EXTRA2021.02.27

京都歴史

聖護院の追儺式(ついなしき)と「常ハ出ませぬ」節分の厄除け和菓子-柏屋光貞 法螺貝餅-[京の暮らしと和菓子 #34]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 緊急事態宣言下の2021年の節分は、2月2日(火)でした。節分が2月3日でなく2日になるのは、明治30年以来、124年ぶりのことです。

 立春前日が節分となるわけですが、この節分に付きものが「鬼やらい(追儺)」です。中国を起源とする習俗ですが、平安時代、宮廷では大晦日の夜に群臣たちが桃弓(もものゆみ)を放ち、方相(ほうそう)役が仮面をつけ鉾を手に疫鬼を祓うという儀式が行われました。平安時代の終わりころからは、方相役が鬼と考えられるようになり、これを追う形になったとされます。

《公事十二ヶ月絵巻》 儺(な)  群臣たちが桃弓を放つ
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542608
《公事十二ヶ月絵巻》 儺(ついな)  方相役が仮面を被り鉾を手に疫鬼を祓う
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2542608

 旧暦の大晦日の行事「鬼やらい」が、太陽暦の今では「節分」の行事として定着しています。陰暦で太陽の動きに合わせて用いられた二十四節気では、立春は春を迎える日です。月の満ち欠けによる陰暦では正月元日は前後しますが、立春正月の考え方から、立春の前日は、季節を分ける節分と意識され、またその夜を年越しとも呼ばれてきました。

 新春を迎える前に「厄を祓う」という思いは、こうして引き継がれてきたのですが、今年は新型コロナの感染対策に配慮しながらも、一段とその思いを強くする節分となりました。

 そのようななかで、感染対策をとったかたちでの追儺式が聖護院門跡で行われました。昨年に行われた普段通りの追儺式もお見せしながら、今年の節分の様子をご覧いただきたいと思います。

 そして、節分の日だけに「柏屋光貞」さんで調整される聖護院ゆかりのお菓子「法螺貝餅」をご紹介いたします。

節分の日の聖護院の山門前


1.聖護院門跡の歴史と修験道

 聖護院は、修験(しゅげん)道の寺として知られていますが、山岳修験は、日本古来の自然崇拝、山岳信仰と仏教、道教、陰陽道などが結びついたものとされる宗教です。

 聖護院の宗祖であり修験道の開祖とされる役小角(えんのおづぬ)は、葛城山や大峰山などで修行を重ねられ、特殊な法力を得られた行者として7、8世紀にはその名が広く知られていました。奈良時代後期からは、山林に入って修行することで験力(げんりき)を身に付けた山伏や僧侶らが多く現われ、彼らは、特に験者(げんじゃ)と呼ばれるようになりました。

 平安時代中期には密教との習合が進み、宗教体系の一つとしての修験道が確立していきました。各地の霊山はその修行地として広く知られるようになり、なかでも吉野の金峰山(きんぷせん)と熊野を含む大峯(おおみね)はその中心と考えられました。

 特に熊野は、延喜7年(907)に宇多法皇、寛和2年(986)に花山法皇の参詣が認められますように、早くから宮廷でも関心が高かった霊地であったことがわかります。

 平安時代末、園城寺の僧、増誉(ぞうよ)が、寛治元年(1087)白河上皇の護持僧となり、同4年(1090)に上皇が初めて熊野を参詣される時に先達(せんだつ)を務め、その功によって上皇より現在の地に一寺を賜り「聖体護持(聖の体を護る)」寺として聖護院とされました。また初代の熊野三山検校(けんぎょう)に任じられ、全国の修験者の統括を命ぜられました。これ以降、上皇の熊野詣は聖護院が先達することになるのです。

 この頃から行法が確立した熊野詣は、白装束に身を固め、出発の数日前から精進屋に籠り、道中での奉幣や水垢離(みずごり)、祓(はらい)など、精進潔斎を続けながら険しい山道を行く約一ヶ月をかける苦行の旅であったのですが、院政期の上皇らを虜にしたとも言えます。白河上皇は9回、鳥羽上皇は21回、後白河上皇は34回、後鳥羽上皇は28回と、参詣回数が増えていったのです。

 聖護院は、後白河天皇の皇子静惠法親王が四世門主となられたことで、宮門跡となり、その後、法親王が相次いで門主を務められたのでした。

 応仁の乱で焼けて以降、3度の火災に見舞われて寺地を転々と移すことになったのですが、江戸時代延宝4年(1676)旧地に再興され現在へと歴史を継いできたのです。

 中世以降、武士や庶民にも修験道が広まり、聖護院は修験道の本山派として、全国にその影響力を及ぼしました。江戸時代には「伊勢へ七度(ななたび)、熊野へ三度(さんど)、愛宕様には月詣り」と言われるほど、熊野への信仰は一般にも広く定着して行きました。聖護院は、全国のそして京都における修験の拠点であったとも言えます。

 明治初年の神仏分離令、修験道廃止令や、天台寺門宗への帰属を命じられるなど、大きな打撃を受けつつも、第二次大戦後に明治以前の形に戻るため宗派としての「修験宗」を立て総本山に戻り、昭和37年(1962)に「本山修験宗」と宗派名を改めたのです。

 すでに本コラムで祇園祭の役行者山(舁山)を取り上げたおりにもご紹介したように、後祭の巡行前日7月23日には、聖護院の山伏によって役行者山会所前の路上で、採燈護摩(さいとうごま)が焚かれます。この他にも祇園祭には、前祭(さきまつり)の山伏山もあります。7月17日の巡行の数日前には、ここにも聖護院の山伏の巡拝が行われています。

祇園祭 役行者山と山伏
役行者山 路上での採燈護摩

祇園祭 役行者山と行者餅 <常ハ出ませぬ一日限り> ―行者餅(柏屋光貞)[京の暮らしと和菓子 #2]
https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/232

 

 また、節分の前日には、壬生寺境内で聖護院の山伏による採燈護摩が行われます。今年の壬生寺では、新型コロナの感染対策から、壬生狂言は中止となりましたが、採燈護摩は、例年通り行われたのでした。

 このように、京都の様々な年中行事の中に修験道に関わるものがあることは、改めて特筆すべきことと思います。洛中の人々と、大峯、熊野など山間の霊地や修験者(山伏)は縁遠いもののように思われがちかもしれませんが、夏日に備えて体力作りとしても、町衆が「行者講」を組織して、大峯修行に出かけるなど、その信仰は京都の庶民に深く根付いてきたといえます。

 

2.振り返る昨年の追儺式

 今年の聖護院の節分では、例年追儺式の後に行われている豆まきが中止となりました。また、いつも行われている甘酒接待も中止となったのでした。

 事前に今年の節分行事について問い合わせました時、執事長の宮城泰岳様は、「それでも追儺式は行わねば」との決意のようなお言葉を口にされていました。

 様々な感染対策を講じることで縮小される部分はあっても、まさに疾疫を祓う伝統の行事「追儺」は、執行すべきとの思いを強くされていることをひしひしと感じました。

豆まき中止の看板の立つ本堂への入り口の塀重門
例年よりお参りの人出が少ない聖護院宸殿前、奥が本堂
献灯を受け付ける僧侶の前にもシールドが設けられている

 
 じつは、私とカメラマンの高橋さんは、昨年の節分会にも伺っていたのです。去年の2月初旬、新型コロナの感染のニュースが報じられ始めていた頃ではありましたが、マスクをつけた参拝者を見かけるものの境内は賑わい、普段通りの節分会が行われていました。

 ここでは、2020年に記録した追儺式を、まずはご覧いただくことにいたします。

 去年の追儺式には、寺院関係者、行者(山伏)の他にも、有縁の方から、事前申し込みのあった年男、福女がご参加になっておられました。

行者とともに、晴れ着の装いで参加の福女、年男の皆さん(2020年)


 仏前での法要が終わりますと、広縁に出てきた赤、黄、青の鬼が大暴れをいたします。そこへ宮城泰年門主様をはじめ、行者の方々が、銘々に手にした枡から豆を打ちつけます。抵抗しながらも次第に鬼たちは打ち負かされ、ついには仏法に帰依して改心するのでした。

金棒を振り回し大暴れする鬼に、門主様や行者が豆を打ちます(2020年)
四方八方から豆を打たれる鬼(2020年)
門主様の豆の一撃についに鬼も立てなくなって(2020年)
最後に門主様は錫杖で鬼を追い詰めます(2020年)
ついに倒れ込んでしまう鬼(2020年)
門主様と行者の前に膝まずき許しをこう鬼たち(2020年)


 この一部始終を見守る宸殿前の参詣者らには、この後のお楽しみがあります。

 門主様を中心に年男・福女、そして鬼たちも相交じって、境内に集まった人々に袋入りの福豆がまかれるのです。

  「福は内、鬼は外」  「福は内、鬼は外」

 福にあやかろうと参詣者らは我先にと、飛んでくる豆を掴み取るのでした。

宸殿前に詰めかけた参詣者に、袋入りの豆がまかれる「福豆まき」(2020年)
改心した鬼も参詣者に福豆をまく(2020年)

3.新型コロナ感染対策下の追儺式

 さて、今年の追儺式は、年男・福女の参加はなく、山伏の皆さんの数も絞っての法要となり、先にも書きましたとおり、福豆まきも中止となりました。

宸殿の中心に祀られる役行者像


 追儺式が行われる宸殿には役行者(えんのぎょうじゃ/役小角)が祀られています。前鬼、後鬼を従えて、高下駄を履いて岩座に坐す役行者は、修験道の開祖とされ尊崇されてきました。鬼をも従属させる役行者こそ、追儺式にふさわしい本尊と言えましょう。

 横に逸れますが、その前に整えられた供物の中に、「聖護院蕪(かぶら)」があることに気づきました。ご存知の方もあるかと思いますが、普通の蕪の何倍もある大きさで、冬の京野菜の代表ともいえるものです。この近辺のかつての聖護院村を原産としたもので、その名で呼ばれています。冬の漬物、千枚漬けの材料ともなる蕪です。

整然と並ぶ供物 一番右端の大きな蕪が「聖護院蕪」


 そして、大打敷(おおうちしき)に美しく縫い取られた聖護院の御紋が、菊に法螺貝であることに改めて目が止まりました。

 後白河法皇が撰した今様の歌詞とその伝承についての口伝をまとめた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』〔1179頃成立〕にも

「山伏の腰に着けたるほらがひの・・・」(二・二句神歌)

と出てくるほど、平安時代すでに山伏と結びついたものであったことがわかります。

 修験道では、法螺貝の音は山中修行中の獣除けや合図として用いられるだけでなく、仏陀の説法や除魔の象徴とも言われ、修験道の中でも重要な法具と位置付けられています。

金襴地の打敷に金糸で菊の紋を、法螺貝は立体的に刺繍されている

 法螺を吹く山伏を先頭に、式衆の入堂の開始です。ついで僧侶の方々は行者頭巾をつけて進まれ、最後尾に赤、黄、青の鬼たちが金棒を手にいかにも粗暴な様子で歩いてきます。

行者は、山伏装束に身を包み法螺を吹いて先導する
法螺の音が辺りに響き渡り、追儺式の開始を告げます
僧侶の方々は行者頭巾をかぶられています。紫の僧衣を着けておられるのが、宮城門主様
ふてぶてしく歩く鬼たち
金棒を肩に粗暴な鬼たち


 入堂が終わると、いよいよ法要の始まりです。密を避けるために参加の人数を減らしての法要で、内陣には僧侶の方々と、山伏の代表者である平安聯合会会長の永田良一様が、外陣には法螺師の山伏の方々がゆったりと着座され、外陣の端には鬼たちも静かに参列しています。

一同が堂内に揃います
一同が着座される。最後列に、鬼たちも
導師を務められる門主様
今年は鬼たちも静かに参列
本尊の役行者に見入っているのでしょうか、じっと正面を見つめる赤鬼
法要が進むにつれ、神妙になっていく鬼たち
福豆まきは中止でしたが、追儺式には参拝者の方々が集まってこられました
太鼓が打ち鳴らされ、法要は厳粛で力強く続く
山伏の代表 平安聯合会会長の永田良一様も一心にお唱えを
力強い読経に、ついに鬼たちは耳を覆い、苦しみ出す


 太鼓の音ともに力強い読経の続くなか、ついに鬼たちは耳を覆い、身を悶えて苦しみだすのです。そこへ仏前に供えられていた福豆をもって、門主様と二人の僧侶が近づきます。

仏前に供えられていた福豆の枡を持って
門主様と僧侶の方々が、福豆の枡を持って鬼のもとへ


 なんと、鬼たちに豆を打つのではなく、改心した鬼に枡に入った福豆を直接手渡されるのでした。こうして役行者の前に鬼たちを鎮めることで、今年の追儺式の法要は終わったのでした。参列の行者、僧侶の方々の退堂の列に、鬼たちは静かに付き従って退場してゆきました。

 今年の追儺式には、いつものような派手に鬼を追う場面はなかったのですが、それ故に厳粛さを増し、また仏の慈悲による教導という仏法の本質を表す内容になっていたことに、これも追儺の一つのあり方と少なからず感銘を受けたのでした。

鬼たちに福豆の枡を渡される門主様と僧侶ら
鬼に渡された枡の中には厄除けの福豆が
散杖(さんじょう)で壇所を清められる門主様
退堂の法螺を吹く山伏
門主様の退堂
鬼たちも静かに付き従う
金棒を下にして退場する鬼たち
山門前で法螺を吹く山伏

 

4.厄除開運大採燈護摩供

 午後3時からは、宸殿前道場で厄除開運大採燈護摩供(だいさいとうごまく)が営まれました。採燈護摩供こそ、修験道の真骨頂とも言える独特の護摩供です。以前に役行者山での護摩をご紹介しましたが、境内での護摩壇は、一層大きなものです。木の枠組みを組まれた上に檜の葉を丹念に重ねて作られます。

 山で護摩壇に必要な材料を調達されている方にお聞きしたのですが、大量の美しい檜の葉を、聖護院で年間行われる採燈護摩供に合わせて用意することも、やはりたやすいことではないとのことです。

 また、火の勢いばかりが増すと護摩壇が途中で崩れてしまうので、供養の閼伽(あか)(水)をかけ、日中の護摩は白煙を豊かに上げるようにするなど、これも熟練の方がとり仕切られないと難しいのだそうです。

 辺りが見えなくなるほどの白煙に包まれ、信者の方も煙に目を細めながら手を合わせ、参列されていました。

 日が少し傾く頃、無事美しく燃え切った採燈護摩を後にされる門主様はじめ山伏の皆さんには、厳粛な中にも、この特別な年の節分会を無事に終えられた安堵のようなものが漂っていました。

門主様が散杖で護摩壇を清められる
力強い太鼓の音ともに
閼伽(水)をかけ、火の勢いを調整する山伏
山伏の方々の力強い読経が響く
境内に、採燈護摩の白煙が広がる夕べ
採燈護摩供が終わり、法螺貝を吹く山伏が先導し、護摩壇を後にする一行
門主様の退場
法螺貝の紋の入った聖護院の提灯

 

5.常ハ出ませぬ節分に限り 法螺貝餅

法螺貝餅に添えられる紙札


 さて、節分の日にしか頂けない、しかも聖護院にちなんだお菓子があります。それは、東山安井にある「柏屋光貞」さんの「法螺貝餅」です。

 修験道にとって法螺貝が大切な法具であることは、なんとなく知っていたつもりでしたが、法要や採燈護摩でも重要な役割を持っているものであることを、今回再認識いたしました。またまさに聖護院の御紋にも用いられているものであることは、恥ずかしながら初めて知ったのでした。

 役行者山に因んだ同じく柏屋光貞さんの「行者餅」を以前にご紹介したのですが、代々その当主の方々が修験道に打ち込んでこられた歴史があったのでした。

柏屋光貞製「行者餅」
中には求肥と山椒の白味噌餡



 節分の日限定の「法螺貝餅」は、戦後、聖護院が新たに本山修験宗として再出発する時期に門主を務められていた岩本光徹師の要請で作られたお菓子であるといいます。ちょうど節分の護摩供養を⼀般にも⾨⼾を開かれ、これによって参詣者が大きく増えることとなったのですが、格式の⾼い⾨跡寺院の境内での現在のような節分会は、聖護院にとっては、⼤きな転換期の選択から⽣まれたものと言えましょう。そのような時代の新しい試みのひとつが、この菓子の誕生につながったのです。

 柏屋さんの九代当主は、自ら山伏となって修験道の修行をされていたのですが、岩本光徹⾨主との深いご関係によって菓子の依頼を受けられたのでした。お店の屋根の上にあがっている立派な看板も岩本光徹門主の揮毫によるものです。

「柏屋光貞」さんの看板 聖護院門主岩本光徹師の揮毫によるもの


 そして当時⾨主から託されたのは、聖護院⾨跡に昔から伝わっていた「麩の焼き」⾵の「法螺」という菓⼦の、「新たな形」でした

 そこで柏屋さんが、正⽉の花びら餅に⽤いる味噌餡と⽜蒡をヒントに⼯夫を凝らされたものが、いまの「法螺⾙餅」の原型となったのです

 小麦粉汁を鉄板の上で細長くのばして焼いた「皮」を作り、味噌餡と法螺貝の吹き口に見立てた牛蒡にくるくると巻きつけて、指先で絶妙に作られたその形は、まごうことなく法螺貝です。

法螺貝餅の掛け紙の文字と絵も岩本光徹門主の筆になります

絶妙な法螺貝の形に仕上げられた「法螺貝餅」


 愛らしい小さな餅は、時に皮の縁がくるくると巻いていたりすることで、またさらに法螺貝らしく見えたりもしてきます。

 修験道を熟知されている方の工夫があってこその手際とも言えましょう。

 少し塩みのある白味噌餡と、すっと噛み切れる柔かい牛蒡に、それをふうわりと包む和風クレープとも言えそうな生地。夏に頂いたピリッと山椒の効いた行者餅とは違って、冬に美味しさのます牛蒡を蜜で柔らかく炊くことで香りと深い味が引き出され、こっくりとした暖かさを感じさせます。

 そして京都の人なら、やはり花びら餅との関係から、正月を思い起こす菓子ともなっているのです。

 由緒書きの最後にも、「節分の日に食べていただくことによって、旧暦にいう明日からの新年を寿ぎ、一年の無病息災を願う厄除けの菓子」であると書かれていて、旧暦の立春正月を意識されたお菓子であることがわかります。

法螺貝餅
八分咲きの梅の花が境内に芳しい匂いをたたえていた


 梅の咲き始める1月末の大寒を過ごし、ようやく日差しに少し明るさを感じ始める立春は、旧暦の季節感をどこかに残して暮らす京都人にとって、新たな春の兆しを確かめる、そんな日でもあるのです。

柏屋光貞

住所 京都府京都市東山区毘沙門町33-2
電話番号 075-561-2263
営業時間 10:00〜18:00
定休日 日曜、祝日
(ただし、節分、祇園祭の宵山は営業) 
価格 5つ入り1,400円(税込)予約販売のみ
(予約期間:1月20日~30日)

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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