伏見 秋の賑わいとその歴史 御香宮神社祭礼と復元された太閤秀吉献上羊羹【第1篇】-総本家 駿河屋 古代蒸羊羹-[京の暮らしと和菓子 #28-1]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
9月、10月と台風の影響が相次ぎ、そのたびに各地の甚大な被害のニュースに心の傷む日々が続きます。被害に遭われた方々に、心よりお見舞い申し上げます。
今回の「京の暮らしと和菓子」は、伏見の歴史をたどりながら、3編仕立てで、お菓子は伏見の代表的な老舗、総本家駿河屋さんを取り上げ、9月、10月に合わせて取材が叶った伏見の御香宮(ごこうぐう・ごこうのみや)神社の神能と神幸祭をご紹介させていただきます。
9月23日(月・祝)の神能(蝋燭能)、10月13日(日)の神幸祭の両方ともが、それぞれ前日の台風の襲来によって、実施が懸念されながらの催行でした。
とくに神幸祭は、当日朝5時30分に祭りの実施か中止かが決まるという事態となっておりました。当の私も台風でスクーリングが中止になったために、急遽、祭礼も取材させていただこうと決断したような具合でした。
伏見生まれの私には、御香宮神社の祭りは子どもの頃の懐かしい思い出がたくさんありますし、今回取り上げる「総本家 駿河屋」は、通学のために毎日前を通っていたこともあり、とても身近な老舗でした。家にお客様があるときは、よく「駿河屋さん」へお遣いにやらされ、和菓子を頂いたものです。
さて、まずは伏見の歴史をたどりながら、伏見の歴史と切っても切れない御香宮神社と、「総本家 駿河屋」を取り上げたいと思います。
【第1篇】中世から近世の伏見をたどって・・御香宮神社と総本家駿河屋の羊羹
1. 古代・中世の伏見と御香宮
古代の伏見については、断片的に「臥見(ふしみ)村」、「伏見」などの地名が六国史や『万葉集』の中に散見されるのですが、具体的な詳細はよくわかっていません。
ただ御香宮神社はその創始は不詳とされつつも、古代に遡る神社であったと考えられています。
もとは『延喜式』に載せる御諸神社(みもろのじんじゃ)にあたるとされ、平安時代、清和天皇の貞観4年(862)9月、境内に良い香りのする水が沸き出したので、その奇瑞により御香宮の宮号を賜ったといいます。
主祭神は神功皇后で、その夫である仲哀天皇、息子の応神天皇のほか6柱の神々を祀り、現在も安産守護、子育ての御神徳で信仰を集めています。
時代は降りますが、江戸時代の様子を描いた『都名所図会(みやこめいしょずえ)』には、御香宮の名前の由緒となった「ごこう水」の井戸が境内の中にある鳥居の右奥に描かれています。今は社殿の前で供されている御香水は、昭和60年に環境庁(現・環境省)名水百選に選定されました。それ以来、毎日これを汲みに来る人が絶えません。
中世には、伏見九郷と称された村々(久米村・舟戸(津)村・森村・石井村・即成院村・法安寺村・北内村・山村・北尾村)があったことが知られ、またこの九郷の総鎮守として尊崇を集めてきたのが御香宮神社でした。
室町時代、伏見に住していた伏見宮貞成(ふしみのみやさだふさ)親王が記した『看聞(かんもん)日記』に、御香宮に関する興味深い記事が見られます。『看聞日記』は応永23年(1416)から文安5年(1448)の間の記録が残されており、15世紀の伏見の様子をうかがい知る貴重な史料でもあります。
『看聞日記』によると、盗人などの糺明(きゅうめい)の際に、伏見荘内住人がことごとく集い、神前において身の潔白を証明する場となったり、いったん事あるときは、御香宮に住人が武装して集結したりするようなこともあったことが記されます。当時の御香宮が地域の紐帯となるような存在であったことがわかります。
また、御香宮祭礼の風流(ふりゅう)傘や大相撲、猿楽(さるがく)の奉納のことなども登場します。猿楽とは、古代中世に盛んに行われた芸能で、物真似や歌舞、軽業など広範なものを含んでいたのですが、今日の能狂言の基礎となったものです。
第2篇で詳細をレポートしますが、今回取り上げる御香宮神能は、じつは、この中世以来の猿楽奉納の伝統を引き継ぐものなのです。なお今年は台風の影響で、神幸祭宵宮の花傘は中止されたため、第3篇の神幸祭で取り上げることはできなかったのですが、これも『看聞日記』に出てくる風流傘の伝統を引くものとされます。
2. 伏見城と御香宮
伏見と御香宮に大変革が起きたのが、豊臣秀吉の伏見城築城です。秀吉は文禄元年(1592)に隠居所として伏見に指月屋敷を建造し始めていたのですが、文禄3年(1594)には、さらに本格的城郭建設と各大名屋敷を含めた城下町の造成を進め、社寺や村落の移転が行われました。この時、御香宮を鬼門守護神として大亀谷に移転させたのでした。
秀吉によって今の伏見の町の元ともなった城下町が形成され、宇治川の付け替え、水運、街道の整備も行われ、伏見は、交通の要衝地、またとして大きく生まれ変わったのでした。
そして今回ご紹介する総本家 駿河屋は、まさにこの伏見城の秀吉に羊羹を献じたと伝えられる老舗なのです。
慶長元年(1596)、完成したばかりの指月の伏見城は慶長大地震で倒壊したのですが、すぐに隣接する木幡(こわた)山に新たに城の再建が進められ、慶長3年(1598)に完成しましたが、同年8月秀吉は亡くなっています。その後豊臣秀頼が在城しましたが、秀頼が大坂城に移った後、慶長4年(1599)には徳川家康が本丸に入城したのです。
その後家康も大阪に移ったのですが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの前哨戦で大坂方の攻撃を受け伏見城は焼亡しました。しかし翌年から家康によって再建され、家康は引き続き伏見にあって政務を行ったのです。
あとさきになりますが、慶長18年(1613)には角倉了以に命じて京都二条から伏見までの高瀬川の開削が行われ、大坂、伏見、京都までの水運が確立し、伏見はさらに流通の重要な拠点となったのでした。
そして慶長10年(1605)、家康の命によって、御香宮は大亀谷から移転前の地(現在地)に戻され、三百石の社領が与えられました。秀吉の伏見城築城時に移された大亀谷の元の境内は古御香(ふるごこう)と称され、お旅所として現在に至っています。
この折に家康が造営したのが、現在の本殿です。これをはじめとして現在の主要な社殿は、徳川氏一族の寄進によってじつに壮麗に再整備されたのでした。
のちに徳川御三家の始祖となる兄弟が伏見で産まれたことと関連があるとされますが、伏見城廃城の時期に重なる元和8年(1622)には、水戸中納言頼房(よりふさ)が元伏見城大手門を表門として寄進し、続いて寛永2年(1625)、紀州大納言頼宣(よりのぶ)が伏見城の車寄せ(あるいは古御香の遺構とも)を拝殿として寄進したとされます。
また非常に重量のあることで現在は祭礼に使用されなくなっている神輿ですが、秀頼の娘の千姫が伏見で産まれたことを祝って寄進されたものと伝えられており、今も「千姫神輿」と称され、祭りの日には境内で披露されています。
これらの建造物には、桃山時代を思わせる多様な彫り物の装飾が施されています。中でも拝殿の蛙股には、御香宮の御神徳に因むと思われる安産や子育て、子孫繁栄を願った意匠が多数見られます。
鷹が松の上の巣の中にいる3羽の雛に餌をやろうとしているところや、親猿が、栗の実をいがの中から取り出して、子に与えているところなどが表されています。桃の花と豊かに実る桃の実にも、生命力と邪気を払う意味が重ねられているのでしょう。
こうして、伏見城廃城の動きとともに、御香宮はその建造物の一部を引き継ぐことになったのですが、伏見の政治的な地位は低下したのです。
3. 伏見と総本家駿河屋
伏見城廃城の後、幕府の直轄地として伏見奉行所が置かれたものの、大名、大商人たちは伏見を離れていくこととなりました。これと関連するのが、今も京町通りにある総本家駿河屋さんなのです。こちらの創業は約550年前の室町時代といい、伏見の船戸庄にあった「鶴屋」という餅菓子屋でした。
秀吉が開いた聚楽第の茶会の折の引き出物として「鶴屋」が「羊羹(ようかん)」を献上したと伝えられますが、天下人や諸大名もこぞって茶の湯を嗜んでいた時代でもあり、伏見城とその城下町ができたことで、新しい顧客を得て大繁盛を遂げたことが想像できます。
そして、徳川家の人々は、それこそ幼少の頃から、この鶴屋の菓子を口になさっていたのでしょう。先ほど御香宮の拝殿を寄進したことをご紹介した徳川頼宣が、駿河へ移る時にこの「鶴屋」を伴われたと言います。
頼宣はのちに紀州の55万5千石を受封し、紀州徳川家の祖となりますが、この時、「鶴屋」も紀州へ移りました。以後代々、紀州藩御用菓子司として栄えたのです。その繁栄の様子は、『紀伊国名所図会』にも描かれています。
また、徳川綱吉の息女「鶴姫」が紀州徳川家に輿入れされたことで、同じ「鶴」の字を使うことを憚って「鶴屋」を返上したところ、徳川家ゆかりの「駿河屋」の屋号を賜ったと言います。
こうして紀州の駿河屋として発展した菓子店は、創業の地、伏見にも店舗を残し、伏見本舗として今日に至っています。近代以降も、明治9年(1876)、総本家駿河屋伏見本舗から第1回パリ万国博覧会に「練羊羹(ねりようかん)」が出品され、金賞を受賞しており、輸出も行われたようです。その後も全国的に練羊羹で知られた菓子店として名を馳せていったことはよく知られます。
かつて学生時代、毎日通学のために店舗の前を通っていた私にとって、とても印象深かったのが、駿河屋さんの店舗の脇にあった武家屋敷のような立派なご門でした。そこは駿河屋さんのご当主のお家と聞きました。残念ながら現存はしませんが、奥を伺い知ることができないほど大きな門であったことを覚えています。
駿河屋さんのある京町通りは、江戸時代は京への街道であったわけですが、そのすぐ東側一帯には今も奉行町という町名が残るように、伏見奉行や武家屋敷が立つ地域でした。伏見は、伏見城が造られた東の丘陵地帯から、西に向かって徐々に下っていく地形ですが、高いところに奉行所や武家屋敷が位置し、ちょうど京町通り以西が町人の住む地域であったとされます。
まだ京町通りに町家風の家も多数残っていた私の学生時代でも、駿河屋さんの立派なご門だけは際立っていました。町家の並びの中に、武家風の構えのお屋敷が一軒だけという特別感がありました。
当時は何もわかっていませんでしたが、江戸時代には紀州藩から年25石の扶持を与えられ菓子を納めていたというのですから、その格式を物語る構えであったのでしょう。
4. 太閤秀吉献上羊羹
さて、今回ご紹介する「太閤秀吉献上羊羹」(古代蒸羊羹)は、まだ寒天というものがない時代の「羊羹」です。江戸時代、寒天が考案されてから製法が確立したのが、日持ちもする「練羊羹」で、駿河屋さんはこの練羊羹を創始した菓子店とも言われます。秀吉の時代は寒天ができる前であり、羊羹の原型ともいうべきもので、いわゆる「蒸し羊羹」の製法によるものです。今回、その製造途中の一部を取材させていただきました。
まず、小豆を炊いてきめ細かく漉した餡と砂糖を綺麗に混ぜあわせます。
その間、良質の葛に水を含ませ、しばらく置いて溶かしておきます。葛が柔らかくなるとダマがなくなるくらい撹拌して混ぜておきます。
餡と砂糖が綺麗に混ざると、そこへ濾し器を使って先ほど溶かしておいた葛を流し込みます。
砂糖を混ぜた餡と溶かした葛を丁寧に混ぜ込み、とろみのある状態にまでしてから、さらに撹拌します。
そこに、また小麦粉を濾し器を使って2回に分けて振り入れ、さらに滑らかになるまで撹拌していきます。
出来上がった羊羹の生地を竹皮に一棹分ずつ分け入れて、手早く竹皮の紐で縛り、7寸のサイズに揃えて包みあげます。
これを1日冷蔵庫で寝かして、翌日、蒸し器で蒸しあげた後、冷まして落ち着かせたところで「太閤秀吉献上羊羹」の出来上がりとなります。
さあ、早速いただいてみましょう。竹皮を開いて出てくる透明感のある素朴な表情の羊羹は、見かけは、よくある「丁稚羊羹」に似ています。
ところが、小豆のふくよかな味がしっかりと口に広がり、ぶりんとした感触は、これが丁稚羊羹とは全く違うものであることを、はっきりと物語ります。
吟味された上質の小豆の旨味に、竹皮の香りがさらに深い味わいを作ります。丁稚羊羹には使われない上質の葛が、羊羹に雑味のない透き通ったお味とでもいうものと独特の食感を与えていて、これがやはりこの羊羹を格段に美味しいものにしています。
あっさりした甘みが、つい何切れも頂きたくなるような気持ちを起こさせます。食いしん坊な私は、恥ずかしながらふた切れは軽く頂けてしまいます。
濃厚な練羊羹にはない、滋味豊かでいて品の良い甘さの羊羹に仕上がっているのが、まだ甘いものの手に入りにくい桃山時代、天下人や大名、茶人が、どれほど惹かれたことかと思いを馳せます。練羊羹に慣れ親しんだ現代においても、かえって新鮮な美味しさを感じる「太閤秀吉献上羊羹」でした。
第2篇はコチラ。
第3篇はコチラ。
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。