EXTRA2020.10.08

京都歴史

山鉾巡行、神輿渡御のない祇園祭と稚児餅-二軒茶屋 中村楼 稚児餅-[京の暮らしと和菓子 #31]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 10月を迎え、ようやく朝夕の秋らしい冷気に、ホッとする日々がやってまいりました。 

 京都では9月も、まだ30度を超える日が続き、残暑の一段と厳しいことでしたが、8月に至っては、それこそ猛暑続きで、京都では平均気温が観測史上もっとも高かったとの記録を残すものでした。

 そんな過ごしにくい暑さの続いた今夏でしたが、私の所属する通信教育部でも、新型コロナの感染防止対策による新しい遠隔授業の取り組みに忙殺され、心身ともに、かなりハードな日々となってしまいました。

 そのために、なかなか「京の暮らしと和菓子」の記事が書き上げられず、すっかり遅れてしまいましたことを、まずはお詫び申し上げます。

 

1.コロナ禍の夏の年中行事 

 遅ればせながら、この夏の京都を振り返ると、申すまでもなく何もかもが異例づくめのうちに過ぎたのでした。

 ご存知のように、7月の祇園祭の山鉾巡行、神輿渡御が中止になり、8月の五山送り火が火床の数を大幅に減らして遂行され、9月には、9日の各神社の「重陽神事」も軒並み、神官による神事のみで執り行われるなど、いわゆる年中行事のほとんどが、これまでに経験したことのない状況で推移しています。

 仕方ないと諦めながらも、諦めがたいものを抱え続けた日々でもあります。

 7月には、誰彼なしに
「いつもなら、ここに鉾が立っていたものを」とか、
「今年は寂しいですねえ。お祭がないなんて・・・気が抜けたみたいな7月ですなあ。」
との挨拶を交わしあうような日々でした。

 そして8月の各寺院のお盆の行事も相次いで縮小されました。それでも五山送り火は、大文字が六点、鳥居が二点、その他の妙法、船、左大文字が一点のみの点火という前代未聞の取り組みとはいえ、実施されたのです。

 制限の中でも知恵を絞って行われた五山送り火に、京都の人々はじつは安堵の思いを深くしていました。

 「ほんまに、ようやってくれはったわあ。」
 「やっぱり送り火がないと。」

 いつも年中行事を追いかけている私のようなものだけでなく、行事の中止を知らされるたびのため息交じりの近所の立ち話に、京都という町は、これほど年中行事が暮らしに根をおろしていたのかと改めて実感した夏でもありました。

 とはいえ、もちろん今年も、神事は神社や関係者の方々によって厳粛に営まれていたわけですし、各寺院のお盆も、多くの参拝者を集めることはされなくても法要は行われ、大文字の山上では、送り火の間中、読経が続けられていたのでしたが。

 しかし、じつはこうした特別な夏だったからこそ、ご縁を頂戴することができたのが、八坂神社の南に隣接する「中村楼」さんでした。

 あとで詳述するように祇園祭のお稚児さんの行事にちなんで「稚児餅」と称されているお菓子をおつくりになることでも知られているのですが、今年は、お稚児さんのいらっしゃらない祭となってしまいました。

 そのようななか「中村楼」さんでは、むしろ普段以上に粛々と伝統の「稚児餅」を八坂神社に奉納され、昔からのご縁の関係者にお分けになっていたのですが、その「稚児餅」を調製されるところを、今回、間近に拝見することが叶ったのでした。

 

2.二軒茶屋 中村楼の歴史

中村楼さんの門


 「中村楼」さんは八坂神社の石鳥居と南楼門との間の参道東側にある料亭です。

 八坂神社にお参りに行かれる多くの方は、四条通りの東の突き当たり、東大路に面した西楼門から神社境内に入られることが多いのではないかと思いますが、じつは神社の正式な入り口は、この南参道なのです。

 お参りしたことのある方なら合点が行くかと思いますが、境内の中央にある本殿は南面して建っています。したがって正式な参拝の順路は、南の石鳥居をくぐり、南楼門を通って、拝殿、本殿へ向かうこの参道に他なりません。

 これまでも、一昨年の長刀鉾の日和神楽、昨年の綾傘鉾のお稚児さんの社参の記事でご紹介しましたが、いずれも八坂神社へは、この南参道からお出入りになっていたことを、ご記憶の方もおられるかと思います。

 この参道に位置する「中村楼」さんの歴史は、まさにかつての祇園社、今の八坂神社の歴史と切っても切れない関係で、今日にまで続いているのです。

 その創業は室町時代に遡ると言われます。古くは、参道の東西に向かい合って2軒の茶屋が立っていたことから、2軒を合わせて二軒茶屋と称されてきたのでした。東側にあるのが、今の「中村楼」で、かつて「中村屋」と称し、西側には「藤屋」がありましたが、こちらは明治時代初年になくなってしまったと言います。

 以前にこのコラムで「雪餅」を取り上げました時、年末の雪景色を愛でるために、門人を誘い出す手紙を、蕪村が残していることを取り上げました。もう一度それを繙きますと、

 いつもとハ申ながら、この節季(年末)かね(金)ほしやと思う事に候。
(中略)されども此雪、只も見過しがたく候。二軒茶屋中村屋へと出かけ申すべく候。
 いづれ御出馬下さるべく候 是非是非。以上

    二十七日
  佳棠(かとう)福人      蕪村

 年越しで手元不如意の中にあっても、よほど文人の心をそそる雪の風流が、この中村屋にあったのでしょう。いてもたってもおられずの思いが伝わる誘い状です。 

 また滑稽本『東海道中膝栗毛』(1802~09)七・上にも、「楼門を出ると、二けんぢゃ屋、とうふでんがくのめいぶつにして」と出てまいりますし、天明7年(1787)刊の『都名所図会』下・二には、オランダ人が洛東を訪れる時、二軒茶屋の東の店(今の中村楼)に休むのが恒例となっているとあり、祇園豆腐を作るところをオランダ人が見物している姿が描かれています。

国立国会図書館 デジタルアーカイブ 『都名所図会 4巻』

 

 江戸時代、祇園社(現八坂神社)に参詣したり、洛東に遊ぶ折には、二軒茶屋で豆腐田楽をいただくのがお決まりとなっていた様子が窺え、いかに名の知れた茶屋であったかということを知ることができます。

 そして「中村楼」さんでは、この名物の「祇園豆腐」を今も大切に守り続けておられます。

 明治以降の発展は、また目覚しいものがあったようで、先に江戸時代にもオランダ人の来訪があった様子が知られましたが、京都で最初の洋食屋も開店したと伝えられます。そして茶屋「中村屋」はさらに本格的な料亭「中村楼」として発展したのでした。

 私の祖父母から、思い出話として聞いたことがあるのですが、まだ神前結婚式やホテルなどでの披露宴というものが一般的でなかった昭和初年頃の事、家で親族らとの結婚式を執り行った後、なんと「中村楼」さんで、お商売先の方々を招いた披露宴を何日も開いたと言います。その当時の少し気張った新しい風習だったのでしょう。「中村楼」さんでも、当時そういう宴席をたくさん受けておられたということを、今回の取材時に伺うことができました。

 

3.祇園祭の稚児と「稚児餅」

 「稚児餅」は、祇園祭長刀鉾(なぎなたぼこ)の稚児、そして神幸祭、還幸祭の折に神輿を先導する久世駒形稚児(くぜこまがたちご)らの、社参に際して八坂神社に奉納され、お参りの後に、稚児と関係者が「中村楼」さんに立ち寄られた折に供されることで知られた特別なお菓子です。

 例年、7月13日早朝、精進潔斎した中村楼のご当主がお造りになった稚児餅100本を、自ら八坂神社の神前に奉納されます。この日の午前には、長刀鉾の稚児の「社参の儀」が行われるのです。これはまた、「お位(くらい)もらいの式」ともいわれるもので、稚児はこの時「正五位少将」「十万石大名」の格式を授かるとされます。

 「社参の儀」を終えると、神の使いとして地面を踏むことが許されないお稚児さんは、強力(ごうりき)に担がれて、南楼門からお出になります。このあと、お昼の休憩のため関係者一向が立ち寄られるのが「中村楼」さんなのです。

 そして昼食前に、中村楼のご主人が自ら、貴人点(きにんだて)のお点前で点てたお茶と「稚児餅」が供されます。

 同日午後には、久世の綾戸國中(あやとくなか)神社の氏子から選ばれた久世駒形稚児が社参されます。この稚児は綾戸國中社の御神体を模したという木製の駒形を胸に、神の分身として神輿渡御の先導を務めることになります。神位を授かっている久世駒形稚児は、この日、白馬から下馬することなく南楼門をくぐって八坂神社境内に入るという別格の扱いを受けて、「社参の儀」に臨まれます。参拝を終えた稚児は白馬に騎乗したまま、関係者の皆さんとともに「中村楼」に立ち寄られますが、この折に同じく「稚児餅」が振舞われます。

 普段なら、7月13日という日は、「稚児餅」を調製されるだけではなく、こうした格式高いお席を整えられる、特別な1日となるはずでしたが、今年は、お稚児さんのいらっしゃらない祇園祭を迎えることとなったのでした。

 この例にない今年の祭礼に、「中村楼」さんは、原点に立ち返るように、古記録に従って、八坂神社への奉納を行われていました。

 先に挙げた江戸時代の記録『都名所図会』には、今の「稚児餅」に当たる味噌を引いた「炙り餅」のことが記され、そこにも祇園祭の稚児らに出されたことが記されています。その六月朔日(1日)に奉納されたという記事に従い、今年は特別にこの日に「稚児餅」が八坂神社にお供えされました。

 そして、毎年と違わず7月13日と、17日(普段なら先祭りの山鉾巡行と神幸祭の神輿渡御が行われる日)、24日(後祭の山鉾巡行と還幸祭の神輿還御が行われる日)にも、例年どおり八坂神社へ「稚児餅」が奉納されたのでした。

 

4.稚児餅の調製

 

中村楼 ご当主 辻雅光様


 さて今回、ご当主の辻雅光様によって、まさに稚児餅が調整されますところを拝見することができましたので、順を追ってそのご様子をご紹介します。

 

平たく伸ばした餅に、先を割いた青竹の串を打ちます。


 餅は、八坂神社のすぐそばにある祇園鳴海屋さんに、お造りいただいているとのことですが、炙るために青竹の串が打たれます。名物祇園豆腐にも似た仕立てですが、串は祇園豆腐より細く、丈も長く拵えられて、稚児餅だけの姿が作り出されます。

名物 祇園豆腐 山椒をきかせた赤味噌の田楽
五串分をひとつにまとめて
大豆の粒を残した白味噌(あら味噌)で作られた味噌だれ


 稚児餅に塗られる味噌は大豆の粒の残った白味噌(あら味噌)ですが、五条の山利商店さんで、特別に5月前から仕込まれたもので、桶の中からとくに良いところを選んで頂戴しているとのお話でした。山利商店さんは、京都の名だたる料亭御用達の味噌屋さんとして知られています。

 これを調味して作られた味噌だれを、五串ひとまとめにした餅に塗るというより、覆うようにたっぷり載せていかれます。

あら味噌を餅の上にたっぷりと
青竹と白味噌の色が美しく調和して


 そして、いよいよ炭火で炙ります。まずは味噌の側から。

 あら味噌の凹凸が、全面を焼き色にせず、程よい焼き目を作ります。香ばしい匂いが立ち始め、思わず大きく息を吸い込んでしまいます。


 味噌に焼き目がつくと、今度は返して餅の方を炙ります。

味噌の方から炭火で炙る
味噌に焼き目がついたら、返して餅を炙る
餅にも焼き目がついてきたら出来上がり
焼きあがったものを板にとって粗熱を冷ます

 

香ばしい匂いとともに


 出来上がった稚児餅の粗熱を取ると、五串ずつ竹皮に包んでいかれます。キリッと結ばれた竹皮の紐の結び目には、中村楼邸内に生えているおかめ笹がひと枝添えられて、神前はもとより、縁故のお届け先へも、祈りの心を伝える風情ある風体の稚児餅が整いました。

竹皮に、五串ずつ包む
一包みずつ竹皮の紐で縛る

 

水に浸けておいた笹のひと枝を添えて
出来上がった稚児餅


 稚児餅を炙り上げ、竹皮に包むまで、ご当主自らが手ずからなさることが習わしとなっており、女性が手伝うことは許されないそうです。

 そして、八坂神社へ稚児餅の奉納をされる際は、紋付き袴に着替えられて、火打石で切り火をうちかけてから出立されるといいます。

火打石での切り火を見せていただきました


 今年のこの特殊な状況にあっても、欠かさず毎年のしきたりを粛々と務められるご当主始め、中村楼の皆さんのお姿に、京都の行事のひとつひとつがどれほどの思いで、引き継がれてきたのかを、ひしひしと感じさせていただくこととなりました。

 

5.稚児餅をいただいて

 例年ですと、お稚児さんに供される7月13日の行事が済みますと、7月中は中村楼の二軒茶屋で焙りたての「稚児餅」をいただくことができるのですが、今年は一般への販売はなさらない、とのことでした。神事に直結した「稚児餅」が、お商売の菓子とは違うことを、これほどきっぱりと分けてお考えになっていることに、改めて感服いたしました。

 そのような貴重な「稚児餅」を今回特別にお分けいただくことができたのです。このような機会に恵まれたことを、誠にありがたく思いました。

 さっそく大学に持ち帰り、撮影のあと頂戴いたしました。


 


 五串が一塊になっているので、そっと一串を持ち上げると、たっぷり載せられた味噌がうまく離れてくれます。味噌の表面は炙られて少しカラッとしていますが、その下の味噌は、しっとりした質感で、餅にしっかり絡んでいるからです。

 発酵で生まれる自然な甘みが白味噌の醍醐味ですが、甘みと塩みの絶妙の加減と炙られた香ばしさ、これにまた餅米そのものの味を感じる餅と合わせられることで、素材の持つ旨味が、相乗的に高まります。

 近世後期に、甘い砂糖をふんだんに使えるようになった菓子ができる前の、まさに和菓子の原形を味わうような、自然の甘みの豊かさを感じさせてくれる、そんなお味の「稚児餅」です。

 その優しい味わいに加えて伝統の重さをひしひしと感じる、やはり特別のお菓子でした。来年は、ぜひ二軒茶屋の方にいただきに上がろうと決めております。

 

6.幕末の疫病の流行を記録したお軸に出会えて

 最後に、もうひとつご紹介させていただきたいものがあります。

 今回、中村楼さんにお伺いした折に、ご当主のご案内で広間の床の間を拝見させていただくことができたのですが、そこには、これまたたいへん今年の世相を考えさせられる一軸が掛けられていました。

広間の床の間


 前川五嶺(1805-1874)の筆になる、軽妙洒脱なお千度詣りで賑わう群衆の図の上下に、幕末、安政六年(1859)の6月下旬頃から因州伯州で起こったという「ころり」の、7月から8月にかけての京都での流行の様子、8月の木津川を始め各地の洪水など、疫病の上に水害まで続いた6月から8月の惨事について、おびただしい死者数まで記されていたのです。

 これは、今の暦でいうと、ちょうど7月から9月頃に当たります。

下段は、洪水の様子などが左から右に書き上げられます。

 

最後に「洛南に生残る辺人五嶺」と記される


 現代との最も大きな違いは、病神を送るために人々が氏神や祇園社にお千度(本来は寺社に千度詣ること)の行列を作って押し寄せているという事態が起きていることです。今の疫学的な知識から考えると、かえって疫病の蔓延を起こしたのではないかとさえ思えるのですが、繰り返されるその行列が趣向を凝らして時期とともに変化していくさまを捉え、

 「衣装の立派さ」「芸こと(事)に諸人病苦のこともうちはす(忘)れ」

と、華やかで風流を凝らした行列を楽しんでいる様子が記されています。

 びっしりと書きこまれた災禍の記録とも言える文面に、五嶺が添えた絵は、疫病の深刻さより、その賑やかな行列をおどけるように軽やかに描きあげています。

 恐ろしい災難で鬱屈しそうな世相を、民衆がこうした神詣での「祭り」で、心を保ち、生きるエネルギーにしていたのだと、改めて実感させられた書画でした。

 新型コロナ感染予防のために、三密を避けることは大切な行動規範ですが、こうしたともすれば、抑圧を感じ続ける日々の生きづらさを、少しでも楽にするための工夫が、私達の今にも大切なのではないかと、いにしえの人々の生き様に教えられる思いがいたしました。

 

中村楼 二軒茶屋

住所 京都市東山区祇園八坂神社鳥居内
電話番号 075-561-0016 [代]
営業時間 平 日 11:00〜18:00
土日祝 11:00〜18:00
販売期間 例年7月14日〜7月31日
定休日 水曜日
価格 「稚児餅」1,300円(税込)※抹茶付

http://www.nikenchaya.jp/

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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