EXTRA2019.03.29

京都歴史

泉涌寺涅槃会(せんにゅうじねはんえ)と 涅槃西風(ねはんにし)そして月—紫野源水 蕨餅 春風[京の暮らしと和菓子 #22]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 うららかな春が待ち遠しい3月、草木の芽吹く時季ではありますが、ときおり季節を逆戻りさせるような強い風が吹き渡ります。こうした風は、涅槃西風(ねはんにし)とか貝寄風(かいよせ)と呼ばれて春の季語ともなっています。
 涅槃西風とは、お釈迦様がお亡くなりになった日、旧暦二月十五日に行われる涅槃会前後に一週間ほど吹きつづく西風のことをいい、貝寄風とは、旧暦二月二十二日に行われる大阪四天王寺の聖霊会(しょうりょうえ)で献じられる造花が、難波の浦辺に吹き寄せられた貝殻で作られたことに因んだものです。いずれも春に冬の名残を思わせる少し強い西よりの風で、これが吹くと寒さが戻るといわれます。


  貝寄する風の手品や和歌の浦  芭蕉

  叡山の小雪まじりの涅槃西風   西沢信生

 

 旧暦の2月中下旬頃とは、現在の暦で3月下旬頃にあたりますが、今年は3月13日頃から数日、西風が強く吹き荒れました。ちょうど大学構内で開催されていた通信教育部の卒業制作展の幟が、連日、大きくはためきつづけ、卒業式のあった16日の朝には近畿地方の山間部が、うっすら雪化粧するような寒の戻りとなったのでした。

 まさにこの西風が吹く頃、京都のあちこちの寺院では涅槃図の一般公開や涅槃会が行われていました。今回はその中でも、日本最大級の涅槃図が掲げられる泉涌寺をお訪ねいたしました。
 泉涌寺は、東山連峰の南端に近い月輪(つきのわ)山をうしろにして西の麓に建ちます。大門から入ると、玉砂利の道が緩い傾斜で下り、参拝者を緑に囲まれた広やかな境内にへといざないます。

仏殿へと緩やかに下る参道

 泉涌寺は皇室ゆかりの「御寺(みてら)」として、京都でもとくに別格におかれる寺院です。境内に敷き詰められている玉砂利もまた、「御寺」に御所や神宮などにも通ずる清浄な趣きを湛えます。
 皇室との関係は、鎌倉時代の四条天皇の葬儀場となり、月輪陵が営まれたことに始まります。そして南北朝時代の後光厳(ごこうごん)天皇以降、天皇、上皇は、泉涌寺で葬儀が行われ荼毘に付されるようになります。さらに江戸時代には、後光明天皇以降、幕末の孝明天皇までの歴代天皇が、月輪陵、後月輪陵という陵墓を泉涌寺境内に設けられたことで、まさに天皇家の菩提寺として位置付けられることとなりました。

霊明殿の唐門 霊明殿には天皇、皇后、親王のご尊牌が179基祀られる。
霊明殿奥に白砂を敷き詰めた御陵拝所が設けられ、その奥に月輪陵、後月輪陵が続く。

御座所の奥に設けられた倉造りの海会堂(かいえどう) 歴代天皇及び皇族のご念持仏を祀る仏間

 ここで泉涌寺の創建とその後の歴史に触れておきますと、この地には平安時代、藤原緒嗣(おつぐ)が建立した仙遊寺があったと言われます。泉涌寺の開山となる俊芿(しゅんじょう)律師(1166〜1227)は、肥後国の生まれで、幼くして仏門に入り、天台を学びました。しかしより深い戒律の教えを求めて、正治(しょうじ)元年(1199)に中国南宋に渡り、禅と戒律と天台を修学し、経典や典籍、絵画など、宋代の文物を多数携えて建暦元年(1211)に帰国したのです。栄西に請われてしばらく建仁寺に住していましたが、建保6年(1218)宇都宮信房(うつのみやのぶふさ)から仙遊寺の寄進を受けて、これを泉涌寺と改めて宋風の寺院を建立しようとしたのが、その創始です。

重文《俊芿律師像》嘉禄3年(泉涌寺提供)

 九条道家、徳大寺公継(きんつぐ)、後鳥羽院のほか、鎌倉の北条政子、泰時らの帰依を受け、貴族、武家から多くの寄進を得たことで、嘉禄2年(1126)には、壮大な中国南宋風の主要伽藍が落成したとされます。
 創建以来、律、密、禅、浄土の諸宗を兼学する寺として広く信仰を集めましたが、南北朝、応仁の乱、戦国期の戦乱の災禍に見舞われ、伽藍は幾たびも焼失し、そのたびに再建が目指されました。そして江戸時代、後水尾上皇、霊元天皇の勅命を受けて4代将軍徳川家綱の全面的助成により本格的な再興が図られたのです。現在の仏殿はこの時の造営で、寛文8年(1668)に再建されたものです。 
 明治5年(1872)に、四宗兼学が廃されて真言宗に属することになり、現在は真言宗泉涌寺派となっています。

 さて、涅槃図のことに話を戻しましょう。泉涌寺の涅槃図は、江戸時代の画僧、明誉古礀(みょうよこかん)(1652〜1717)の最晩年、享保2年(1717)の作で、高さ15.1メートル、幅7.3メートルという途轍もない大きさを誇るものです。涅槃図の一般公開は、3月14日から17日なのですが、今回特別に、仏殿の高さを大きく超える大涅槃図を人の手で掛け揚げる行事から拝観をお許しいただきました。この涅槃図揚げは、11日の朝、開門前の8時から執り行われました。

開門前の泉涌寺大門を境内から振り返る

早朝の泉涌寺 仏殿

ご案内をいただいた渡邊恭章(きょうしょう)教学部長様

 泉涌寺教学部長 渡邊恭章様のご案内で、早速仏殿の中に入りました。すでに涅槃図を釣り上げるための梁脇の滑車にロープがかけられ、準備が始まっていました。堂内の本尊三世仏(釈迦、阿弥陀、弥勒仏)は、江戸時代の修復を受けていますが、鎌倉時代に遡るものとされています。

仏殿の御本尊 釈迦(過去仏)阿弥陀(現在仏)弥勒(未来仏) 三世仏は中国南宋の寺院に倣ったという

仏殿の天井画 狩野探幽筆《蟠龍(ばんりゅう)図》と梁の滑車にかけられたロープ

 そして持ち出された涅槃図にロープを結え付けて、いよいよ引き上げる準備が整いました。近年では大きな涅槃図を電動で上げる寺院もあるといいますが、泉涌寺では、毎年昔ながらの方法で揚げておられます。じつは泉涌寺の場合、ただ高く引き上げれば良いというのではなく、仏殿の高さに余る長さの涅槃図を天井と床に沿わせて、コの字型に掛けないといけないので、至難の業を駆使することになるのです。この作業に携わっているのは、泉涌寺出入りの、大工さんや石工さんなどの職方と若い僧侶の方々です。手前で全体の指図をされている職方さんは、なんともう50年のキャリアがあるといいます。

涅槃図に取り付けたロープを梁に付けられた滑車に通して
涅槃図を開く
少しずつ引き上げながら、開いていきます
引き上げられる涅槃図 絵の上部は天井に沿わせることになるので、梁の前の方の滑車であげられます
上部を手前方向に引き上げつつ、下部を奥に送りながら開いていきます
上部を天井に沿わせるために支えの棒を最適の場所に沿わせます

 涅槃図をコの字型にするために、支えの棒を使います。これを涅槃図を垂直に垂らす最適の位置に、まっすぐに沿わせることが重要です。左右でこの支え棒を引き上げている人に指示が飛びます。支え棒を引き上げながら絵の下部が床に沿って開かれていきます。

 今回ご案内いただいた渡邊様は、「この涅槃図のサイズの大きさから、当初は別の大きな建物のために作られたものかとも考えられていたのですが、近年、当初からこの仏殿のために作られたものとわかりました。これは今でいう3Dに仕立てられているのです」とご説明くださいました。
 なるほど、月の上がった天空と高い沙羅双樹は天井部に、お釈迦様とその死を悼む菩薩、天部、十大弟子などは正面にあたる垂直部分に、集まってきた多くの鳥獣らは、地に沿う部分に誠にうまく収まっているのです。
 特に上部の月は、法会の時、中央に坐される講式師の頭上に上がります。まさに天空と地上が立体的に表現されていることを実感するみごとな装置となっていることに驚きました。

支え棒が引き上げられていきます
支え棒のロープを少しずつ引き上げる
四隅ではそれぞれ大人の男性二人がかりで慎重にロープを引いていきます
お釈迦様が丁度良い位置におさまり、絵の下部を開いてコの字型に

四隅のロープは柱の下部にしっかり巻き付けられて止められます。 燭台、華瓶などが供えられて完成

渡邊教学部長様が涅槃図の絵解きをしてくださいました

明誉古礀の落款、印章

 さて、渡邊様のご説明をもとに、ここで簡単に涅槃図の解説をいたしましょう。涅槃とは、本来仏教における理想の境地、煩悩を断じて絶対的な静寂に達したことを言いますが、一般にはお釈迦様の入滅を意味します。
 80歳となられていたお釈迦様は、クシナガラで鍛冶屋のチュンダの供物を口にされて激しく体調を崩されました。お詫びをするチュンダを慰め、弟子の中でもいちばん長くお釈迦様の側で仕えてきて、最も多くの教えを聞き、よく記憶した阿難尊者(あなんそんじゃ)に、最後の説法をされ、説き終わると沙羅双樹の下、北に頭を置き、右脇を下にして静かに涅槃に入られました。そのお姿が、涅槃図の中央のお釈迦様です。ちょうどこの仏殿は西向きに建っているので、その方角どおりにお釈迦様がいらっしゃることになります。
 お釈迦様の周りには、弟子、菩薩、天部、国王から庶民、さらには動物に至るまで、皆が悲しみに打ちひしがれて、その入滅を悼みます。阿難尊者は悲しみのあまりに失神して伏せ倒れています。

涅槃に入った釈迦

失神する阿難尊者
国王らも涙に打ち暮れている
左手に蓮華を持つのが観音菩薩 その斜め後ろに多面多臂の阿修羅
老女 鬱婆尸女(うつばしにょ)在家で戒を受けた女性信者 貴人に対する最高の礼として、釈尊の足を拝そうとする姿。涅槃図によっては釈尊の足に触っているように描かれることも
執金剛神 仏法を守護する神の分身で仁王のこと 涅槃図の下部左右に阿行吽行の対で描かれる
下部には多くの鳥獣たちが描かれる
白象とその右に獅子 それぞれ釈迦の脇侍である普賢菩薩と文殊菩薩の乗りものとなります
犀(さい)日本にはいないため、ツノは頭に一本、硬い表皮を背中の甲羅で表すことが多い

涅槃図の一番上、中央に描かれる満月

 お釈迦様の入滅は旧暦2月15日の夜のことです。旧暦15日はまさに満月の夜ということになります。その下に描かれている沙羅双樹は、入滅のときに8本のうちの4本は瞬く間に枯れ、残る4本は栄えるように花咲いたとされますが、涅槃図では枯れた木を黄色い葉で表しています。
 俊芿律師も月輪(がちりん)大師という諡号(しごう)を賜っており、月輪陵をお守りする泉涌寺では、月に因んだお菓子がこの春の涅槃図公開の時期と秋の舎利会の時期に特別に販売されているということです。

笹屋伊織製の「み月」 題字は泉涌寺長老 上村貞郎猊下の命名でご染筆

栗羊羹を下に、黄色の「むらさめ」餡を載せて、月のような形に仕立て、金箔をあしらった上品なお菓子。

 さて、こうして涅槃図の準備が整い、いよいよ3月15日の涅槃会の日を迎えました。私たちも、10時からの午前の法会に参列させていただきました。

3月15日の涅槃会の朝の大門

法会の始まる前から、すでに講式師を勤められる方が、釈迦を讃嘆するお経を上げておられます

衆僧が仏殿に入堂

 涅槃会は、12人の衆僧が仏殿に入堂し、涅槃会の聲明をお唱えになります。その中のひとりに、なんと私の実家の檀那寺にあたる伏見大黒寺のご住職さまがいらしたので、驚いてしまいました。
 全く忘れていたのですが、そういえば祖父の葬儀の時、大黒寺さまからのお声がけで、泉涌寺さまから何人かのお坊さまがご出仕下さったことを、「他でもない泉涌寺さんからお出でいただけて、何よりのこと」と父がとても恐縮し、喜んでいたことを思い出しました。同じ真言宗の寺院としてのお繋がりが深く、涅槃会のような大きな法会には、大黒寺さまも逆に泉涌寺にご出仕になっていたことを初めて知りました。

妙鉢を鳴らされる
祭文を読み上がられる僧侶 釈迦の遺徳を偲ぶ

 涅槃講式の聲明は厳かで、これまで聞いたことのある理趣経などの聲明とは全く違いましたが、祖父の葬儀の時に初めて聞いた妙鉢(シンバルのような仏具)をジャラララン、ジャララランと鳴らされる華やかさにも真言宗らしさを感じる聲明でした。そして、泉涌寺ならではの儀式として、泉涌寺で創流された「月輪未生流」の方々による仏前への献華が行われました。袿(うちぎ)のような装束を着て入堂され、黄色と白の菊を、仏前の左右にそれぞれすぐに生花(せいか)の型で生けられる技は、みごとなものでした。

笥籠(けこ)から散華の花弁を取り出されて、聲明に合わせて放たれる

散華が舞う
華が撒かれて、仏のために道場が清められる

 涅槃会の後で分けられるのが、花御供(はなくそ)です。京都の涅槃会では、方々のお寺でも同様にあるのですが、花供御とか花供僧、花供曽と表記されるところもあります。お寺によって甘かったり、お醤油のお味だったりしますが、丸く作られたいわゆる霰です。
 本来は、仏に供えられた鏡餅をお下がりとして小さく刻んで焼いて霰にしたものだったそうですが、その見かけから、いつしかお釈迦様の「はなくそ」だといわれるようになったとのこと。こういうユーモアというか諧謔を喜ぶ質(たち)が京都の庶民にあることも確かです。
 私たちも堂内でお分けいただいて持ち帰りましたが、泉涌寺の「はなくそ」は醤油味の霰に炒った黒豆が入っていて、いっそうそれらしく見えてしまいます。まことに香ばしく美味しい「はなくそ」でございました。

花御供(はなくそ)

泉涌寺の花御供は黒豆とお醤油味の小粒な霰

 泉涌寺の涅槃会は、午前に2時間、午後にも2時間と合わせて4時間にもわたる大法会ですが、午前の法会が終わると衆僧は一旦退堂されて、本坊へお戻りになります。私たちは、ここで失礼することにいたしました。
 仏殿の外に出ると、風が法衣や戸帳をはためかせて通り過ぎていきました。

涅槃図の内外風の吹いてをり        池邨多鶴子

退堂する衆僧らの法衣が風で翻ります

 さて、涅槃会に風を感じる3月に、ぜひ取り上げたかったお菓子が、紫野源水さんの蕨餅「春風」です。
 京都の老舗では2月末から3月末を蕨餅のシーズンとしているところが多いようです。早蕨(さわらび)が萌え出だす頃ということでしょうが、街中での暮らしで、この時期に早蕨を探すことは難しいと言えましょう。京都近辺ではせいぜい、ひときわ早く咲き出す菫(すみれ)や貝母(ばいも)に出逢うことができるくらいです。  
 山野に入って食に間に合う程度に伸びた蕨を手に入れる時期としては、実際には4月末以降になるのではと思います。上生菓子の蕨餅は茶席で用いられることが多いので、季節を先取りすることが肝要ですから、この時期に当てられているのでしょう。

蕨餅 写真を撮ってくれている高橋さんの庭で咲いた菫と瓜生山キャンパスで蕾がついた貝母とともに

 そして紫野源水さんの蕨餅は、たいへん貴重な本蕨粉のみを用いたものです。本蕨粉のみを使用する和菓子屋さんは、じつはそれほど多くありません。蕨餅と称しても、実際には他のデンプンも混ぜて作られることも多いものです。また、本蕨粉だけで仕立てたものでも、蕨の皮の部分が薄く、バランスとして餡が多めになっている蕨餅もあります。
 私が紫野源水さんの蕨餅を一等気に入っているのは、蕨の皮が厚めで、ぶりんとした少し跳ね返ってくる独特の食感をしっかり味わえることにあります。そして蕨の皮が厚いが故に、綺麗な丸になりにくくて、底がやや広がったその形に、香ばしいきな粉がたっぷりかかって、どことなくある愛嬌もわたし好みです。
 尾池和夫学長が主宰をされている「氷室」という句誌に、私も下手くそな俳句をときおり投句させていただいているのですが、この「氷室」を創刊された金久美智子名誉主宰の俳句に、この句を見つけたとき、思わず「おおっ」と声を上げそうになりました。
 
大和絵の山の形して蕨餅    金久美智子

 水墨画で描かれる山のようなゴツゴツとした起伏がまったくなく、つるんと裾広がりに単純化された山の形は、まさに大和絵の山の姿そのものです。
 ただ、大和絵の山は押し並べて緑一色に塗りこまれていることが多いのですが、この蕨餅は、きな粉の色でまだ茶色い冬枯れの山のようにも見えます。

 それを、見事に裏切って、春を見せてくれるのが、実はこの「春風」のすごいところです。楊枝を入れて切った中から、鮮やかな緑色の餡が現れるのです。

 地中にある春の息吹きが突然現れるようで、その驚きが心を弾ませてくれます。そしてこの餡は、また私の大好きな白小豆でできているのです。口に入れると、白小豆独特の爽やかな風味が広がります。
 涅槃西風が吹いて、三寒四温の寒暖差に冬と春が入り混じるこの月にも、力強く春を蓄えている地の力を感じさせてくれる、そんな時季を体現するかのような蕨餅です。

 さて、月輪山を東にした泉涌寺は、月の名所でもあります。中秋の名月ならず、お釈迦様の涅槃の日、旧暦2月15日の満月を、お願いして特別に境内から眺めさせていただきました。

東山から上る春の月

 東山から上がってきた月は、少し霞んでおりました。窪地のようになった山ふところに立つ泉涌寺の伽藍は、朧の月に淡く照らされ、なおさら暗い水底にあるように深閑と佇んでいました。

紫野源水

住所 京都府京都市北区小山西大野町78−1
電話番号 075-451-8857
営業時間 10:00~18:00
販売期間 2月中旬~4月中旬
定休日 日曜・祝日
価格 1個480円(税込)

 

  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都造形芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都造形芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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