SPECIAL TOPIC2026.03.31

アート

迷い、編集し、更新する――DOUBLE ANNUAL 2026 遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?

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  • 京都芸術大学 広報課

国立新美術館にて、「DOUBLE ANNUAL 2026【遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?/Long Ways, Long Lies?】」(会期:2026年2月21日(土)〜3月1日(日))が開催された。本展は、京都芸術大学および東北芸術工科大学の全学部生・大学院生を対象とした学生選抜展であり、両校から選抜された11組の学生作品が同一の展示空間に配置される点に特色がある。監修は片岡真実(森美術館館長/国立アートリサーチセンター長/京都芸術大学大学院教授)。ディレクターは、京都芸術大学担当として堤拓也、東北芸術工科大学担当として慶野結香が務める。

DOUBLE ANNUALの特徴は、完成度の高い作品を集めることそれ自体にあるのではない。応募はプロポーザル段階から行われ、選抜後は半年以上にわたってディレクター陣による継続的な対話と講評が重ねられ、作品は更新されていく。さらに、国立新美術館での本展に先立ち、各大学でプレビュー展が設けられ、制作と展示構成が段階的にブラッシュアップされる。ここにあるのは完成度の競争というよりも、問いを持続させ、作品との対話を続けることを含んだ教育的実践である。

▼京都プレビュー展レポート

https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/1454

▼東北プレビュー展レポート

https://www.tuad.ac.jp/gg/report/14986/

 

今年掲げられた主題は、「遠くへ旅する者は多くの物語を語ることができる?」である。経験の蓄積が語りの豊かさを保証するという発想は一見自明だが、英語副題 “Long Ways, Long Lies?” が示唆するのは、旅がもたらすのは「多くの物語」だけではなく、その物語がどのように構築され、どのような編集を経て語られるのかという問いである。移動はつねに自発的な選択なのか。語りは証言なのか、それとも制度や欲望に条件づけられた言説なのか。本展は、移動と語りの関係を制度・身体・言説の複数のレベルで批評的に問い直す装置として立ち上がっている。

加えて本展では、アート・プラクティショナーが展覧会制作の一部を担い、記録、テクスト執筆、活動の可視化を通じて、展覧会を「一過性の出来事」から「参照可能な記録」へと転換する。国立新美術館という制度空間に学生の実践が置かれることは、制作が私的領域から公的領域へと移行する過程そのものを含意する。そこで問われるのは作品内容だけではなく、どのような仕方で世界に接続し、どのような形式で語る(あるいは語らない)のかという、表現の方法そのものでもある。以下では、展示空間に現れた複数の「旅」の形式を辿りながら、①移動の身体化、②移動の制度化、③語りの生成と変形という三つの観点から本展を検討する。

アート・プラクティショナーによって制作された本展覧会の展示記録

1|移動の身体化──声・身体・触覚から立ち上がる距離

本展でまず際立っていたのは、旅が「移動の記録」ではなく、身体のなかに沈殿する感覚の更新として扱われていた点である。

アイラゴン(Ayalguun)のインスタレーションは、フェルトの三つ編み、鉄製のゲルの支柱、映像、そしてホーミーの声によって構成される。各地を旅しながら編まれる三つ編みは、旅の道すじを描くというよりも、時間の堆積と労働の反復を残していく。声は空間を震わせ、鑑賞者の身体へと直接的に届く。ここで提示される旅は、地理的移動の結果として得られる「物語」よりも、制度や境界に対する違和感が身体のレベルでいかに感受され、形式へと変換されるかという問題として浮上する。

身体を媒介とする移動は、飛聲(FEISHO:岩田奈海+徐君逸)の《A WALL WE SHARE(関係性の壁)》において別の位相に展開される。ボルダリングウォールとして組まれた壁面は、絵画の支持体であると同時に、他者と身体を共有するための装置でもある。交換日記、互いの絵に加筆し合う描き重ね、二人がそれぞれ異なる旅のルートを記録した映像、そして壁を登りながら絵具をのせていく行為が、言語・視覚・身体という複数の回路で関係性を編んでいく。ここでの「旅」は、物理的な遠方への移動だけでなく、むしろ異なる視点を交換し、関係を調整し続けるプロセスとして提示される。

忠丘巣迷(久保廣汰+チ田真之助)の《3ヤドリ木ル3(ドリル学習ツアー)》は、旅を「目的地へ到達するための移動」から引き剝がし、迷いを含んだ経験として再構成する。出発点となるのは、ダウジングによって日本地図に引かれた線である。線は地理情報として曖昧で、むしろ「どこへ行くのか」を確定させないまま移動を開始させる装置として機能する。さらに、目隠しでの移動という手続きによって視覚の優位が一時停止され、方向感覚の揺らぎや躊躇が身体の側に引き戻される。そこに生まれるのは移動の最短化ではなく、逸脱や停滞を含む時間である。展示空間に配された木箱、映像、ノート、写真、旅先から持ち帰られた物は、出来事を「記録」として整えるというより、迷いの痕跡を点々と残す。鑑賞者はそれらを追うことで、旅をひとつの物語へ回収するのではなく、断片のあいだを行き来しながら、経験が立ち上がる手前の揺れを追体験する。近代的な移動が効率や最適化に傾くとき、この作品が差し出す「迷うこと」は、移動の価値を別の尺度で測り直すための方法論として読むことができる。

2|移動の制度化──強制、循環、公共性のなかの旅

第1章で見えてきたのが、身体感覚としての旅だったとするならば、第2章で問題になるのは、移動が制度や環境条件に媒介され、ときに本人の意思とは別のかたちで生を組織してしまうという側面である。そうした事実に気づいたとき問われるのは、私たちは「旅」や「物語」をどのように語り直しうるのか、という点だ。

木村晃子の《タビ〜運ばれる故郷》は、ツバメの移動と技能実習生の移住労働を重ね合わせる。ベトナムの食用ツバメの巣工場のリサーチ映像と、実習生へのインタビューを軸に構成されるインスタレーションは、移動を「目的」ではなく「前提」として位置づける。帰還を前提にした移動、あるいは帰還を条件にした移動が、いかに生を組織しているか。木村が作品を説明する際、この試みを「第一歩」であり「続けていきたい」と述べたことは重要である。結論を急がず、関与を持続させながら問いを更新し続ける——その必要に気づかされること自体が、教育として成立している。少なくともこの点において、本展の枠組みは有効に機能していると位置づけられる。

中島慎之助の《回転道中ー不時着ー》は、台風によって生息域から移動させられたツヤアオカメムシを造形化する。回転する脚部は、台風の渦と移動の帰結としての死を同時に呼び込みながら、移動の方向性が奪われる感覚——「どこへ行くか」ではなく「回される」こととしての移動——を身体の運動に置き換える。害虫として忌避されがちな存在を、メタリックな輝きの物質性として際立たせることで、鑑賞者はその身体をまず視覚的魅力として受け取り、次の瞬間にその魅力が暴力の痕跡でもあることに気づかされる。つまり移動の暴力性は「外部の出来事」としてではなく、見ることそのものの問題として鑑賞者に返ってくる。加えて胴体には、台風に飛ばされる最中のカメムシの言葉が刻まれている。ここで文字は説明の付記ではなく、鑑賞者の身体を「読む」側へと移す装置である。台風という自然現象の話として捉えると、強制的に運ばれる移動は「出来事」として処理されやすい。けれど胴体に刻まれた言葉は、その移動を「痛みの経験」としてこちらに返してくる。結果としてカメムシは、単なる造形上のモチーフではなく、痛みをもつ存在として立ち上がる。

川口源太の《Field Poppy Trail》は、外来種ナガミヒナゲシをめぐる公共空間の価値判断を扱う。標本採集や観察スケッチが植物の「客観的」な姿を示す一方で、自治体の態度を表すポスターなどが社会的イメージを可視化する。移動式の箱状模型は、都市の自生環境を模すと同時に、キャスターによって「ここにもあそこにもある問題」として現前させる。移動が排除と共生の政治性へと接続され、旅の物語が公共性の領域で再編される様子が、展示形式そのものに埋め込まれている。

3|語りの生成と変形──痕跡、誤配、名付け、未確定

旅が物語を生むとして、その物語はどのように編まれるのか。本展後半では、語りが生成され、変形し、時に欠落を伴いながら成立していくプロセス自体が、作品ごとに異なる方法で扱われていた。

Brumend Maps(黄安琪+王語唐+曾嘉琪)の《まだ逢う ー旅する痕跡ー》は、「地図」を正確な案内図としてではなく、身体が触れた痕跡に導かれて立ち上がるものとして扱う。八つの都市で採取された拓印は、道路の肌理や壁面の凹凸、看板の文字といった些細な記号をすくい上げ、陶板へ転写され、焼成によって固定される。しかしこの固定は、記録を安定させるためだけではない。欠けや破損、継ぎの痕跡が残ることで、そこには「どこで足が止まり、何に手が触れたのか」という偏りが刻まれ、都市は経験の手触りとして編み直されていく。ここでの旅は、到達点へ向かう移動ではなく、偶然目に留まったもの、たまたま触れてしまったものに引き寄せられながら、ルートが後から形を得ていくプロセスとして提示されている。その意味で、旅を動かすのは計画よりもむしろ「偶然が連れていく」力である。この力は、宇野真太郎が虎の置物との出会いを起点に、検索の不確実さや横滑りする関心を引き受けながら、タイへと動いていった《TRACK》の軌道へと滑らかに接続する。

宇野真太郎の《TRACK(Indochina Tiger, arms around each other)》は、旅がしばしば「動機」よりも先に「きっかけ」から始まってしまうことを、そのまま作品の骨格にしている。出発点は、近所の公園で見かけた虎のベンチであり、つづいてリサイクルショップで出会った小さな虎の置物である。ここで虎は、最初から“意味のあるモチーフ”として選ばれたわけではない。むしろ、日常の中で偶然ひっかかった像が、作家の視線を少しずつ別の方向へ連れていく。その連れていき方を決定づけるのが、画像検索という媒介である。検索は確信を与えるようでいて、同時に誤りや飛躍を含み込む。宇野はその不確実さを修正すべきノイズとして退けるのではなく、むしろ引き受ける。虎が「インドシナトラ」らしいという曖昧な知識が、京都の“ただの商品”を、タイへと接続してしまう——ここには、計画よりも「偶然が連れていく」力が、旅を駆動している。展示空間には、虎探しの旅で出会った風景や人々の彫刻が置かれ、あわせてプレビュー展で行われた公開制作の映像が流れる。重要なのは、完成された記録を提示することではなく、文脈が交差していく過程そのものが可視化されている点である。公園、リサイクルショップ、検索、現地滞在、彫刻——それぞれは別々の出来事でありながら、虎という像を介して一本の軌道へと束ね直される。その束ね直しの運動こそが、本作における「旅」の実体であり、物語が後から成立してしまう瞬間を、観客の前で開いている。

トウ セイヨ(TANG QINGYU)の《Henrietta must be a she》は、髪の束のようにも見える要素、植物のイメージ、菌類というモチーフを手がかりに、名付けがいかにイメージを生成し、存在の輪郭を決めてしまうのかを静かに問う。発端にあるのは、友人が観葉植物に女性名を与えていたという日常的な出来事である。だがその親密な行為は、性別を持たない存在を言葉の側から「彼女(she)」として立ち上げてしまう。トウはこのズレを起点に、ツルを髪へと接続し、存在しなかった女性像を想像的に組み立てていく。ここで提示されるのは、遠くへ行く旅ではなく、言葉ひとつで世界の輪郭がずれはじめるという小さな移動であり、語りが他者との距離をどう引き受けるかという本展の問いを、最もミクロなレベルで反復する試みである。

名付けが存在の輪郭をずらすように、語りもまた、語られるたびに形を得て、別の輪郭をまとう。FLO(佐々木陽和+佐藤創瑠)の《テルリスト——私たちは山形から来ました》は、その生成と変形を「器」のレベルで扱う展示である。三点の壺が置かれている。異なる断片を接いでいく呼継壺、百年前の雨水にまつわる語りと結びつく青い壺、そして茶色くひび割れた壺。三点が並ぶことで、語りが「まとまった物語」へ整えられていく過程で、形が変わり、欠落が生まれることが物質として伝わってくる。周囲の破片や瓦礫は、その編集の過程でこぼれ落ちたものたち。語ることは保存ではなく編集であり、その編集がつねに欠落を伴うことが、瓦礫の手触りとして残されている。

物語が「物語」として形を取る瞬間に目を向けると、像が「意味」として名指されるより前の領域も見えてくる。岡田琉生の《Mirror Dust : Neural Debris : Techno Fossils》が扱うのは、像が「これは何か」と名指されるより前に立ち上がる、輪郭だけの不確かな手触りである。スプレーで人工物の外形を写し取る操作は、対象の説明を削ぎ落とし、周縁だけを残して像を漂わせる。そこに、デジタル画像の破綻やノイズのような“画面の欠損”が重ねられ、さらに絵具の飛沫や擦れといった物質的な痕跡が介入することで、仮想と現実の境目がゆるむ。加えて、切り抜かれた布がほどけたり絡まったりする途中の状態を硬化させる試みは、完成へ向かうプロセスそのものをいったん停止させ、像が確定していく手前の時間を展示空間にとどめる。その結果、会場は完成されたイメージを並べるというより、分類や命名の前段で、像がどのように立ち現れるのかを再編する場として機能する。ここでの旅は、距離を移動して物語を獲得することではなく、意味が付与される以前の層へと降りていき、世界の見え方が組み立てられる手前を点検する思考の運動として示されている。

終章|アーカイブとしての展覧会、未完としての教育

本展を教育プロジェクトとして捉えるとき、重要なのは「完成した作品が並ぶ」こと以上に、作品が更新されていくプロセスが制度空間に接続されている点である。各大学でのプレビュー展(中間発表)が本展前に設けられ、その都度、講評を通じて改良が促されるという構造は、展覧会を一度きりの成果物ではなく、検証と修正の連鎖として設計している。表現が社会と接続するために不可避な「反応」と「調整」を、教育の内部に組み込む試みだと言ってよい。

さらに、アート・プラクティショナーの活動は、本展を「参照可能な記録」へと転換する。作家解説やインタビュー、フリーペーパー、タイムラインの可視化は、作品を「展示された」だけで終わらせない。どのように制作が進み、どのように更新され、どのような言葉で語り直されていったのかが残されることで、展覧会は後から辿り直せる出来事へと変わっていく。ここで「物語を語る」とは、作家が作品について語ることだけではない。展覧会がどのように構築され、どのように編集され、どのように残されるのかという、制度的な語りの生成過程そのものが問われている。

“Long Ways, Long Lies?” が突きつけたのは、旅と語りの結びつきが、どのような条件のもとで成立しているのかを照らし出すことにある。移動は自由な選択としてだけではなく、労働制度、災害、公共空間の価値判断といった構造のなかで成立する。語りは真実へ近づくための回路であると同時に、編集と欠落を不可避に伴う。そうした前提を踏まえたとき、本展の作品群は、遠くへ行くことの華やかさではなく、「目を凝らすこと」「迷うこと」「疑い続けること」「未完で居続けること」を共通の態度として示していたように思える。

DOUBLE ANNUALは、学生を「完成」へと到達させる装置ではない。むしろ問いを持続させ、それを更新し、社会へ向けて提示するための方法を実地に経験させる場として設計されている。本展において制作は、私的領域から公的領域へと運ばれ、語りは書かれ、編集され、アーカイブとして残されていく。その一連のプロセスそのものが、「旅」と呼ばれるべき運動である。

そして、その経験はこの場かぎりで閉じるものではないだろう。ここで可視化された問いや方法のいくつかは、卒業後の実践のなかで持続され、別の作品、別の展示、別の制度空間において再び立ち現れてくるはずである。ここにいた学生たちが、それぞれの現場で制作を続け、やがて作家として再びこのような場に立つことを想像したい。本展はその未来を保証するものではない。しかし少なくとも、その未来へと接続しうる問いの持続と方法の獲得を支える場として、確かに機能していたと言える。

 

▼DOUBLE ANNUAL関連サイト

https://www.youtube.com/@ANNUALDOUBLE

https://www.instagram.com/doubleannual/

 

(文:鈴木萌夏 写真:Kenryou Gu)

プロフィール

 

鈴木 萌夏
SUZUKI Moeka, Ph.D.

女子美術大学アート・デザイン表現学科アートプロデュース表現領域を卒業後、同専攻博士前期課程を修了。その後、東京藝術大学大学院美術研究科博士後期課程を修了し、博士(美術)の学位を取得。現代美術の記録および批評的探究を目的としたリサーチ・出版プロジェクト「だえん」を企画・運営し、現代美術に関する批評的言説の形成およびアーカイブ構築に取り組んでいる。研究テーマは1990年代の日本の現代美術であり、同時代の美術動向の分析を基盤としながら、展覧会企画や批評執筆を行う。主な企画に「遺伝的美意識—Inherited Esthetics」展(2023年、日本橋三越本店コンテンポラリーギャラリー)および「レントゲン藝術研究所の研究」展(2019年、レントゲンヴェルケ)がある。

 

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