REPORT2022.08.19

文芸

『住んでる私が知らんかった京都大原の歴史的立ち位置、旧道歩きながら紹介するわ』― 文芸表現学科の学生が届ける瓜生通信

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  • 京都芸術大学 広報課

京都芸術大学 文芸表現学科 社会実装科目「文芸と社会Ⅱ」は、学生が視て経験した活動や作品をWebマガジン「瓜生通信」に大学広報記事として執筆するエディター・ライターの授業です。

本授業を受講した学生による記事を「文芸表現学科の学生が届ける瓜生通信」と題し、みなさまにお届けします。

(取材・文:文芸表現学科 3年 中村快)

 

 私は京都市の大原に住んでいる。
 大原は2時間あれば自転車で一周できる程度に小さい集落で、京都有数の観光地だ。

大原の位置。京都市北東、比叡山の西にある。
大原の簡易地図。
山際に位置する上野町から、大原を見下ろすかたちで撮った写真。写真を撮った場所は上の大原の簡易地図の☆。

 

 三千院や寂光院などの有名な寺がいくつもあり、桜や紅葉を見に来る人は多い。1980年代には大原が登場する歌を使ったCMや、大原をロケ地の一つとした大河ドラマも放送された。だがそれ以前から、大原は京都の歴史の中で有名で重要な土地だった。
 今回、昔の人々が大原と京の都を行き来するのに使っていた旧道を歩きながら、なぜ大原が有名で重要な土地であったかを紹介していく。

大原女(おはらめ)~昔っから京都名物の一つやで~

 2022年5月8日、6時20分。町から大原へ向かう道が始まる辺りにある花園橋を徒歩で目指すため、家を出発した。町までの距離はおよそ7キロだ。
 旧道の元井出橋を渡る。

☆は元井出橋の位置。
元井出橋から見える朝の太陽。

 

 昇る途中の日が正面で輝いている。まぶしい。
 橋の横に目をやれば、並木に飾られた川が伸びていた。桜だ。もう少し時期が早ければ、ここは絶景スポットとなる。

元井出橋から眺めた川と並木。

 

 大原を朝早くに出た大原女も同じ景色を見ていたのかもしれない。
 大原女とは、昔、京都市内へ物を売りに出かけていた大原の女性たちを指す。炭や柴、柴漬けをはじめとする漬物に栗など、生活に必要な物を頭に載せて都に運んだのだ(※2:出典は記事最後に記載)。また頭だけでなく、肩引き車と呼ばれる人力車や馬に載せて売り歩いたこともあった(※3)(※4)。
 大原女の姿は特徴的だ。

大原女のイメージ図。

 紺の着物に赤いたすきをかけ、頭に白い手ぬぐいを被った格好をしている。衣装は年代によってところどころ変化があり、この衣装は比較的最近のものだ。
 大原女は古くから京都の名物の一つだった。平安末期の「本朝無題詩」には、都に炭を売りに来た大原女をしのばせる詩が載っている(※1:漢詩も記載)。
 しかし大原女として町に物を売りに行く風習はすたれている。一般的な燃料がガスと電気に変わり、薪や炭の需要が激減したからだ。
 現在では着付け体験や、大原女時代行列という祭りに大原女の姿が引き継がれている。

隠棲の地~ちょっと隠れ住まわしてな~

 橋を渡り、道なりに進んだ私は花尻の森の正面についた。

花尻の森と、☆(現在位置)。
花尻の森を旧道から見た図。

 

 神社の2文字は入っていないがここは神社だ。また、花尻はかつて『波那志里』か『花散』とも記した(※8)。
 花尻の森の南隣には川がある。元々橋はなく、川に沿って山の中を通る旧道があった。大原女もそこを通っていたのだ。旧道は花尻の森の傍から始まる……のだが、その旧道が見当たらない。神社の奥へ行っても、あるのは獣よけの柵と斜面だ。
 旧道がないなら仕方ないので、橋を渡っていくことにした。ここからしばらくは歩道がない国道を行くことになる。ここの国道は京都市内から北の滋賀や福井へ抜けるのに使われるため、昼間は交通量が多い。車の少ないこの時間で通り抜けたいところだ。

 ところで、今しがた通過した花尻の森はよくある神社ではない。その昔、建礼門院という女性の監視を命じられた人の屋敷があった場所なのだ(※3)。監視を命じたのは源頼朝、源氏だ。では源氏に監視される建礼門院は何者か。平清盛の娘、平徳子だ。平家の繁栄にとどめを刺した壇ノ浦の戦いにて、海に身投げして自殺しようとした徳子は源氏に救出された。徳子は大原の寺、寂光院に移され、そこに骨を埋めた……。

 他にも、一時的ではあるが大原に隠れ住んだ人はいる。教科書で一度は目にした鴨長明(※1)(※7)。政治争いに平家と源氏を使った保元の乱で負けた、源為朝。平家が政権を握る決定打になった平治の乱の、源義朝と藤原信頼(※5)。……などなど。加えて、大原を北陸・近江へ逃げる道として使った人も少なくない(※5)。また、都を焦土と化して室町幕府が終わる原因になった応仁の乱では、大原に難を避けた人々も多かった(※1)。
 大原は難を避けて隠れ住み、また逃げる中継地として機能していたのだ。

延暦寺~天台宗の総本山やで~

 山に挟まれた歩道のない道路を通り抜け、八瀬に出た。

☆(現在位置)。

 

 八瀬は大原よりも一つ南側の盆地集落で、ここはその北端だ。道を覆っていた木がなくなり、左右の山の距離も開いたため、明るくて解放感がある。
 時刻は午前7時ちょうど。車も増えてきた。
 川へせり出すように作られた右側の歩道を歩く。少しすると、歩道のコンクリート板に微妙な隙間が空いていることに気づいた。せいぜい1~2センチの隙間だ。けれど下の方がよく見えて、同時にこのコンクリート板が案外薄いとわかった。これくらい大丈夫だと思う反面、足は自然と速くなる。早く土の上に作られた歩道へ行こう。

 大原は隠棲の地としての色も強かったが、そもそもなぜ隠棲の地になれたのか。山奥にあるとはいっても、町からは7キロ程度の位置。最近のように道が整備されていなかったことを加味しても、十分政府の権力が届く範囲内だ。
 その理由は左側の山――京都と滋賀を分ける比叡山にある。比叡山は延暦寺が建つ山で、比叡山ふもとにある大原は延暦寺の権力が強く及ぶ場所だったのだ。ちなみに延暦寺はギリギリ滋賀にある。

 政治と宗教が切り離された現代とは違って、当時の政治に仏教は影響力を持っていた。しかも延暦寺の建立には、天台宗の開祖である最澄が深く関わっている。だからその力は強力。加えて大原には滋賀・福井方面へ続く道もあったため、大原は逃げ込むには格好の場所だったわけだ。とはいえ、大原は完全に政府の力が及ばない場所ではなかったらしい。平安時代には朝廷の牛や馬を飼う牧も置かれていたし、政府に炭を大量に納めさせられていた(※1)。権力が二重に及ぶ大原の人は、かなり苦労をしていたのかもしれない。

魚山~声明の発展にも関わってんねんで~

 微妙に心もとないコンクリ歩道を脱出し、土の上にアスファルトを敷いて作られた歩道を進んでいく。しっかりした地面を踏みしめることの安心感たるや。
 しばらくするとY字路が見えた。左が住宅地に入るための旧道で、右が新しい国道だ。
 左折して住宅街の中に入って坂を下り、盆地の底へ近づいていく。底に至ってからつばめの飛び回る川を渡り、今度は坂を上がってまたY字路に出た。

☆(現在位置)。
地図の☆地点。国道と旧道の分岐路。左がトンネルに続く国道で、右が旧道。

 

 地図を見る。この辺りは……大原と花園橋の中間地点だ。時刻は7時半。出発して1時間強経っている。40分ほどで折り返し地点に来られるかと思ったのだが、想像よりも時間がかかっていた。道を整備されていてもこれほどの時間がかかるのだから、昔はもっと大変だったに違いない。強い目的がなければ、まず行こうとは思わないだろう。
 例えば、大原の人が生活するためだとか。
 例えば、追われた人が生きのびるためだとか。
 例えば――大勢の坊さんが声明(しょうみょう)を学ぶためだとか。

 声明とは、お坊さんが読むリズムをつけたお経のことだ。現在では仏教と聞けば声明も連想するが、声明は最初から普及していたわけではない。そもそも日本に声明はなかった。天台宗の円仁が、唐の五台山から日本に声明を持ち帰ってきたのだ。円仁は延暦寺がある比叡山を五台山に見立て、中国の魚山にちなんで大原を魚山の別称で呼んでいた。

 時は流れ、平安中期頃。不真面目になり始めていた延暦寺から真剣に修行をしたいお坊さんが出て、大原に小庵を建立する流れがあった。声明を学んだ良忍という僧も、大原に声明専門の道場として来迎院を建立する(※6)(※5)。その大原に訪れたお坊さんが声明を学び、声明の文化を全国に広めていくことになる。このようにして、大原は魚山としてその重要な拠点となった(※6)。
 声明には呂・律と二つの音階の区分けがあるが、これは「呂律(ろれつ)が回らない」の語源だと言われている。また来迎院の近くには2本の川があり、それぞれ呂川・律川と名づけられている。
 このように、大原は仏教と密接に繋がっていたわけだ。

 その後、私は電柱の上でポッポポッポ鳴いているハトを眺めたり、川で泳ぐ鴨の集団を写真に収めたりしつつ、八時半過ぎにゴールの花園橋にたどり着いた。長い道のりだった。

☆①、☆②は、下の三枚の写真を撮った位置。
☆①。旧道の終わり辺り。
☆②。高野川にいた鴨。
☆②。高野川にいた鴨。

 

 振り返り、遠くの山を見上げる。
 そこに住む女性が京都名物の一つとなり、隠棲の地として、また声明が広がる場所としても重要な役割を担った土地、大原。調べてみればみるほど、私はとんでもなく重要な場所に住んでいたことを知った。
 興味があったら、ぜひ大原に訪れてほしい。


以下出典
※1
 『角川日本地名大辞典 26 京都府 上巻』
 編者:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三
 発行所:角川書店
 初版:昭和57年7月8日

 「本朝無題詩」、大原女が載っていた詩↓
 「売炭婦人今聞取 家郷遙在大原山 衣単路嶮伴嵐出
  日暮天寒向月還 白雲高声窮巷裡 秋風増価破村間
  土宣自本重丁荘 最憐此時見首斑」

※2
 『角川日本地名大辞典 26 京都府 下巻』
 編者:「角川日本地名大辞典」編纂委員会 竹内理三
 発行所:角川書店
 初版:昭和57年7月8日

※3
 『八瀬・大原』
 編集者:山本三郎 発行者:山本慶治
 発行所:雲井茶屋
 初版:昭和27年7月1日

※4
『第一回大原女衣装調査報告』
 NPO法人京都古布保存委員会
 2012年5月5日発行

※5
 『史料 京都の歴史 第8巻 左京区』
 著:京都市 発行者:下中邦彦 発行社:平凡社
 初版:昭和60年11月30日

※6
 『京の里 八瀬・大原』
 文:杉本苑子 写真:浅野喜市
 発行者:淡交社 納屋嘉治
 初版:昭和40年10月31日

※7
 方丈記に「むなしく大原山の雲にふして、またいくそばくの春秋をかへぬる」と記されている。
 『鴨長明 方丈記 青空文庫』 青空文庫 
 (https://www.aozora.gr.jp/cards/000196/files/975_15935.html
 2022年6月5日閲覧。

※8
 『昭和京都名所図会 3 洛北』
 著:竹村俊則 発行者:大淵馨 発行所:駸々堂出版
 初版:1982年


著者。

中村 快
2002年京都府生まれ。文芸表現学科2020年度入学。羊羹などの和菓子が好き。友人の影響で運動を始めていなければ、今回の二時間歩き通しはできなかったかもしれない。

 

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