COLUMN2023.11.01

京都

パンの都 -パン愛がとまらない町、京都のいま昔 #1

edited by
  • 大辻 都

京都といえば平安時代に遡る日本の古都。寺社仏閣から茶の湯、舞まで有形無形を含めた歴史遺産に事欠かないが、パンの町でもあることはご存知だろうか?そう、食パンやクロワッサン、バゲットなどのあのパンである。             毎年データとして出される全国都道府県別世帯あたりのパン消費量でも頻繁に1位となるのが京都府だ。日本のどこより伝統文化に根ざすこの町で、海の向こうから来たはずのパンがなぜこれほど活況を呈してきたのだろう。

盛況だった時代の西洋軒

筆者が東京から京都に来て11年になる。自慢するほどパン好きというわけでもなかったのだが(お米も麺も好きなので)、日々過ごす今出川通界隈でお気に入りのパン屋がいくつかできた。噂に聞いた別の地域のパン屋に出向くと、その界隈にも多数のパン屋が。京都市の地図を描けば、美味しいパン屋集中地帯を何箇所も印づけられることに気づく。

食べ比べ、足を伸ばしたパン屋の数は数十軒にはのぼった。だが訪れる価値のある個性的なパン屋はそれどころの数ではないように感じている。京都はいつからこれほどパン好きな町になったのか。現存するパン屋で誰もが親しんでいる名店といえば、進々堂や志津屋あたりを思い浮かべる人が多いだろう。

さて筆者の場合、もともと母方が京都の商家出身のため、個人的な関心から自身のルーツを調べていたところ、偶然にもパンの歴史に行き当たった。
日本人のパンとの出会いは戦国時代、南蛮人による鉄砲伝来まで遡り、織田信長を通じて近江、京都に紹介されるが、ここは現在に連なる近代史から話を始めたい。京都の町に最初のパン屋ができたのは明治半ば。その少し後、パンという食べ物を市井の民に広く知らせるのに大きな役割を果たしたのが、明治28(1895)年、岡崎公園にて大規模に開催された内国勧業博覧会だった。

この連載では、そうした歴史的背景をたどると同時に、京都人に愛されるパン屋が次々生まれ、各々の個性で互いにしのぎを削りながらますます進化を続けている現在の状況を書きとめようと思う。まず第1回は、京都のパン屋1号店で昭和の中頃まで愛されていた「西洋軒製パン所」(のち「ゴールド西洋軒」、以下「西洋軒」と表記)の話から始めてみたい。

京都初のパン屋「西洋軒」

「いやぁ、大きなカステイラやこと」「まあー大きな麩やなあー」
明治25(1892年)、京都で最初に誕生したパン屋で焼かれた食パンを見た町の人々はそんな感想を口にしたという *。

場所は上京区天性寺前町、現在の住所表示では中京区寺町三条上ル。三条商店街のただなか、現在ではマザーハウス、ルピシアといった新しいブティックと、すき焼きの三嶋亭、甘味の梅園、扇子の白竹堂、スマートコーヒーといった老舗が入り混じる一角である。

創業者・中井栄三郎は延暦寺の寺領を管理していた近江の旧家の長男だったが、文明開化の波にじっとしていられず東京に出て食パンや菓子パンの製造を学び、京都店を開く10年ほど前、小石川・伝通院に「近江屋」を開業した。石造りのパン窯も考案し、この店が大成功したのち関西に戻り、故郷に近い京都に「西洋軒」を出店したのである。

現在の三条寺町界隈

日本はまだまだパンの黎明期。東京は別として、関西でパンといえば海外への玄関口・神戸がリードしていた。栄三郎が京都で店を開いた同じ年、神戸ではフランス人ドンバルによるフランスパンの店もオープンしている。

ところが京の町の人々は、初めて見るパンに驚きはしても飛びつきはせず、売れ行きはさっぱりだった。東京の店では50人の職人を使い日に3000本売れた食パンも、当初、京都では15本程度という落差。そのため栄三郎はパンだけでなく、当時重焼パンとも呼ばれたビスケットも商品に加え、「主人謹んで白(もう)す」として次のような宣伝文を配布した。

食麺麭製菓子の広告 抑抑弊店に於いて発売する処の食麺麭菓子は、最上の舶来併皇国産の小麦粉に精良の砂糖を加へて製せし品なれば、ただに身体に害なきのみならず、胃部に納りて消化し易く、大いに滋養の効あることは、従来御用の諸君の方々御了知ある所ならん。

つまり、パンも菓子も食べると消化が良くなり、滋養に富む健康食品だと強調したのである。ことに食パンを摂ることの効用についてはこのように記している。

舶来上等小麦粉製一ポンド価六銭、皇国産、同三銭五厘、此品は平素身体の労働の少き人、常に肉食の多き人、又は胃腸、肺疾等の患者、一日に一食或いは常食とすれば消化を速かにし、薬効を全からしむ。一[パン]は身体の健康を保ち一は多年の病患を医す。その効も亦偉大なり。

1ポンドは450グラムぐらい。その重さのパン1本の値段が、輸入小麦製だと6銭、国産小麦だと3銭5厘という当時の物価も知ることができる。輸入小麦の方が上等でありがたいというのも現在の感覚とは違っている。味の方は知るべくもないが、イーストや乳製品を使うのはまだ先の時代であり、当時のパンといえばどこも塩味が勝ったシンプルなものだったようだ。

日露戦争とロシアパンブーム

時代背景としては、明治維新後、欧米列強と肩を並べようと日本が世界に挑み出ていった時期。日清戦争で勝利を収めたのち、北清事変、日露戦争と次々兵を進めていた。進軍する兵士にも当然食事は不可欠だ。当初、野営地では米の煮炊きがされていたが、それでは立ち上る煙で敵方に見つかってしまう。ビスケットと軍用パンは煮炊きの必要がないものとして、この時期に導入され、それが民間のパン食普及に大きく影響したという。

西洋軒を創業した中井栄三郎

さらに日露戦争で勝利をおさめた後、敵であったロシアのパンが日本中で大流行したというのだから驚きだ。当時、8万人にのぼったロシア人捕虜は全国各地にふり分けられ、宿舎となった寺では、上官には白パン、下士官には黒パンと、日本人が見よう見まねで作ったロシアパンが配給された。だが、ロシア人捕虜からの評判芳しくなく、結局捕虜たち自らパン作りの指導にあたったという何とも長閑な話が残っている。

京都近郊では東福寺と大津市内に捕虜たちが収容されていた。この時給食を担当したのが先に紹介した西洋軒だ。この頃には、京都の町のパン屋として確固たる地盤を築いていたらしい。西洋軒の主人もまた、ロシア兵から指南を受けてパンを焼いた。ロシア兵仕込みのロシアパンは全粒粉で作った大型の直焼きパンだったとか。美味しそうに感じるが、実際はどんなだったのか、味わってみたいものだ。

パン屋から土産屋へ、そして…

京都におけるパン屋の草分け、西洋軒。かつて京都近郊に15の支店を持ち、JR二条駅近くに大規模な工場ラインを構えてもいたが、残念ながら1970(昭和45)年頃に廃業している。だが今もパン屋営業当時の建物は残っており、1階の物販スペース、2階の喫茶部、地階の工房という往年の姿はそこはかとなく窺える。

焼きたてのパンとコーヒーの匂い、生地を捏ねる職人たち、レジ前に並ぶ人々……。かつては祇園祭の鉾巡行の順路でもあり、喫茶部の窓から手を伸ばして粽(ちまき)を受け取ることもできたという。この記事でも大いに参照させてもらっている荒金喜善(かつての京都新聞編集委員)が作詞し、水前寺清子が歌うコマーシャルソングまで流れていたらしい。昭和半ばまでの店の盛況ぶりが想像の中で蘇ってくる。

現在の西洋軒本店跡地。かつての建物そのままであることがわかる。

創業一家はパン屋から土産屋に商売替えしていた。初代・栄三郎の息子たちはそれぞれ店を構えたが、本家が廃業したのち、分家が跡を継いだという。かつて西洋軒の分店だったという新京極の店舗で土産物店「京のふるさと」を切り盛りする西澤摩耶さんに話を聞いた。現在は90代のお祖母様、70代のお母様、40代の摩耶さんの女性3世代で暮らしている。

お祖母様である美智子さんは栄三郎の次男・銀次郎とその妻ことの娘さん。銀次郎さんが早くに亡くなった後、パン屋と並行して土産物が売られるようになっていったそうだ。

「パンの横にまずは八ッ橋が置かれ、次には清水焼が置かれ……」

美智子さんは、大恋愛の末に婿養子として美治さんを迎えたが、美治さんが職人というよりは販売志向だったこともあり、店は完全に土産屋に姿を変えた。そして、京土産を売るには名前がそぐわないからと、ついに「西洋軒」の看板は降ろされることになる。

在りし日の西洋軒パンカタログ。アンジェリカ入りの可愛いパンの他、ニューバード 、オーションロールなど、昭和の京都パンならではのラインナップも見られる。

「もったいない。またパン屋を始めてみようとは考えませんか?」

土産屋だけでなく新京極商店街の理事としても活躍する摩耶さんに無責任にもそんなことを尋ねたのは、彼女がものづくりをする人でもあるからだ。大学ではガラス工芸に挑み、フランスに5年滞在して空間デザインを学んでいたそうだ。

「じつはパンを作っている友人に協力してもらって、西洋軒のパンの復刻版を出してみようかというアイディアもあるんです」

やはりそうきたか。

パン屋営業時代のカタログを見せてもらうと、食パンはもちろん、京都ではおなじみだったニューバードやオーションロール、そして三つ編みパンやひまわりをかたどったパンなど、見た目にも可愛らしいパンが並ぶ。当時流行りのグリーンや赤のアンジェリカをあしらったパンは宝石のようで、筆者を含めた昭和の子どもの憧れだった。

かつてパンの横に土産物が置かれていったのと逆の流れで、近い将来、土産物の横にレトロなパンが並ぶ日がやってきたら面白い。

*次回では、明治期の内国勧業博覧会と京都のパンの関係について掘り下げていきます。

かつては西洋軒分店だった土産屋で働く西澤さん。新京極の店には外国人観光客が絶えない。

*安達巌編『パンの明治百年史』、781頁。

以下、西洋軒の歴史や時代背景については本書のうち、主に第3編、第4編、第9編(沿革 近畿地方のパン)の記述、また荒金喜義『京都史話—近代化うら話』「京都のパンの元祖・西洋軒」(24-28頁)を参照している。

参考文献
安達巌編『パンの明治百年史』pdf版、パンの明治百年史刊行会、1970年。
荒金喜義『京都史話—近代化うら話』、創元社、1971年。

 

Plus one
西澤さんに現在の京都の町でお気に入りのパン屋を聞いてみたところ、挙げていただいたのが「チェルキオ」。京大正門斜め前にあるお店を訪ねると、大学生など近隣のお客さんがひっきりなしに出入りしていた。南禅寺の名店「京豆腐 服部」の味の濃いお豆腐をつなぎとして贅沢に使ったパンはしっとり優しい味わいだ。アレルギーを持つご自身のお子さんのため、店主の福井さん自ら考案したという。豆腐入りのパンは、メロンパン、マフィン、ロールパン、フォカッチャと種類もさまざま。お昼時は京都府立医大付属病院地下の売店でも買えるとのこと。

メロンパン、マフィン、ベーグルと豆腐を使ったパンがずらりと並ぶ。

チェルキオ (Cerchio)
住所 京都府京都市左京区吉田二本松町54-3
営業時間8:00~19:00
定休日 土曜日、日曜日、祝日

(写真・文:大辻 都)

 

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  • 大辻 都Miyako Otsuji

    京都芸術大学教授。専門はフランス語圏文学。現在は通信教育部でアートライティングコースを担当している。
    主な著書に『渡りの文学』(法政大学出版局、2013年)、訳書にドミニク・レステル『肉食の哲学』(左右社、2020年)、マリーズ・コンデ『料理と人生』(左右社、2023年)などがある。

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