伏見 秋の賑わいとその歴史 御香宮神社祭礼と復元された太閤秀吉献上羊羹【第3篇】-台風一過 御香宮神社神幸祭の賑わい-[京の暮らしと和菓子 #28-3]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
第1篇はこちらから。
第2篇はこちらから。
メイン写真は御香宮表門を出る神輿
2019年の御香宮神幸祭は、第1篇の冒頭でも書きましたが、10月13日(日)の神輿巡行などの祭礼本番が、前日の台風通過の影響によって、実施も危ぶまれるような状況でした。10月13日(日)は私自身、本来は大原でのスクーリング授業の予定でした。JRの計画運休の影響やスクーリング開講地の大原での安全確保の問題も考慮し、事前にスクーリング中止の判断をしなければならなくなっていました。大原までの山あいを通る一本道に倒木でもあれば、交通は完全に遮断されてしまいます。結果的に、台風は京都を直撃する進路ではなかったのですが、心配したとおり加茂街道の並木が倒木し、道が塞がるようなことも、実際におこりました。
このようななか、同じく13日に行われることになっていた御香宮神社の神幸祭もそれこそ大丈夫かしらと案じていたのです。
しかし、どうやら台風の影響があるのは12日中になりそうな進路を見ながら、もし台風が行き過ぎて無事祭礼が催行されることになったら、神幸祭を取材することはできないだろうかと急に思い立ったのです。前日12日午後のことでした。御香宮に突然のことですがと問い合わせますと、祭りが実施できるかどうかは、当日朝5時半に判断するとのことでした。
明け方には風雨は止んでいましたが、現地の事情はわかりませんし、とにかく祭りがあってもなくても行ってみるしかしようがないと、早朝5時前にカメラマンの高橋さんをピックアップして、車を走らせました。
結局、祭りは一部を除いてほぼ通常通り行われることになり、私たちは終日、できうる限り、あちこちでの行事の見せ場を追いかけ続けました。
おかげでたくさんの写真を高橋さんが撮ってくれましたので、今回は写真を中心に、御香宮神幸祭の熱い1日をご案内いたします。
1. 祭りの朝の御香宮
まだ暗い5時半の御香宮は、本殿の灯りのあたりを除いては、人影もほとんどありません。立ち並んでいる露店もまだ畳まれた状態です。伏見の実家にいた頃でも、このような時間に御香宮に来たことは一度もありませんでした。
私が子供の頃は、御香宮神社の祭礼は10月1日から10日の10日間でした。もともと、旧暦の時代は9月1日から9日の9日間の祭礼で、新暦になってからは10月1日から9日となり、1964年の東京オリンピック開催後、10日が体育の日という祝日になったため、10日が神輿の巡行などの神幸祭の日となったのでした。
そしてさらに体育の日が10月第2月曜日の祝日となってから、10月上旬の日曜日を神幸祭とする9日間の祭礼として、年によって日が異なるものとなりました。今年の祭は、10月5日から13日となっています。
子どもの頃は、祭礼の意味や行事の内容もよくわかっていませんでしたが、10日間ずっと境内や門前を埋め尽くす露店に、無上の非日常空間を感じていました。小学校で決められたお小遣いの金額を気にしつつ、この間何度も友達と神社に出掛けては、綿菓子や水あめ、串カツにスマートボールや輪投げ、お化け屋敷も楽しんだものです。これほどの規模の露店が10日間にも及んで立ち並ぶ祭りは、京都でも珍しいのではないかと思われます。
改めて祭礼全体を見渡すと、初日と宵宮の夜には各町から花傘行列が神社へ総出で向かい、最終日には、早朝から巨大な雌雄の獅子が町を駈け渡り、さらに猿田彦命と天鈿女(あめのうずめ)命が氏子町内をくまなくめぐって露祓いを行い、現在3基となっている神輿が三方に分かれて各氏子地域を渡御し、これに加えて稚児行列や武者行列も繰り出すという、まさに行事の多さ、規模の大きさでは京都市南部きっての大祭礼と言えましょう。
少し説明すると、かつて伏見城があり、現在、伏見桃山陵(明治天皇陵)のある桃山の丘陵地帯を西に少し下ったところに位置する御香宮神社ですが、その氏子地域はたいへん広く、桃山丘陵地帯とそれをぐるりと取り巻く地域、その西に続くかつての城下町で、交通の要衝であった伏見港につながる地域に広がります。
京阪電車沿線の駅名で言えば、北は「墨染」その南の「丹波橋」、御香宮神社最寄りの「伏見桃山」、そして「中書島」(この近くにかつて伏見港がありました)、「中書島」から宇治線に乗り換えて桃山丘陵の東側に続く「観月橋」、「桃山南口」、「六地蔵」あたりまでをおさめる地域となります。さらに近畿日本鉄道(近鉄)沿線の駅としては、神社からは北西の方角に当たる「伏見」ついで「近鉄丹波橋」、御香宮神社最寄りの「桃山御陵前」、そして宇治川を南に渡った「向島」までの範囲となります。
この広大な氏子地域は、まさに第1篇でも少し触れた伏見城を中心に開けたこの町の歴史とも切り離すことができないものです。
さて、今年の神幸祭当日に話を戻しますと、私たちが神社に到着した五時半頃には、祭りは予定通り執行ということが決まった直後でした。早速神輿の発輿祭(はつよさい)が行われていました。
現在3基の神輿は拝殿の東側に安置されています。この3基の神輿は、じつは2トン以上ある通称「千姫神輿」の代わりに、2基は昭和37年、もう1基が昭和62年に新造されたものに当たります。
伏見は、伏見港や高瀬川の水運を使って、材木や荷物を扱い、運搬する商売も盛んで、中でも高瀬舟は、重要な京への物資輸送の手段でした。これは、上り舟は曳綱(ひきづな)を用いて引き上げるという、人力に頼るものです。木挽町(こびきちょう)は、まさにこの高瀬舟の船頭が組織されていた町内で、強力無双の力自慢の氏子たちがたくさんいたのでした。元禄13年(1700)の祭礼以来、日本一重い神輿ともいわれた「千姫神輿」の渡御奉仕を高瀬川船頭組合が任されてきたと言います。そして木挽町の人々を中心とした多くの氏子によって担がれたこの1基で、かつてはすべての氏子地域をまわっていたのでした。古老によると、当時は早朝に神社を出御した神輿がお戻りになるのは深夜に及んだといいます。
しかし、時代とともに、これをかつげる担い手がいなくなり、現在「千姫神輿」は、収蔵庫に保管されています。そして祭りの時だけ収蔵庫の扉が開けられて、その巨大な威容を拝することができるのです。由緒書きには、慶長2年(1597)に徳川秀忠の長女、千姫の誕生祝いのために秀忠から寄進されたものと記されます。
さて、拝殿の西側には、大獅子と猿田彦命、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が祀られています。猿田彦命は天孫降臨の際、国神(くにつかみ)として現れ、天降(あまくだ)った神々を先導した神で、その妻とされる天鈿女命とともに、神輿渡御の先導の役割を担って、町を行くのですが、江戸時代中期の記録にも認められるほど、古い伝統を持つものです。さらに一対の大獅子は、文政4年(1821)に当時の伏見奉行、仙石大和守久功が病の全快を祝って奉納したもので、この重量のある獅子も伝統的に木挽町の人々が中心となって奉仕してきたものです。これらが町に繰り出す様子はのちにご紹介いたします。
いよいよ神輿の準備が始まりました。3基の神輿が順次拝殿から運び出されます。鴨居につかえないように鳳凰を取り外して、まず鵜鳥型(うのとりがた)神輿C班(桃山・六地蔵学区方面巡行)が引き出されます。この神輿は桃山御陵を越えてその東側にある六地蔵方面の氏子地域を巡行するものです。
この神輿は、先に出発する鵜鳥型神輿(A班)、神明型神輿(B班)の準備が済むまで、拝殿脇に仮安置され、最後に整えられて出御することになります。
ついで、拝殿から出されるのは、もうひとつの鵜鳥型神輿です。じつは、鵜鳥型神輿と神明型神輿は、以前はA班(桃山学区・深草大亀谷・住吉学区・板橋学区西方面巡行)とB班(向島学区・南浜学区・板橋学区東方面)で、毎年神輿を取り替えて巡行していましたが、今は5年ごとの交替となっており、現在は鵜鳥型がA班、神明型がB班となっています。
このA班の神輿は御香宮の東方面にあるJR桃山駅を出発し、桃山学区周辺を回って、もと伏見城北東の鬼門方向にあたる地、現在は古御香の御旅所がある大亀谷に向かいます。そこから西に下って近鉄伏見駅方面の住吉学区から板橋学区の西をめぐり、伏見桃山の大手筋商店街を通って御香宮に宮入するのです。
神輿の上部に鳳凰が取り付けられて、準備が整えられると、桃山の丘陵地帯を越えていくA班の神輿は、この後トラックに載せられて東鳥居から、出発地点のJR桃山駅へと向かいます。
3基目の神明型神輿(B班)には、屋根に赤いお衣(きぬ)が掛けられています。B班は、観月橋を渡って宇治川の南にある向島をめぐり、その後また観月橋から伏見桃山方面に戻って、丹波橋方面に北上し、また南下して中書島を廻り、最後に大手筋商店街を抜けて御香宮に戻ります。昔、城下町の中心的な地域であった、京都との街道筋の京町通り、金融の中心だった両替町通り、新町通り、伏見港で栄えた中書島などを渡御(とぎょ)します。京町1丁目と立石通りの交差点に位置していた我が家の前からは、ちょうど神輿が角を曲がって、両替町方面へ向かうのを見ることができました。
神輿を舁くための轅(ながえ)を神輿に縄で結いつけて、神輿の準備が整えられます。縄の結びをさらに締めこむために、水がかけられます。
最後に、屋根に千木(ちぎ)が取り付けられて、神明型神輿が仕上がります。
神輿の準備が進む中、神輿の巡行に伴う神職様が乗る馬が境内に着きました。
さて、神明型神輿の準備が整った頃、いよいよ雌雄の獅子が拝殿から下されます。このとてつもなく大きな頭(かしら)は、3人がかりで担がれます。なんとその重量は雄が61㎏、雌は63㎏といわれます。これに加えて胴の部分と尻尾を支える人が各1人と5人がかりの獅子となるのです。
この獅子を担うのは、獅々若の法被をつけた木挽町の人々です。先述した通り、高瀬舟船頭らの伝統を引く木挽町青年団の奉仕によって、この巨大な獅子は命を吹き込まれます。神輿が渡御する前に露払いとして町を廻るため、早朝、いっとう最初に神社を出発するのですが、驚くべきことに、この重量の獅子をずっと駆け続けで町を経巡(へめぐ)るのです。
かつて実家にいた当時は、祭礼の期間、表に一対の高提灯をあげ、門口には幔幕をまわしていましたが、神幸祭の朝6時前には表門の格子戸を取り外しました。門の内にある建物への入り口も普段は小さな潜り戸を使っているのですが、それを取り付けた大戸ごと全開にして、獅子を待ち受けたものです。
6時を回った頃、京町通りの北のほうから、「ほーっ、ほーっ」という声が聞こえて、慌てて表に出ると獅子が通りを走ってくるのが朝霧の中から見えてきます。家の前の道路にチョークの丸印が書かれている家には、獅子が中に入ることになっていて、所々で立ち寄りながら、かなりの勢いで疾走してくるのです。
「入って、入って、奥の方まで」と父が声をかけると、おくどさん(竃)のある土間の走り(台所)あたりまで巨大な獅子がずんずん入ってきます。子供の頃は、頭を噛んでもらうこともありました。京町通りは御香宮を出て最初に目指す通りで、まさに朝一番の獅子が行く道筋ですが、もうお酒の匂いをほんのり漂わせる男衆に担がれ、雌雄2匹の獅子は相次いで勢いよく入っては、出て行きます。ほんのいっときの来訪ですが、家族皆で毎年心待ちにしていたものです。
こうして祭りの朝は、家で獅子を待つのが慣いであった私にとって、神社での準備からの様子を見たのは今年が初めてでした。
現在は、もちろん朝から酒を飲んでいるような若衆はいらっしゃいませんし、残念ながら家を訪ねまわる風習もいつしかなくなっていました。出発の時間が7時半と、少し遅くなったこととも関係があるようです。
懐かしい家への獅子の来訪の話を獅々若の方にしていると、「10時半頃に木挽町に来たら、獅子が町内の家を訪ねるのが見られるよ」と教えていただきました。あとで追いかけることにいたしましょう。
神前での参拝が終わると、すぐに獅子は走り出します。境内の参道を走り抜け、表門に2匹の獅子が並び立つ迫力は、圧巻です。子供の頃、大きくて怖かったその顔が、今はどこか愛らしくも見える獅子ですが、木挽町獅々若の皆さんの昂まりが、いよいよ出立の門に溢れ出るようです。
2. 猿田彦命・天鈿女命と神輿の出御
さて、いよいよ神面と装束をつけた猿田彦命と天鈿女命が登場です。裃姿の猿田講社の方々と共に境内を出立します。神輿の出発の前に、くまなく氏子地域を回られるのですが、現在は帰りに通る大手筋商店街以外は、トラックに乗っての先導です。
その間に、神明型神輿(B班)の準備が整った9時すぎ、一同は拝殿前で出御の参拝をします。これを舁くB班は橘会の面々です。
境内の露店もそろそろ開店の準備が始まるころ、参道をところ狭しと舁き手の男衆が埋め尽くし、神輿が進んでいきます。
表門を出ると門前の大手筋通りで神輿は東に方向転換し、御香宮神社の東を通る国道24号線へと向かいます。その後ろには神職様が白馬に乗って供奉(ぐぶ)されます。
この神輿は、国道24号線を南下して、まずは宇治川の対岸にある向島を目指します。午前中から昼過ぎまで、神輿は向島を一巡するのです。
B班の出立の後、六地蔵へ向かう鵜鳥型神輿(C班)が拝殿中央に戻されて、鳳凰や轅が整えられていきます。
私たちは、10時30分頃に木挽町の大獅子舞を見にいくことにしていたので、残念ながら、こちらの神輿の出立には立ち会うことができませんでした。
先の2基より新しい神輿は、まだ金色が鮮やかですが、姿は先の鵜鳥型神輿とほぼそっくりです。六地蔵方面の氏子の皆さんが、ぜひ地元の神輿をという熱い思いで新造され加えられたものといいます。
3. 木挽町の大獅子と獅々若の男衆
さて、木挽町での大獅子の様子を見たいと、10時30分すぎに御香宮神社から駆けつけてみると、街を疾走してきた一行は、しばしの休憩中でしたが、着いた途端に、獅子が動き出しました。
地元に帰ってきた若衆たちは、安堵と喜びの表情で、朝一番に見かけた少し緊張した面差しとはガラリと変わっていました。一丸となった獅々若の昂まりは最高潮となっていきます。
大獅子を勇壮に担う男たちの晴れの舞台、御香宮神社氏子、木挽町住民の誇りと喜びが溢れていました。
木挽町の若衆の勢いは止まりません。なんとついにカメラマンの高橋さんまで獅子頭に載せられてしまいました。よそからの来訪者も受け入れてくださるおおらかさと、町内に満ちた笑顔の波が私たちをも幸せなひとときに引き入れてくださいました。そして、私は獅子の尻尾で作ったお守りを頂戴したのでした。
4.神明型神輿(B班)の巡行と差し上げ
さて、向島から戻ってきた神輿は、昼過ぎから、京町、両替町を北進し、新町を南下して南浜小学校前を通りますが、月桂冠の旧本社前では、台車を曳くのではなく人力で舁き、差し上げがおこなわれます。
現在人力での神輿舁きは、一部の決まった場所でのみとなっていますが、私の実家の近くでの一番の大見せ場が、ここ月桂冠旧本社前になります。
やはり伏見一の酒造メーカー月桂冠と代々の当主である大倉家は、この祭りにとっても特別な存在です。それこそ江戸時代より長らく御香宮を支えてきた最も代表的な氏子と言えましょう。
古い建物、酒蔵が続くこの一角の華やかな神輿巡行は、なかでも伏見らしい景観となっています。
5.鵜鳥型神輿(A班)の宮入
神輿を始め、いろいろな巡行が御香宮に戻る時、必ず大手筋商店街を通ります。この商店街はアーケードで覆われ、天候にも左右されにくく、また多くの人が見物するメインステージ的な存在となっています。したがって、神輿は必ずここでは人力で舁きあげての巡行となります。つまりは、最後の力を振り絞っての最も勇壮な見せ場となるのです。
7時過ぎ、たっぷり時間をかけて商店街を抜けるともうすっかり真っ暗な夜道でした。神輿には提灯がつけられて、夜祭の風情が昼間とは違う神輿の表情をつくっています。
近鉄の桃山御陵前の高架を抜けると最後の盛り上がりがやってきます。もうすぐそこに大手筋通りの大鳥居が待っています。この日は、台風一過の夜空に満月が照っていました。
拝殿に帰り着いた神輿は、猿田彦命、天鈿女命の見守る中、最後の神輿振りです。
激しく、強く神輿は揺さぶられ、人々は熱狂の渦となって神輿を上下させます。
音頭取りは扇を高く上げ、皆で囃します。
こうして神輿が神輿台の上におさめられると、瞬く間に鳳凰が取り外され、拝殿内に神輿が戻されます。
こうして台風一過の祭りは思いのほか順調に1日を終えられたのでした。久方ぶりに伏見の祭りの、少し荒々しく、でも底抜けに陽気で勇壮な姿を確かめられて、改めて伏見の人々の祭りにかける気概を感じた1日となりました。
夜の参道には、まだまだたくさんのお参りの人が溢れ、夜店の明かりが賑やかにともり続けていました。
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。