京都での内国勧業博覧会開催とパン
「おっきなお麩」との認識だったパンの存在を京都市民に広く浸透させたのは、1895(明治28)年4月から7月まで開催された第4回内国勧業博覧会だろう。明治時代を通し、国威発揚、殖産興業を旗印にくり返し開かれたこの種の博覧会だが、過去3回が東京開催だったのに対し、京都で初の開催となり、それまで田んぼと蕪畑だった岡崎を会場に、工業館や農林館、動物館、そして各府県の売店などが建ち並ぶこととなった *。また、第4回の博覧会といえば、黒田清輝がパリ時代に描いた裸婦像《朝妝(ちょうしょう)》が出品され、話題をさらったことでも有名である。
全裸の女性が鏡を前に朝の化粧をしているところを描いたこの油彩画は、留学中の師匠ラファエル・コランに認められ、パリのサロンで入選もした。だが日本では、評価する者もいた一方、風紀を乱すスキャンダラスな作品と受けとめられる。博覧会での展示条件も、女性の腰の部分を布で覆うという異例にして珍妙なもの。下世話な関心で絵を取り囲む日本人鑑賞者の姿を、当時のお雇い外国人ジョルジュ・ビゴーが風刺画として描いている。誇張されたイラストには違いないが、一般にはまだ、西洋画や西洋文化に違和感を持つ者も多かったことがわかる。
ラフカディオ・ハーンの博覧会レポート
遷都1100年を強調し、大阪から勝ち取ったこの博覧会開催は、京都の町にとっては一大イベントだった。道路や寺社は修繕され、人力車は取り締まられ、開会前には京都電気鉄道が開業して、京都駅から博覧会会場までのアクセスが確保された。外からの人の出入りも相当であったらしい。
この博覧会の様子を書き残している作家がいる。ギリシャ生まれのアイルランド人でありながら日本に帰化し、「耳なし芳一」はじめ日本に古くから伝わる怪談を紹介した小泉八雲ことラフカディオ・ハーン。じつは怪談文学だけでなく、鋭い観察力で日本各地の自然や風俗をとらえた紀行文の傑作も多い。ハーンといえば松江、熊本と移り住み、東京を終の住処としたことが知られているが、『神戸クロニクル』と契約したのを機に短期間ながら関西にいたことがあり、その時期に京都を訪ねたようだ。
ところで、博覧会の入場料にも言及せねばなるまい。たったの五銭なのである。そして、こんな低額でも収入は相当な額になると見込まれるほど入場者の数が多い。連日大勢のお百姓が京都の町に、それも巡礼の旅でもするようにほとんどが徒歩で、続々とやってくる。実際、多くの者にとってこの旅は巡礼に他ならない。というのは、真宗最大のお寺の落成式があるからなのだ **。
記述からは、各地から博覧会を見物に多くの人々がやってきたことがわかる(しかも徒歩で!)。じっさい、3ヶ月間の入場者は113万6千人を超える大盛況だった。当時の京都の人口34万人のじつに4倍にも当たる人数だ。出品数は16万9千点に上り、その内訳は工業製品、芸術工芸品、食品など……。
國雄行によれば、時期的には日清戦争終盤から終結直後にあたったこの博覧会では最新機器の出品も少なく、成功回とは見做されなかった。それでも、京都が観光志向を打ち出していく絶好の機会とはなったという。
それはともかく、京都初のパン屋・西洋軒はここで自家製のパン、そしてビスケットを出品する。この時、総裁の小松宮彰仁親王よりビスケットが褒賞を受け、菊の紋章を店の看板に掲げることを許された。
後続のパン屋と坂本の地にひき継がれた西洋軒
その後、創業者・中井栄三郎はビスケット製造のため回転式トンネル窯を開発し、国内だけでなく、遠くウラジオストクにも販売網を広げる。京都市内に15店舗、病院や学校にも納入した。日露戦争時に捕虜から学び、ロシア風の黒パンを製造したことは前回も書いた通り。大正、昭和を通して京都の町のパン屋として栄え、湯川秀樹博士お気に入りの店でもあったという。
大正時代に入ると、京都の町にもパン屋の数が増えてゆく。1970年に発刊された『パンの明治百年史』の「明治・大正期の老舗明細表」には、当時まで残っていた京都のパン屋として、明治15年創業の西洋軒を筆頭に日丁堂・丸善(明治30年創業、以下年号は創業年)、銀座堂(明治37年)、進々堂(大正2年)、木村屋(大正3年)、木村屋・高松パン(宇治市、大正5年)、京屋(大正6年)、山一パン(大正7年)、荒川養老堂(福知山市、大正10年)、天狗堂(大正11年)、タキノパン(大正12年)、西脇製パン(亀岡市、大正13年)、神戸ドンバル京都支店(大正14年)が挙げられている。進々堂、山一パン、タキノパンなどいくつかのパン屋は今なお健在なのが頼もしい。名前が見当たらないが大正製パン所なども100年近く続いているはずだ。
京都の西洋軒は今は存在しないが、比叡山東麓の坂本に別の西洋軒があることを知った。筆者が参照している『パンの明治百年史』に滋賀県の老舗パン屋として紹介されており、京都・西洋軒から技術をひき継いだことが記されている。1923(大正12)年、山岡延治郎が創業。昨年創業百年を迎えた。詳しいいきさつは不明ながら、京都・西洋軒ももとは近江出身であり、こちらの店ともかつて繋がりがあったとの話を聞いた。
坂本は小さな町だが、延暦寺、日吉大社の門前町だけあって風情があり、パン屋の店舗も瓦屋根に白壁の建物が落ち着いた印象だ。この店に30年以上勤める溝江さんによれば、長年地域で給食パンを提供してきた店だという。小売の方でも、近江牛カレーパンなど地元ならではのパンが揃う。坂本といえば、安土桃山時代の石工集団・穴太衆(あのうしゅう)が築いた伝統的な石積みの残る町として有名。西洋軒ではこれを模した「石積みのパン」をご当地パンとし販売している。
大正期以降の立役者、進々堂
ところで、明治半ばから大正を通してパンを焼くのに使われていたパン種といえば、ホップス種、南京種、酒種といった自家製の酵母で、先に挙げた京都最初期のパン屋はどこもこの手法でパンを焼いていた。より発酵力と安定性のあるイーストへの転換期は昭和に入ってから。京都でその立役者となったのは、現在も老舗として存続する進々堂である。
日本におけるフランスパンの嚆矢は東京育ちの筆者も長年馴染みのある関口フランスパンだが、進々堂創業者の続木斉は京都の町に初めてフランスパンを広めた人物として知られている。大正初期に兄から譲り受けてパン製造業を始めた続木は、1924(大正13)年フランスに留学。内村鑑三に学んだクリスチャンであり、またもとよりフランス文化にも造詣が深かった。フランスではパリを拠点にパンの理論と実践を学んだという。2年の留学を終え帰国したのちは、ドイツから抽出窯、アメリカからコンプレスト・イーストを取り寄せて、フランスパンの製造を開始した。
昭和に入ると、京大の北門前に一軒のカフェをオープンさせる。学生たちのために本物のパンとコーヒーを、との願いから作ったもので、煉瓦造りのハイカラな建物は当時としては周囲に驚きを与えた。家庭で消費するためのパン作りだけでなく、町の中でも食べられるように場作りまで構想したというわけだ。その名は「ノートル・パン・コティディアン」Notre pain quotidien=我らが日々の糧。百年近く経った今もこの店舗はカフェとしての営業を続け、古めかしい字体で書かれたマタイ書からの引用を掲げて、学生たちの憩いの場となり続けている。
(注)
*以下、第4回内国勧業博覧会に関する詳細は國雄行『博覧会と明治の日本國』(2010年)などに依る。
**小泉八雲「旅の日記から 4.4月19-20日京都にて」『日本の心』平川祐弘編、講談社学術文庫、1990年、104-108頁。
参考文献
安達巌編『パンの明治百年史』pdf版、パンの明治百年史刊行会、1970年。
荒金喜義『京都史話—近代化うら話』、創元社、1971年。
小泉八雲『日本の心』平川祐弘編、講談社学術文庫、1990年。
國雄行『博覧会の時代 明治政府の博覧会政策』岩田書院、2005年
−−『博覧会と明治の日本』吉村弘文館、2010年。
「進々堂ホームページ 進々堂の歴史」https://www.shinshindo.jp/history/history.html
(2024年1月11日検索)。
「京都市歴史資料館・情報提供システム フィールド・ミュージアム京都」
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi29.html
(2024年1月10日検索)
(写真・文:大辻 都)
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大辻 都Miyako Otsuji
京都芸術大学教授。専門はフランス語圏文学。現在は通信教育部でアートライティングコースを担当している。
主な著書に『渡りの文学』(法政大学出版局、2013年)、訳書にドミニク・レステル『肉食の哲学』(左右社、2020年)、マリーズ・コンデ『料理と人生』(左右社、2023年)などがある。