた模型

 

 元治元年(1864)の禁門の変(蛤御門の変)によって、京都は壊滅的な大火に襲われ、祇園祭の山鉾町も大きな被害を被りました。綾傘鉾も、屋根周りと傘は残ったとされますが、ほとんどのものがこの火災によって焼失したようです。焼失を免れたもののひとつに二人一組で行われる締め太鼓が額上につける面がありますが、これは現在では、神面として宵山期間、町内大原神社のお飾り所に安置されます。鉾焼失後もしばらくはこの神面を入れた唐櫃による徒歩巡行が行われていましたが、明治4年(1871)から同11年(1879)まで休み山となり、明治12年(1879)から同17年(1884)まで徒歩囃子の形で巡行に復帰したものの、それ以降再び巡行参加は途絶えてしまいました。 

宝永5年(1708)作の締め太鼓の演者がかぶった面 現在は神面とされている

 

 その後、昭和48年(1973)、大原神社を拠点に棒振り囃子として復興し、さらに昭和54年(1979)から綾傘鉾として正式に巡行に参加するようになったのです。

 綾傘鉾の大きな特徴の一つが、今回特に取り上げる「生き稚児」です。現在の祇園祭で「生き稚児」といえば、長刀(なぎなた)鉾のお稚児さんと禿さんを思われる方が大半だと思いますが、長刀鉾以外で「生き稚児」を出しているのは綾傘鉾だけです。

 しかも、現在の綾傘鉾では6人ものお稚児さんが、赤い差掛け傘で先頭を歩みます。これに続いて壬生六斎念仏講中の方々による棒振り、締め太鼓、笛と鉦のお囃子が練り歩き、2基の大傘が続くという長大な巡行列となっています。「風流囃子もの」の鉾として、山鉾の中でもひときわ目を引く華やかな存在となっているのです。

 さて、今回は、巡行に参加するお稚児さんの準備の段階から追いかけることといたしました。

5月12日 綾傘鉾お稚児さんの衣装合わせ

 善長寺町の大原神社内の町会所で、この日6人のお稚児さん、お父様方と綾傘鉾保存会理事会の方々との顔合わせと諸行事についての説明が行われました。

 江戸時代は町内からお稚児さんが出ていたのですが、町内の人口が減少している今日、ほとんど町外の方が勤められることになります。様々なご縁で選ばれた今年のお稚児さんは、幼稚園から小学校2年生までの男児で、長刀鉾のお稚児さんより少し幼い年代です。そこがまたなんとも愛らしいのですが、まだ身体の小さい児もおられるので、この日のもう一つ重要な仕事は、お稚児さんの衣装合わせです。

 装束は、狩衣(かりぎぬ)の一種である水干(すいかん)と括り袴です。また文献から江戸時代の綾傘鉾のお稚児さんも金烏帽子(えぼし)を被っていたことが確認できますが、それぞれの頭に、金烏帽子を合わせます。足のサイズ、背丈裄丈などを測り、水干を試着してみるなど、善長寺町女性会のご婦人方がテキパキと進められていきます。こうして、7月までに衣装のサイズ調整などの準備が進められるのです。

田阪君 金烏帽子を被ってみる
裄丈を測る
水干の袖に手を通してみる

7月7日 稚児結納の儀と八坂神社参拝

 7月1日の吉符入からすでに祇園祭の諸行事は始まっています。2日の籤とり式も済み、綾傘鉾は傘一番を引き、全体で7番目の巡行順が決まりました。

 そして7日は、八坂神社の常盤(ときわ)新殿の中にある常盤御殿で、いよいよお稚児さんの結納の儀が行われる日です。常盤御殿は、普段非公開となっていますが、これはもともと、伏見・後伏見・花園・光厳・ 崇光・後光厳天皇の持明院系六代の御所が営まれた場所にあった建造物です。

 寛政元年(1789)門跡寺院光照院の寝殿として利用され、時の光格天皇からは「常磐御所」の名を賜ったという由緒ある建物です。その後、明治38年(1905)、旧三井邸(新町六角)に移築されましたが、これが昭和31年(1956)に八坂神社に寄進されてからは「常磐御殿」と称し現在に至っています。

 この格調高い座敷で、稚児と綾傘鉾の善長寺町が養子縁組をするための結納の儀が行われますが、その前に稚児は、化粧をし、装束を着用します。今回、その様子も取材させていただきました。

常盤御殿の床の間

 

 お稚児さんのお化粧は、「神事の化粧方」によってなされる伝統的なものです。

 白粉(おしろい)などを塗る前に、透明なクリームのようなものを塗りこまれていたので、傍から質問しますと、最初に鬢付け油を塗って下地を作るのだそうです。化粧崩れを防ぐためだそうですが、お相撲さんが髪につけられる鬢付け油より、軟らかい番手のものを使われているとのことです。ただこの鬢付け油の量のほんのわずかな違いで、仕上がりのおしろいの白が違ってくるのだそうです。

鬢付け油を下地として塗る
鬢付け油を下地として塗る
軟らかい番手の鬢付け油が良い
鬢付け油

 

 まぶたの上にピンクの水おしろいをつけてから、お顔全体に刷毛で白い水おしろいを塗り、上から粉おしろいでおさえます。首の後ろ、前にも水おしろいを刷毛で塗り、粉でおさえて落ち着かせます。眉からまぶた、目頭にかけてピンクの粉をはき、きりりとした黒い眉を描きます。眉の輪郭を細い筆につけた水おしろいでくくって眉を際立たせ、まなじりに赤、ピンク、朱色を混ぜた少し強い紅のラインを入れます。ここまできますと、いよいよお顔の白さが神々しく、輝きを放ってきます。神の使いとしての稚児のお顔が生まれてまいります。

化粧道具一式
お化粧をしてもらう田阪君
水おしろいを塗る柔らかそうな刷毛
目の周りなどピンク色を差すブラシ
水おしろいの後、粉でおさえる
首の後ろにも水おしろい
まぶたにピンク色の粉を重ねる
眉が入ると顔立ちがはっきりしてきます
目尻に紅が入って、切れ長の目が仕上がります

 

 ついで衣装つけです。田阪君は藤色の小袖に藍色の括り袴をはき、黄色の水干を重ねます。ほかの色目の衣装を着るお稚児さんもいらっしゃいますが、みな形は同じです。

 薄物とはいえ、着物を重ねるにつれ、おそらくこの年頃の男児にとって、この夏の季節には着たこともないほどの厚着となっていくのですが、この後の一連の行事を全て終えた後も、化粧が崩れることもなく、涼しげなままに見えるのは、さすがの化粧の技とお稚児さん本人らのしっかりとした心構えの故と言わざるをえません。

善長寺町女性会の方々による着付け
水干の紐を後ろで飾り結びにします

衣装をつけ終わると、化粧の仕上げです。額にふたつの作り眉を入れ、口紅をさしていよいよお稚児さんの誕生です。そして最後に光り輝く金烏帽子を被って紐を結びますと、凛々しい神の使いの完成です。

額に作り眉を入れる
唇の紅が入ってお稚児さんのお顔が仕上がりました
金の烏帽子をかぶります

 

 こうした裏方を支えるのは、全て女性達です。お化粧は、稚児の化粧で名高い顔師、奥山恵介氏を師として技を磨かれた「化粧方」の女性です。この日のお父様や保存会の皆さんの紋付袴、また巡行当日のお供衆の裃も、すべて着付けを担当されるのが、綾傘鉾の善長寺町女性会の皆さんなのです。

化粧方のお二人
全ての着付けを担当された善長寺町女性会の皆さん

 

 こうして、いよいよ皆の装束が仕上がると「常盤御殿」での結納の儀が行われます。お稚児さんは、一人ずつ名前を呼ばれると、「はい」という大きな声で応えて、お父様と一緒に座敷の中央に進み、綾傘鉾保存会理事長の寺田進様の前に座ります。

 お父様が「この度は、祇園祭綾傘鉾稚児の大役をいただき、誠にありがとうございます。
本日はお日柄もよく、御承諾のしるしとして結納の品を納めさせていただきます。何卒幾久しくお受け取りくださいますようお願い申し上げます。」とご挨拶され、結納の品をお渡しになると、理事長から、「本日は誠におめでとうございます。結構なご結納を頂戴し、厚く御礼申し上げます、幾久しくお受けいたします。」とのご挨拶が返されます。

常盤御殿でいよいよ結納の儀が始まる
田阪裕康君とお父様
扇を前にご挨拶
結納の儀の口上を述べられるお父様と田阪君

 

 稚児の皆さん全員が結納のやりとりを終えると、次の間で綾傘鉾保存会理事会の方々と共に、揃って固めの盃をいただきます。

 もちろん幼いお稚児さんらは盃に口をつけるだけで飲むことは止められていますが、古式ゆかしい儀式の中には、人と人との縁を結ぶお酒のやりとりが欠かせないことを知り、造り酒屋の家に生まれた私にとっては改めて印象深いものがありました。

6人のお稚児さんとそれぞれのお父様
盃にお酒を
綾傘鉾保存会のみなさんと稚児とお父様の固めの盃
固めの盃に口をつける
6人のお稚児さんとお父様が揃った記念写真

 

 そして、いよいよ八坂神社への社参です。お稚児さんには赤い傘がさしかけられて、神社の南に位置する楼門から境内に列をなして進みます。手水(ちょうず)を使ったのち、本殿の中に通していただき、神前の一列目にお稚児さん、その後ろにお父様が座ります。

八坂神社 南楼門から境内に
たくさんの見物客に、お稚児さんたちもびっくり
本殿に入る前に手水を使う
お口も清めて
本殿内へと進む

 

 神職の方のお祓いを受けた後、神前に神饌が供えられ、八坂神社宮司の森壽雄様の祝詞(のりと)奏上があり、その後ここでも「稚児神酒拝戴(はいたい)」が行われます。まさに神との契りの盃ということになります。この時、榊の葉ですくった米粒を懐紙にいただき、口にするという所作も加わりますが、いずれも本当に飲食するわけではありません。

一同お祓いを受ける
神職が神前に神饌を供える
宮司様の祝詞奏上
神前から神酒が運ばれる
稚児神酒拝戴

 

 この後、稚児ひとりひとりに験(しるし)の杉が授与されます。この杉にも「蘇民将来子孫也」の護符がつけられています。

 そして、稚児がそれぞれ玉串を奉奠(ほうてん)します。続いて保存会理事長の寺田様が神前に進まれ、玉串を奉奠され、全員で柏手を打ち参拝します。

蘇民将来子孫也の護符がつけられた験の杉
お稚児さんの玉串奉奠
寺田理事長が玉串奉奠
一同で参拝

 

 一連の神事が終わると、八坂神社宮司の森壽雄様から、お稚児さんひとりひとりに「宣状」が渡されます。こうしてお稚児さんは正式に、神の遣いのお役を賜わったのです。

 そして最後に、宮司様から17日の巡行の日について「皆さんどうぞ頑張って歩いてくださいね。」とのお言葉があり、お稚児さんのみんなから「はい」という大きな声でのお返事がありました。この幼いお稚児さんたちが、炎天下、あるいは雨模様かもしれない巡行の道中を、慣れない装束をつけて無事に歩き通せるかは、誰もが心配ないとは言い切れないことだと思います。

 しかし、あまりに明るく無垢なお稚児さんたちの返答に、救われるような気持ちになったのは、私だけではなかったことと思います。

宣状を受ける田阪君

宣状と験の杉
宮司様のお言葉を受ける

 

 このあと、本殿周りを3回廻って、本殿前(南側)と本殿裏(北側)でそれぞれ3回柏手を打って参拝し、最後にまた本殿前で参拝します。計7回のお参りで千回のお参りのご利益を受けることになるので、これを「お千度」と言います。京都では「せんど」は、回数が多いの意味でも使われます。「せんどたんねてきやはったさかい(何回も訪ねてこられたから)」のように。

本殿の正面南側からのお参り
本殿の裏に回ります
お父様と一緒にお千度参り
本殿裏北側からのお参り
再び本殿前でのお参り 各3回これを繰り返します

南楼門内で記念写真

 

 こうして、稚児らのお千度参りが終わりますと、神社の南楼門前で一同揃っての記念写真の撮影です。梅雨のさなかのこの時期、年によっては雨に降られることもあるそうですが、この日は雨降りにあうこともなく無事に社参の儀を終えることができました。

7月17日祇園祭 前祭(さきまつり)の山鉾巡行

 山鉾巡行の早朝、稚児の着付け会場となっている綾傘鉾の町会所に、夏らしく日焼けした田阪君が、少し緊張感を湛えつつも元気にやってきていました。

 いよいよ稚児のお化粧と着付けが始まります。

稚児の支度前の田阪君

 

 7月7日の結納の儀、社参の儀のときより、お化粧の塗りは厚めに仕上げられました。やはり、長時間炎暑の中を歩くことに備えてのものだそうです。そして前にはなかった手先のおしろいも塗られ、巡行本番のお化粧が仕上げられていきます。

巡行本番のお化粧、着付け

手先にもおしろいを
口紅を差して

 

 稚児の準備をしている間、外では2基の風流大傘を仕立て、江戸時代からの金鶏を1基目の傘に取り付けたりと、巡行の準備に大わらわです。この間、雨がぱらついてきたので、大傘にはビニールがかけられていましたが、出発までに雨も止み、巡行にはビニールを外すことができました。

 出発前には、稚児をはじめ巡行のお共をする方々も、一日の無事を祈って町内の大原神社に参拝して、いよいよ出発です。

巡行の準備が整った綾傘鉾の前で、一緒に歩かれるお祖父様とお父様も裃をつけて

出発前、青年部の方に、蘇民将来子孫なりの護符がつけられた榊を腰につけてもらう
蘇民将来子孫也の護符がつけられた榊
大原神社に揃った6人の稚児の皆さん
お父様と一緒に大原神社に今日の巡行の無事を祈る

善長寺町を出発する綾傘鉾の一行

 

 綾小路室町西入ルの善長寺町から室町通を北上し、四条通りを巡行出発地点である四条烏丸の交差点へ向けて東に進みます。山鉾は交差点手前で巡行の順番に合わせて前後で待機します。巡行の先頭を行くのは、「籤取らず」で一番が決まっている長刀鉾です。今年の綾傘鉾は7番目で、6番目の郭巨山を先に見送っての出発です。

四条烏丸の巡行出発地点へ向かう稚児列
続いて四条烏丸の巡行出発地点へ向かう棒振り、締め太鼓、お囃子と風流傘
いよいよ四条烏丸を出発する
風流大傘が四条烏丸を出発

 

 巡行は、四条烏丸を出発点として、四条通りを東に向けて進みます。これは四条通りの東の突き当たりにある八坂神社の方を向いて進むことを表します。そういう意味で四条通りは祭の中でも厳粛な行程とも言えます。稚児列を先頭に棒振り囃子の一行はお囃子を奏でながら進み、これに風流傘が続きます。

 四条通りでは、四条堺町に「籤改め処」が設けられ、ここで籤で引いた順に巡行していることを奉行(京都市長)が確認することになります。江戸時代の風を残し、奉行役の市長は烏帽子を被り大紋の直垂(ひたたれ)を着用されます。奉行など諸役の方々の前で棒振り囃子が演じられます。

籤改めで奉行の前に籤札をさしだす町行司
奉行は籤札を読み上げる
籤改め処前で、棒振り踊りを
籤改め処前で、締め太鼓を奏す
四条通りを行く棒振り踊りとお囃子
赤熊をつけた棒振り
お囃子の笛方も壬生六斎念仏講中の方々

 

 さらに四条通りを東へ進み、四条寺町の御旅所(八坂神社の神輿3基が神幸祭から還幸祭までの1週間ここに留まります)では参拝と、棒振り囃子の奉納が行われます。

 また四条河原町の交差点では、八坂神社の方へ向けて棒振り囃子が奉納されます。

 こうした踊りが行われるような間、お稚児さんたちは椅子に腰掛けて、小休止です。途中でトイレに立つこともなかなかできないため、水分補給も慎重にしなければならず、随行しておられるお父様方が扇であおいだりして、なんとか涼を取るという具合で炎天下の巡行を凌ぎます。

 それでも疲れた顔ひとつせず、にこやかに子供らしく微笑んだり、また背筋を伸ばして厳かに歩むお稚児さんたちには、本当に感心してしまいます。神の遣いのお役をみな精一杯果たしておられます。

御旅所での参拝
御旅所に棒振り踊りとお囃子の奉納
四条河原町に差し掛かる綾傘鉾一行
四条河原町交差点では東の八坂神社に向けて、剛振り踊りとお囃子の奉納
小休止のお稚児さん 汗でびっしょり濡れたお顔ですが、元気な笑顔です
しっかりとした足取りで姿勢よく歩くお稚児さん
疲れも見せず颯爽と歩く田阪君

 

 四条河原町からは、北へ方向をかえて、河原町通りを北上します。沿道を埋める観客も、綾傘鉾の棒振り囃子が通るとひときわ沸き立ちます。

 三条河原町では、舞妓さんをはじめ祇園甲部の方々も山鉾を待ち受けておられ、奉納のお品と粽のやりとりも行われます。

河原町通りを行く綾傘鉾
舞妓さんが待ち受けておられる三条河原町

 

 ついで河原町御池の交差点で、巡行列は西に曲がり、御池通を西に向かって進みます。御池通には観覧席が設けられており、綾傘鉾が近づくと、お稚児さんに「まあ、可愛いわねえ」などとの声が上がります。また随所で棒振り囃子が披露され、他の山鉾とは違う芸能を伴った風流に、客席が湧きます。

 そして、この観覧席ではお稚児さんのお知り合いの方が待ち構えておられる場合もあり、知り合いを見つけると、お父様と一緒に粽を持ってご挨拶に行かれることもあります。

御池通の市役所前を通る綾傘鉾
市役所前で棒振り踊りとお囃子を演じる
お稚児さんの知り合いもいらっしゃる観覧席
観覧席のお知り合いに粽を届ける
烏丸御池で綾傘鉾の共衆とお稚児さんの記念撮影

 

 烏丸御池を通過しますと、巡行の「鉾」は新町通を南下、「山」は室町通などを南下しては帰路を目指すことになります。

 地元の人は、新町通を南下してくるこの道中を好んで待ち受けます。狭い新町通を大きな鉾が通過する臨場感を楽しんだり、町家の二階が、鉾のお囃子の高さと近いことから、二階から、お知り合いの方に声をかけたりと、観光とは違うかつての祭の楽しみ方が色濃く残っているのです。

 棒振り囃子もこの道幅で繰り広げられると、一層迫力が増します。

御池通から新町通に入る
新町通での棒振り踊りは、なおさら迫力がある
町家は二階の格子を外して鉾を待ち受ける
粽を届けるお稚児さん

 

 こうして新町を南下して四条通りに出ますと、綾傘鉾は新町通の一筋東にある室町通へ入り、南下すればもうすぐに善長寺町です。

 最後まで歩き通したお稚児さんたちも立派な姿で町内に戻ってくることができました。大原神社の前での棒振り囃子の奉納が終わると一同が大原神社へのお礼の参拝をして、令和元年の巡行は無事終えられたのでした。

四条通りから室町通へ入る
お稚児さんも最後までしっかり勤められました
室町通を南下して、もうすぐ善長寺町
帰ってきました町内へ
最後に町内の大原神社へお礼の参拝

 

 さて、今回ご紹介するお菓子ですが、ほかでもないお稚児さんを出された田阪さんのお住まいが、松原通室町東入にある「京菓子司 末富」本店のご近所であり、友人であるお祖母様からも、お家では代々「末富さん」のお菓子を愛用されているとすでに聞いていましたので、これはぜひとも「末富さん」で選ぼうと早くから決めていたのでした。

 さらにこの春、KBS京都ラジオの水曜日午後の「さらピン!キョウト」という新番組で、京都造形芸術大学が3ヶ月間3人の教員を出すという協力をすることになったのです。その5月の担当を私が務めさせていただいたのですが、その折に、ゲストとして末富さんの会長、山口富蔵様にご出演のご協力をいただくことが叶ったのでした。当日は、この「京の暮らしと和菓子」でもご紹介したことのある「唐衣」や葛の「水無月」など、美味しい夏のお菓子を携えてスタジオ入りしてくださったのでした。

 その打ち合わせに伺った時に、本店の応接室で、本企画のお稚児さんの記事に合わせてのお菓子をご相談したのでした。会長様にお教え頂いたお菓子が、まさに今回の「稚児の袖」だったのです。

 私はまだ口にしたことのないお菓子でしたが、写真を見せていただいて、その凛とした姿に、すっかり魅了されてしまいました。そして会長様が常々お話になる「京都のお菓子は、写しすぎたらあかんとおもてます。そこから色々なお話が広がるような、そんな愉しさがないと。」というそのお考えが、まさにこのお菓子にも貫かれていると思いました。「写し」すぎるとは、写生的に作りすぎる、そっくりに作りすぎるという意味です。実物そっくりにできあがったものは、それ以上でもそれ以下でもない固定的な価値しか宿らないけれど、本質を捉えれば、象徴化されたり、簡略化されることで、かえって深い解釈の世界が広がるということをおっしゃっているのだと、私は思っています。

 お稚児さんが着用する狩衣や水干は、袖を括ることもできるように、袖口に組緒(くみお)が通されています。「ういろう」におそらく粉をつけた凸型の器具でくぼみをつけているのではないかと思うのですが、その一線が加わることだけで、四角い「ういろう」が狩衣の袖に見えてくるのです。「ういろう」が薄物のように、質感の違う白い線が組み緒のように。上品な夏の装束のイメージが出来あがります。

 中に包まれる小豆を使わず葛だけでできている薄紫色の餡は、袖の間から覗く小袖の色をあらわすように見えてきます。その葛の透明感が見た目の涼やかさをさらに高めています。

 その上、「ういろう」をうっすら透かして映る紫色が夏の装束の紋紗(もんしゃ)の透け感さえ連想させます。

 このお菓子に惚れ込んで、私は紋紗の紋をイメージして、この白いお皿を選んでみました。こういう取り合わせの愉しみといったものが、お菓子をいただく側にも広がることが、会長のおっしゃる京都の和菓子の世界なのかも知れないと改めて感じ入ったのです。

 そしてそのお味は、私の大好きな「末富さん」の「ういろう生地」に、あっさりとした葛の甘さと食感が、涼味を呼びこんでくれるような、これまたじつに上品な取り合わせの妙を実現していたのです。

 巡行が終わってから、かの友人が言うのには、
「今回、末富さんにお稚児さんにちなんだお菓子を進物用に頼んだの。」 
 私が5月というとんでもなく早い時期に、記事のためのお菓子の相談をすでにしていたことも聞かれたようで、
 「幾つか取り合わせていただく中に、あなたの選んだ「稚児の袖」も入れていただいたんやけど、ほんまに美味しかったわあ。差し上げた方からも、とても好評で。やっぱり末富さんやねえ。」と。
 ほんとうに、「やっぱり末富さん」でした。祇園祭を守り続けてきた京都の真骨頂をまさにお菓子の世界で見せていただいた思いです。

 

参考文献)久保田恵友「祇園祭、綾傘鉾について」『祭礼の美~石取祭と祇園祭~』(桑名市博物館、平成28年)       

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 綾傘鉾保存会のご好意で、いつもに増して、たくさんの貴重な場面を撮影させていただくことができました。これをできるだけ紹介したいとの思いから、今回、綾傘鉾の棒振り囃子、棒振り踊りの動画と日和神楽などを番外編として、別に仕立て、近日中にお届けします。 
 ぜひ合わせてご覧いただき、この祭りがどれほどの熱量をかけて催行され、尽きせぬ魅力を持ち続けているのか、またそれに身を挺して携わっておられる方々の姿を幾らかでも感じ取っていただけたらと願っております。

 

京菓子司 末富 本店

住所 京都市下京区松原通室町東入
電話番号 075-351-0808
営業時間 9:00~17:00
販売期間 7月1日~7月17日
定休日 日曜・祝日
価格 500円(税抜)、10個以上の注文で
2日以上前に予約が必要

http://www.kyoto-suetomi.com/

 

  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都造形芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都造形芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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