最近出会った著書、加藤政洋氏の『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』を読んで、これまで過去の記憶の中にあって、「あの場所は一体なんだったのだろう?」とぼんやり抱いていた思いが氷解する経験をしました。そこは旅館とも聞いたけれど、私たちは食事が目的でしか行ったことがなく、一度だけでしたが元祇園の芸妓さんの方々が御給仕をしてくださることもあった場所です。
同書は、京都を訪れた文人たちの足取りをたどることで、近代の〈遊楽〉の空間を歴史的に確かめようというもので、とくに、これまで「旅館」として扱われてきたものの中に、京都独特の「席貸(せきがし)」というものがあったと説かれることに、はたと膝を打ったのです。そう、私が祖父に連れられて家族で出かけたあの場所は、紛れもないその「席貸」だったのだと。
生家が伏見で酒造業を営んでいる関係で、花街のお茶屋さんにもお得意様があり、祖父や父は、そうしたお店とのおつきあいもそれなりにあったようでしたが、祇園などのお茶屋さんに女子どもを含む家族を連れて行くということは、当然ながら全くありませんでした。
ところが、上木屋町、つまり木屋町三条を少し北に上ったあたりのこの「席貸」に、祖父は、私たち孫が少しはおとなしくできる年頃になって以来、家族での会食のために毎年連れて行ってくれたのです。
さて、多くの方にとっては聞き覚えのない「席貸」とは何かを、先ほどの『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』も参考に簡単にご説明しておきましょう。明治頃から上木屋町を代表とする花街に近い特定の地域に軒を並べていたもので、基本的に一見(いちげん)さんお断りで、芸妓や舞妓などを呼んでの宴席を催すこともできますが、お茶屋とは違って宿泊できる旅館でもあります。夜の食事は最寄りの料理店から客の好みに応じて取り寄せるのが基本で、宿で作る食事の提供は朝食のみとなっています。いずれにせよ、京都の花街の周辺に成立した独特の遊楽の場であったようです。
初めて「席貸」を訪ねた時、木屋町に面した店の合間にある、人ひとりしか通ることのできない暗く細い路地に、躊躇なく入っていく祖父について行きながらも、いったいこの奥に何があるのかと子ども心にドキドキしたのを覚えています。そして先頭を行く祖父が路地の奥に着こうとする時、なんとも言えない絶妙のタイミングで奥の玄関の戸が開き、女将さんが馴染んだ様子で「おいでやす」と出迎えてくれた時に、何か言いようのない安堵を感じたのでした。
祖父が連れて行ってくれたのは、木屋町三条上がるの「富のや」さんと「畑(はた)」さんでした。いずれも生家の酒を使ってくださっているお得意様でもありました。
路地の奥に、その幅からは想像もできない2階建の建物が現れます。つまり、逆エル字のような敷地で木屋町の通りにではなく、鴨川に面する方に広がっているのです。
玄関から上がると艶やかに磨き込まれた長い廊下があります。フカっとしたじつに履き心地の良いスリッパに足を入れてこの廊下を歩くと、おのずと少しよそ行きの気分になりました。そして鴨川に面した座敷へと案内されると、床の間には季節に合わせた掛け物や花が控えめに飾られて、鴨川の向こうに、東山の続く景色が広がります。
夏には座敷の東側、河原の方へ張り出した納涼床が設けられ、冬には座敷の座布団の上に、柔らかい薄い真綿の膝掛け布団が用意されていました。座椅子にかけられた白いカバーはピンと糊が効き、ひとりひとりに脇息が用意されていました。
人の目を驚かすような凝った設え、また華美な装飾は全くなくて、むしろ地味にも見える座敷なのですが、行き届いたもてなしの緊張感がなんとも心地よい空間を作り、料亭のそれとはまた違った居心地の良さがありました。そして取り寄せられた仕出し料理と生家の酒などが程よい間隔で供されました。
「一見さんお断り」というと敷居の高さを感じさせると思いますが、客の好みを心得た女将の差配で客の要望に応えてくれるこの仕組みは、他では味わうことのできない上質のサービスを実現させてくれるものなのだと思います。おそらくうるさい祖父の好みをよく承知したもてなしだったのだろうなと想像します。
一階に一客、二階に一客、最大でも二客しか取らないと言っておられた「富のや」さんに、8月の上旬に寄せていただいた時、この辺りでは大文字を望むことができるので、「16日の大文字の日は、毎年お決まりのお客様がおいでやして、その日は申し訳ないのどすけど、よその方はお受けできまへんのどす」とおっしゃっておられたのを憶えています。その点火に合わせて丸い盆に酒を注ぎ、そこに写る大の字を飲んで無病息災を願う楽しみ方があることも女将さんの話で教わりました。
そして忘れられないのが、この夏の時期に伺うと、必ず帰りに手土産として、亀屋則克さんの「浜土産(はまづと)」を頂戴したことです。
磨き上げたように艶やかな貝。貝の口にそっと爪を入れて開くと、貝の白さを背景に鮮やかに透き通った琥珀色があらわれます。その美しさにハッとするのですが、その中に真珠ならぬ茶色い一粒が閉じ込められています。これが大徳寺納豆です。
お店のお薦めは、開けた貝殻の一方を匙のように使っていただくという野趣ある方法。こうした琥珀羹は柔らかすぎると、黒文字の楊枝などでも、ぐずぐずになって食べるのに難儀することがありますが、少し固めに仕上げたこの琥珀羹だからこそ、貝の匙で掬い取れます。
琥珀色の部分を食べると甘い蜜が口の中に溶けますが、大徳寺納豆を含んだ部分を口に入れた途端、琥珀羹の甘味に特有の発酵のうま味と塩分が渾然一体となります。その瞬間、全く別の菓子を口にしたような劇的な変化を遂げるのです。この幾度も予想を裏切る仕掛けには、ほんとうに舌をまいてしまいます。
夏にこのお菓子を口にするたび、私は上木屋町の「席貸」の座敷の光景と女将さんの姿を思い出します。しかし祖父が他界して数年後、世の中がバブルで沸いていた頃に「富のや」は店を閉じられました。この上木屋町一体にあった席貸は、今では次々にレストランやビルに姿を変えてしまいました。
そして、木屋町三条界隈で一軒だけ、「畑」さんが、今も同じ業態を続けておられます。久しぶりにお訪ねすると、祖父に連れられて伺った初代の女将さんから、三代目を数えておられました。その佇まいは昔のままで、懐かしい思い出が様々に蘇ってきました。
「全面改装はいたしましたものの、建物の建材、建具などは昔のままにしてあります。」とのことでした。
「そういえば、大文字の日は、ここからの眺めを楽しみにされているお客様もいらっしゃるのでしょうね。」と伺うと、「それが、対岸に建ったマンションに遮られてしまいまして。昔のようには、見えしまへんのどす。」という寂しい言葉に衝撃を受けました。木屋町三条界隈での粋(すい)な大文字の楽しみは、すでに失われてしまっていたのです。
しかし女将さんはキリッとおしゃいます。「先々代が築かれたこの店への強い強い想いを先代より引き継いで守っております。」
私の記憶の中にある、しなやかな身のこなしでしかもきりりとした初代の女将が、確かにまだここに宿っておられるような気がいたしました。
時代の変化が押し寄せている今日。その重圧は如何程かと思いつつ、どうか京都にしかないこの独特のおもてなしの文化が守り続けられることを、切に願うのです。
<文:栗本徳子(歴史遺産学科教授)/浜土産写真:高橋保世(美術工芸学科4年)>
【参考図書】
◇『モダン京都 〈遊楽〉の空間文化誌』<編者:加藤政洋/ナカニシヤ出版>
畑
住所 | 非公開 |
---|---|
電話番号 | 非公開 |
御菓子司 亀屋則克
住所 | 京都市中京区堺町通三条上ル |
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電話番号 | 075-221-3969 |
営業時間 | 9:00〜17:00 |
定休日 | 日・祝・第3水曜 |
価格 | 380円(税込)/10個籠入り4,200円(税込) |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。