EXTRA2021.01.30

京都歴史

西陣 冨田屋 京都町家の正月飾りと新春の和菓子-塩芳軒「寿の春」と新春の干菓子-[京の暮らしと和菓子 #33]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 令和3年の正月あけから、再び新型コロナ感染が拡大し、現在京都を含む11都府県に2月7日までの緊急事態宣言が発出されています。1月下旬を迎え、少しは感染者数減少の兆しが出てきていますが、まだ不安と緊張を強いられる日々が続いています。

 年末年始の過ごし方も、帰省の自粛や親族、友人との会食の自粛、初詣の分散化など、これまでにないものとなりました。例年通り、お節料理は年末押し詰まってから慌てて作るといった適当な年用意でしたが、そのわずかなお節料理の一部を親族や、帰省できない息子に送って迎えた今年のお正月でした。やはり年始に一同が会せないというのは、なんとも寂しいものでした。

 こうした異例の正月を過ごすと、かつて実家で行っていた念入りな正月行事が、かえって思い出されてくるものです。

 今はマンション住まいで玄関ドアに簡単な注連縄飾りをぶら下げるぐらいしかしていない我が家ですが、実家の風習の一部を引き継いでいるのは、三が日の朝の大福茶(おおぶくちゃ)と白味噌のお雑煮です。

 大福茶とは、結び昆布と梅干を湯のみに入れて、そこに煎茶を注いだお茶ですが、これを飲んで邪気を払い、一年の身体健全と福を願うものとされています。 

 京都では、正月の朝一番に一家揃って口にする慣わしとなっています。三が日の朝、お雑煮やお節料理を並べた卓につくと、まずは大福茶を皆でいただくということは、我が家でも続けてきました。

 しかし、古い風習を守っていた実家では、もっと特別な仕方でいただいていました。父を先頭に、家族全員で歳徳神(としとくじん)を迎える神棚、歳徳棚(としとくだな)の前に一人ずつ進み、大福茶の湯呑みを神棚の前で少し高く捧げあげてから、一口を口にするというものです。残りは、お正月の卓についてから普通に飲むのですが、最初の一口だけは、こうして歳徳神に捧げていただくのでした。

 この歳徳棚とは、後で説明するように、お正月から立春までの間だけ設えられる特別な神棚なのですが、小学生時代から人に話しても、ほとんどみなに「それ何?」と言われてしまい、すでにかなり珍しいものとなっていたのだと思います。

 実家では、平成の初め頃、母がリウマチを患ったことなどで、父母が古い町家での暮らしをやめてマンションに移ってから、歳徳棚の風習は無くなってしまいました。

 今ではもう見ることも叶わなくなってしまったと思っていたのですが、以前に夏のしつらえを取り上げさせていただいた西陣の「冨田屋(とんだや)」さんでは、今も丁寧に歳徳神を祀っておられることを知り、今回、京町家の正月飾りをぜひご紹介したいと、取材させていただきました。

西陣の夏のしつらえ 国登録文化財 冨田屋(とんだや)と葛仕立ての青梅 −塩芳軒(しおよしけん)青梅 [京の暮らしと和菓子 #25]

https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/530

 

1.「冨田屋」さんの正月飾り

冨田屋さんの表の注連縄飾り

 屋号が染め抜かれた暖簾が、まことに商家らしい京町家の門口です。そこには、まず注連縄がかけられます。新藁を綯(な)い、藁を3筋垂らし、その間に裏白(うらじろ)を下げた古式ゆかしい注連縄です。

 そして、京都ならではの一対の松飾りが、入り口左右の門柱に取り付けられています。根曳き(ねびき)の松です。

門柱に付けられた根曳きの松

 幼い頃、もじゃもじゃしている松の根をなぜ切らないのか不思議に思いながら、父が年末に取り付けているのを見ていたものです。

 のちに、平安時代、王朝の貴族たちが行う「子(ね)の日の遊び」という行事があったことを知り、根を切っては意味がないことをあらためて知ったのでした。

 「子の日の遊び」とは、新年最初の子の日に、野に出て小松を曳いて持ち帰り、この松を庭に植えて千代を祝って宴遊するというものです。

 松には、神の依代ともなる神聖な木という観念がありますが、松の生命力こそが、特別な植物として意識される所以でありましょう。

 寒風の中に正月15日まで門柱につけられたままの根曳きの松が、枯れるどころかその緑の色を失わないことに、幼心にも感心していた覚えがあります。

 先月にご紹介した生花店の「花フジ」さんでお教えいただいたのですが、雄松と雌松を一対にするのが本来の姿なのだそうですが、これを揃えるのはかなり難しいので、一般には雄松だけで一対にすることが多いとのことです。

 実家でも雄松であったなあと思い出しますが、今では、この根曳きの松を門につける家自体が、めっきり減ってしまいました。

 さて冨田屋さんの歴史については、前回の記事でご紹介しておりますので、ここでは繰り返しませんが、西陣の大店呉服商としての典型的な町家は、文化庁の登録有形文化財、京都市の景観重要建造物にも指定されていて、現在はこれを公開されています。

 私がたいへん素晴らしいと思うのは、この立派な建造物ばかりではなく、そこでの年中行事を大切にした暮らしの慣わしを今に続けておられることです。

 それでは、中にお邪魔して、京都の商家のお正月の設えを見せていただきましょう。

井戸とそこに供えられる輪飾り
輪飾りは上部を輪状に綯い、下に藁を垂らした形状のものをいう。そこに裏白、楪、紙垂がつけられている

 町家は、表に近い格子のはまった部屋が「店の間(みせのま)」となっていて、土間続きに奥に進むと来客用の玄関があります。冨田屋さんでは、ここに大きな井戸もあるのですが、その脇に供えられているのが輪飾り(わかざり)です。

 裏白と楪(ゆずりは)に紙垂(しで)がつけられています。輪飾りは水を使う場所につけられることが多いと言いますが、私の実家では、各部屋の鴨居などにもつけていました。冨田屋さんほど本格的に紙垂をつけるまではしませんでしたが、買ってきた結構な数の輪飾りに父と弟がひとつひとつ裏白と楪をつけて、家中回ってあちこちに取り付けるのが、年末のおきまりの仕事となっていました。大掃除の済んだ部屋に輪飾りがつけられると、藁の匂いと共に、急に非日常の改まった空気が漂うのでした。
 

 さて、ここからは冨田屋さんのご主人である田中峰子様に、ご案内をいただきましょう。

ご主人の田中峰子様に玄関でお出迎えいただく
お玄関先には江戸時代のやまと絵風俗図屏風

 京都の商家では、各取引先などに元日からお年始のご挨拶に回るということがよく行われました。こうしたご挨拶は、お家の座敷に上がり込むというのではなく、玄関先、あるいは玄関に上がったその場で、新年の言祝ぎ(ことほぎ)と本年の変わらぬお付き合いをお願いするというだけの簡単なやり取りを中心とします。ご挨拶が終わったら、すぐまた次の取引先へと、順々に巡っていくのです。 

 こうした場となる玄関上がりには珍しい緞通(だんつう)が敷かれ、暖をとる豪華な火鉢とともに、お正月らしい晴れやかな屏風が立て回されています。

秋草文の艶やかな蒔絵を施した火鉢
田中峰子様からお話を伺いました

 私たちも、その場でご主人の田中峰子様から、お正月の風習についてお話をお伺いしました。

 大福茶のことで、さすがに洛中、西陣の風習と驚きましたのは、大福茶をいただいた後、その梅干しの種を口から出すとき真綿で包んで空気にさらさないようにし、さらに半紙に包んで北野天満宮に納めに行かれるというのです。

 北野天満宮では、菅原道眞ゆかりの梅が梅園を始め境内に多く植えられていますが、平安時代、村上天皇が病のとき、天満宮の梅の実を食され快癒されたという故事により、境内で採れた梅の実を梅干しに製して、年末に「大福梅」として授与されているのです。

 実家でも、北野天満宮の「大福梅」を大福茶にしていましたが、このような慣わしは全く知りませんでした。やはり北野天満宮のお膝元、また冨田屋さんの信心のあらわれと言えましょうが、拝受した天満宮の梅を種と言えども、捨てるという行為は許されないとのことなのだと合点いたしました。

 そして、いよいよ私が再会したかった歳徳棚へご案内いただきました。

歳徳棚に礼拝される田中様

 歳徳棚とは、ご覧のように、天井からぶら下げるように付けられた神棚です。しかもこれは、正月から立春までだけ、新年を迎えるにあたりその年の歳徳神を迎えるための神棚なのですが、そのための工夫があって、その年の恵方に向けて、回転することができる仕掛けになっているのです。天井にある歳徳棚取り付けのための穴のあいた板に、神棚につながる柄を差し込み、これを回転させて、方角を決めると固定します。

 今、恵方といえば、節分のお寿司の丸かじりの時に話題になるくらいで、お正月に歳徳神の来臨する方角であるということを意識している方は、少ないかもしれません。

 そうなのです。年末に父や弟が、神棚を組み立て取り付けると「今年は南南東やから、こっち向き」などと言いながら、踏み台に登って苦心しながら回していた姿を思い出しました。

天井より少し下がったところに歳徳棚のための板が張られていて、そこに回転できるように長い柄が取り付けられている
神棚が恵方に向けられると動かないように固定します
歳徳神をお迎えする歳徳棚

 しかし、さすがに「冨田屋」さんのお飾りは素晴らしく、実家では注連縄はしていましたが、若松や立派な紙垂まで付けられている本格的なお飾りに感服いたしました。

歳徳神へお供えする餅は、12個

 歳徳神に供えられるお餅もお見せいただきました。普通の小餅よりさらに小さいお餅を12個並べ、そこに葉付きみかんが載せられています。

 実家では、「星付(ほしつき)さん」と呼ばれる、餅のてっぺんに小さな餅の粒を載せた、おっぱいのような形に見える小餅を12個供えていました。鏡餅の形をミニチュアにしたものと言われています。「星付さん」も京都独特のお供え餅だと言います。

鏡餅の供えられた神棚

 歳徳棚のかけられるお部屋にはお家の神棚もありますが、こちらには鏡餅が供えられています。鏡餅は、本来神仏に備えられるものである事も、現代では忘れられがちかもしれません。

 実家では、昭和50年代頃まで、おくどさん(竃)で餅米を蒸し、その前の土間で餅つきをしていましたが、一臼つくたび、まずは神仏に供える鏡餅を作り、そのお余りを、食べるための小餅に丸めるという具合でした。実家もあちらこちらに神棚があり、また後述するように神仏以外にも鏡餅を供えたため、たしか十臼くらいついていたと記憶しています。

庭先の祠と井戸にも注連縄、輪飾りなどが供えられています
祠の見事な注連飾り
神様が祀られている宝蔵
宝蔵のお供え 鏡餅とお神酒と若松

 冨田屋さんには、神棚以外にも庭先に祠が、さらに屋敷の最も奥には、家長の男性しか入れない神様をお祀りするための特別なお蔵(宝蔵)があります。それぞれ、念入りに正月飾りとお供えがなされております。

 ことに、お庭の祠をぐるりとしめ縄で飾られている立派さには、目を見張りました。

 京都の商家が移ろいやすい世の中を生き抜くために、篤い信心を暮らしの中隔においていたことを、改めて実感させられます。

 そして、正月という大切な節目に、神々を迎え祈るという日本人が古くから行ってきた文化の真髄を見る思いがいたしました。

冬の座敷庭
座敷の床の間
床の間の鏡餅

 さて、ここで世俗の空間であるお座敷に参りましょう。

 世俗の空間とはいえ、晴れの場であるお座敷には、床の間に鏡餅が供えられます。実家でも、家中の床の間のある部屋には、必ず鏡餅が供えられました。床の間は、お正月にはめでたい書画を掛けて特に神を迎える場所と意識されたのです。

 冨田屋さんがお供えになっている鏡餅は、典型的な京都の飾り方をされています。三方(さんぼう)に紙を敷き、裏白と楪を置いた上に二つ重ねの鏡餅を、その上には昆布、串柿、そして葉付きの橙を載せます。

 串柿は、真ん中が六つ両端に二つずつ、合わせて十個の干し柿を刺したものを用います。

 私の実家のことを思い出しますと、元日の座敷は、普段以上に独特の場となりました。近しい親戚が訪ねてきますと、玄関先などでは「挨拶は後ほど」と敢えて新年の挨拶をせず、仏間に案内してお参りいただいてから、床の間のある座敷で、家族親族が揃った状態で、年始の挨拶が始まります。

 まず家長へ、年長の者から進み出て、一対一で「明けましておめでとうございます。旧年中はお世話になり、ありがとうございました。本年も宜しくお願い申し上げます」と挨拶し、これを互いにすべての親族家族が一対一で交わすという、まことに儀式めいたことを行ったものです。

 こうした少々堅苦しい年賀の挨拶が終わると、次はお屠蘇にお節料理にと食事や打ち解けた歓談が始まるのですが、家族親族の間でも、ひととき改まった場と時間として、正月飾りをした座敷空間は、特別の装置としての役割を果たしていたように思います。

 家族親族が座敷で食事をするということも普段にはないことですが、お節料理が一段落すると、必ずいただくのが和菓子とお薄(薄茶)です。無理強いはもちろんしませんが、子供が薄茶を口にしてみる初めての機会となる場も、この時だったような気がします。

 冨田屋さんでは、どこでお菓子を求められましたかと田中様にお尋ねしますと、やはり西陣の老舗和菓子店「塩芳軒(しおよしけん)」さんの名が上がりました。

 今回、冨田屋さんに因んで、塩芳軒さんのお正月のお菓子をいただくことにいたしました。

 

2.塩芳軒の今年の正月のお菓子「寿の春」とお干菓子

羽二重餅製「寿の春」

 京都の和菓子屋さんでは、正月には趣向を凝らしたその年ならではのお菓子が作られます。その代表的なものが干支にちなんだものですが、今年の塩芳軒さんでは、丑年の絵馬を焼印で表した羽二重餅製の「寿の春」がそうした趣向で作られたものでした。

 お店先では、他にも選ぶのが難しいくらい美味しそうな金団(きんとん)や薯蕷饅頭(じょうよまんじゅう)などがあり、迷ってしまったのですが、前にいただいたことのある塩芳軒さんの滑らかな羽二重餅のお味と食感が蘇ってきて、思わず「こちらにします」と選んだのでした。

「寿の春」に、有平糖製の「千代結び」と和三盆製の「ねじ梅」の干菓子

 色味が少し地味なので、お正月らしさを出すために、やはり定評ある塩芳軒さんですので、お干菓子も合わせていただくことにしました。ひとつ添えるだけで、干菓子の色目や有平糖の艶が、瞬く間におめでたさを高めてくれます。

 さて、さっそく「寿の春」をいただいてみましょう。

 口に入れた瞬間、上辺の焼き目と焼印の香ばしい香りが鼻に抜け、しっとりとやわらかい羽二重餅が口中で溶けるように崩れると、誠に上品な餡の甘さと粒餡の食感があらわれます。

 羽二重餅の滑らかさと粒餡のコントラストが素晴らしいのですが、じつは、粒餡の上にはキメの細かい白餡が載せられており、二重餡となっているのです。

 この手の込んだ仕立ては、餡の食感、味を複雑にするだけでなく、焼き目のある上辺を小豆餡の色を透けさせず、真っ白な下地にする効果も計算されています。

 そして焼き目を美しく見せる工夫だけでなく、やはり特に推したいのが、お菓子に対する焼き目そのものの効果とバランスです。甘さに混じってほんのりとした焦げの苦みと香りが広がり、またすっと消えていきます。

 お正月早々から、こんな口福をいただいて、改めて和菓子の世界の奥深さを知らせていただいた思いがいたします。

「寿の春」二重餡の仕立てが素晴らしい
塩芳軒 麩焼、和三盆のお干菓子の数々 
紙で包まれているものと紅白の丸い干菓子は「雪まろげ」(和三盆製)

 実家での正月の宴は、延々と続きました。

 男たちが、食事や酒もそろそろいっぱいとなってきて、お薄をもう一服と所望すると、「それではこれでも。甘いものは別腹」と、用意しておいたさらなるお干菓子を女たちがまた持ち出すという具合です。あっさりとした和三盆製のお干菓子は、これまたペロリと頂けてしまうものです。

 こんな身内での、幸せな集いができる正月を、来年こそは取り戻したいと、こころより願ってやみません。

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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