
京都芸術大学 文芸表現学科 社会実装科目「文芸と社会Ⅴ」は、学生が視て経験した活動や作品をWebマガジン「瓜生通信」に大学広報記事として執筆するエディター・ライターの授業です。
本授業を受講した学生による記事を「文芸表現学科の学生が届ける瓜生通信」と題し、みなさまにお届けします。
(取材・文:文芸表現学科 3年 靏田彩花)
京都芸術大学の瓜生山キャンパスは、その名の通り、瓜生山の斜面に建てられている。
その大学と関わり深い瓜生山の歴史や伝説などについて調べ、瓜生山と大学の関係についても探った。そして、実際に瓜生山へ登り、山の歴史・伝説と縁深い場所を巡った。
瓜生山とは
まず瓜生山とは、京都府京都市左京区にある山だ。標高は301メートルである。低山であるので、登頂するのに時間はあまりかからない。
だが、道中は、登りやすいところばかりではなく、険しいところもある。比叡山から稲荷山まである東山三十六峰のひとつに数えられている歴史ある山だ。
山の名前の由来には、牛頭天王(ごずてんのう)が関係する。牛頭天王は、京都祇園にある八坂神社の主祭神である。
現在の兵庫県南部である播磨国から今の祇園社に移し祀られる前に、この山にしばらく鎮座されたという。そこで、牛頭天王が胡瓜(きゅうり)が好きだった故事から瓜生山と付けられたのだそう。
瓜生山の簡単な情報がわかったところで、瓜生山の歴史・伝説と関係深い場所を歩いていく。
北白川大山祇神社
瓜生山には、山の神霊を祀る神社がある。北白川大山祇神社だ。主神は龍神だという。
その昔、湖底だった京都府南部の山城盆地の初めの先住者が、都市周辺で集団生活をしていた。そして、山に親しんだ。後に祠を建て、山の主神に平穏無事を祈ったそう。
それから、山に戦火が及び混乱が続くと、祠はなくなってしまい、山も荒れた。昭和4年になると、ご神託を受け、現在の地龍大明神の社が創建された。また、大山祇神社の分社となる。
そうして、山の神々を合祀(ごうし)した。5月3日を山の祭日とされ、11月3日を祭日と定めたという。
神社は山へ登る入口付近にある。苔むした石燈籠があった。木々で薄暗いが程よく日が射していた。すぐそばには小川が流れている。透明度が高く非常にきれいだ。棲んでいる生物の鳴き声も聞こえる。
石で作られた鳥居が二つあり、その奥に祠がある。居心地のよい空間だった。瓜生山に登る際は、まずはここを参拝してみるといいかもしれない。
仙人伝説と夜船閑話
京都府の白河の山中には、かつて仙人が住んでいたという話がある。その名前は、白幽子(はくゆうし)という。例としては、「180歳以上の長寿であった」というものや「天文学や医道に詳しかった」などの話がある。
その話が出たきっかけには、『夜船閑話(やせんかんわ)』という物語があるとされる。『夜船閑話』は、白隠(はくいん)禅師が書いた話だ。
あらすじとしては、禅病に苦しんだ若き白隠が、白河の山中で生活する仙人と噂される白幽子を尋ねる。そこで、内観法(ないかんほう)や輭蘇(なんそ)の法というものを教授される。それを行い、病を治すことができたというもの。
その話に登場する白幽子は実在した人物であるとされる。実際の白幽子も隠士という、俗世を離れて生活していた人であったという。そのため、仙人の話が流れたのだろう。
しかし、『夜船閑話』内の白幽子に関する記述と実際の白幽子では、つじつまのあわない部分があるらしい。そのことから、『夜船閑話』は創作された物語なのか実話がもとなのかは判断できない。
瓜生山の頂上を目指す道中にある白幽子が生活したとされる跡に行く。そこは、少し開けた場所で、石碑が建てられていた。「白幽子巖居之蹟」と書かれている。
白幽子が本当に仙人であったかは確かではない。だが、それも踏まえても『夜船閑話』の聖地であることは言える。石碑前に立って、その居を想像するのもいいだろう。
北白川城跡
かつて、瓜生山山頂を本丸として築かれた城があった。戦国時代、細川高国が創建したという。山城と呼ばれる形式だ。
城は、現在の滋賀県から京都府へと入る際の前衛基地としての役割を持っていた。何度も戦の場となっていて、焼失と再建が幾数回も行われた。数々の武士が利用している。
足利義輝や明智光秀などが駐在していたことがあるという。
現在の頂上には、修験道の寺院である狸谷山不動院の奥の院がある。朱色と白色の年期の入ったお堂だ。開けた場所にポツンとある。木に囲まれたその様子は物語の1ページのようである。その昔は、この場所に城があったのだ。平穏で静かな現在の状況からは、想像しがたい。それでも、戦場となったのだろう。
大学と瓜生山
瓜生山の歴史・伝説を感じることができたと思う。すると改めて、なぜ大学が「瓜生山」の歴史に加わることになったのか疑問が湧く。大学は「瓜生山」でなければならなかったのだろうか。それを調べるため、大学創設者である徳山詳直前理事長と瓜生山の関係にも迫っていく。
学生運動が現在より頻繁に行われていた時代。当時20歳の徳山前理事長は、戦後間もない京都で、朝鮮戦争に関する抗議運動に参加して、警察に拘束された。その獄中で母に差し入れされた、奈良本辰也著の『吉田松陰』を読んで、感激した。その本が、人生を決めたそうだ。吉田松陰の思想やその生き方が印象的だったのかもしれない。
釈放後、同じくその抗議運動に参加していた仲間からはある山で、拘束されていた間に何を聞かれたのかなど査問を受けた。査問が終わった後、考え事があると言い、そのまま一人山に泊まり、夜を明かした。
そして、明朝に目を覚まし京の街並みを眺めて、その美しさに感動した。そのとき、仲間には内緒で、この山に学校を建てようと思ったという。現在の山口県萩市にあたる松本村で、松下村塾を運営していた松陰のように。そう考えた山というのが瓜生山である。そういった経緯から瓜生山にこだわりを持っていたのだろう。
登っている道中に、街を見下ろすことのできる場所があった。時代と場所は違えども、このような景色を見て、大学を建てられたのだろう。昼の空が映え、どこか爽快感がある。汗もすぐに乾いていくような涼しさだ。
瓜生山の霊と直心塔
徳山前理事長の瓜生山と大学への想いが表された物もある。
徳山前理事長は本学を建てるために、瓜生山を購入、整理をしていた。すると、何百という石碑が並んでいた。北白川城跡の話から想像できるとおり、瓜生山は多くの命が散っていった場所だった。徳山前理事長は、そのような山の霊を慰めたいと思い、直心塔という供養塔を建てられた。
そうすることで、ここへ集まってくる若者がきっと幸せになるとも信じていた。その気持ちから、直心塔を大事にしておられた。ご自身が亡くなった後は、そこに骨を入れてもらおうと遺言したほどである。
直心塔は、京都芸術大学敷地内、未来館手前の階段を登っていくとある。穏やかに太陽の光を浴びる石造りの塔だ。上になるにつれ小さくなっている13個もの石材が重なっている。塔の前には、お供え物らしきものがあった。
立方体のようになっている土台部分には文字が彫られている。ある一面には「創設者徳川詳直ここに眠る」というもの。その反対の面には「直心」が「詳直書」という文字とともにある。瓜生山と大学の歴史が感じられるような場所だ。
瓜生山には様々な歴史・伝説がある。どこか気になる場所があった人はぜひ足を運んでみてほしい。山を登るのは大変という人でも、京都芸術大学の施設を利用すると、簡単に見晴らしのいい京都の街を眺めることができる。
また、地元にある山、通勤・通学途中で見る山なども、調べてみると、意外な発見ができるかもしれない。そこから実際に、自分の目で確かめてみるのも面白いだろう。
参考書籍
徳山詳直著 『藝術立国』 幻冬舎 2012年刊行
伊豆山格堂著 『白隠禅師 夜船閑話』 春秋社 1983年刊行
八坂神社編 『八坂神社』 学生社 1997年刊行
福島克彦著 『戦争の日本史11 畿内・近国の戦国合戦』 吉川弘文館 2009年刊行
児玉・坪井共監修 平井聖編他 『日本城郭大系 11 京都・滋賀・福井』 新人物往来社 1980年刊行
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