須賀神社の懸想文売(けそうぶみうり)と節分の和菓子 お多福 - 紫野源水 お多福 薯蕷饅頭と豆入り落雁-[京の暮らしと和菓子 #36]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
節分とは、旧暦の立春正月の考え方から、立春前夜を「節を分ける日」とするものです。その行事は、まさに大晦日に通ずるもので、旧年の厄を祓い、新たな年の幸せを願うものです。
昨年の節分は、新型コロナの影響で京都の多くの寺社でも大幅な縮小が行われました。そして今年の節分は、新型コロナに対する感染対策に気を遣いながら、昨年よりは従来の内容を一部回復して行われたところもありました。
以前に取り上げました壬生寺での壬生狂言は、回数を減らしながらも上演され、吉田神社では露店も出店していましたし、千本釈迦堂では、豆撒きも行われました。
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とはいえ、元どおりとは程遠い状況であることは否めません。人出はやはりかなり少なめであったと言えましょう。
今回、ご紹介します須賀神社も、豆撒きなどの諸行事は実施されませんでした。しかし、この神社の節分祭に欠かすことができない「懸想文売」は、今年もその姿を見ることができました。
須賀神社は、昨年の本コラムで節分行事を取り上げました聖護院のすぐ斜め向かいに位置する神社で、一昨年、昨年にも取材をさせていただきました。本格的なコロナ禍前の賑わいの様子も合わせて、ご紹介したいと思います。
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1.須賀神社の歴史
現在、須賀神社は聖護院円頓美町において、交通神社と同社内にお祀りされており、二社の御祭神は以下のようになります。
須賀神社
建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)
櫛稲荷田比賣命(くしいなだひめのみこと)
交通神社
八衢比古命(やちまたひこのみこと)
八衢比賣命(やちまたひめのみこと)
久那斗之神(くなどのかみ)
この地で二社が営まれるようになりましたのは、じつは近現代以降のことであり、その由緒は、古く平安時代に遡るといわれます。
平安時代、貞観11年(869)に播磨国の広峯社からスサノヲの神(天王神、のちに牛頭(ごず)天王)を迎えて創立した西天王社がその創始と伝えられます。
同年には、東天王社(現・岡崎神社で東天王町に所在)も、同様に広峯社から天王神が勧請されたといい、東西に一対の天王社が隣接して祀られたことがわかります。
貞観年間は、全国各地で災害が続いており、当時、災厄や疫病などは怨霊によってもたらされるものと考えられていました。これをおさめるために行われたのが御霊会なのですが、そうしたなかで、インドの祇園精舎の守護神或いは異国神ともされる牛頭天王が、疫神などを鎮圧すると信じられ祀られるようになったと考えられます。その代表的なもののひとつが祇園御霊会であり、今日の祇園祭にもつながるものです。
また当初の鎮座地は、現在の平安神宮内であったと考えられ、平安神宮の住所表示は、西天王町でその由緒を伝えています。また、平安神宮の蒼龍楼付近には、西天王塚とされる塚が残されています。
平安時代末の永治元年(1141)、鳥羽上皇の皇后、美福門院が白川の地に歓喜光院を創建したのですが、この所在地が現在の平安神宮に隣接する現京都市武道センター付近であったとされます。
これを機に西天王社は、歓喜光院の鎮守社となったのでした。
歓喜光院は多くの所領を有していましたが、他の美福門院領や鳥羽院領とともに、鳥羽院と美福門院の皇女である八条院暲子(しょうし)内親王が引き継ぎました。この膨大な「八条院領」は、その後数代を経て亀山天皇系の大覚寺統の重要な経済基盤となります。
これを受け継いだのが後醍醐天皇ですが、まさに鎌倉幕府との騒乱で、歓喜光院は罹災し、西天王社も後醍醐天皇によって北に位置する吉田山に遷され、延元元年(1336)同じく後醍醐天皇の命によってその地に社殿が造営されました。現在の吉田神社内の菓祖神社あたりがその地とされます。
それ以来、西天王社は吉田神社内に祀られて、祭儀の際には、聖護院の御旅所で祭りが行われることが続きました。その御旅所が、現在の須賀神社の地であったとされます。
天和2年(1682)の『雍州府志』には、
「六月十五日に祭有り、同じく十日に御出と謂ふ、あらかじめ南北聖護院両村中間の地に、杉葉を持って仮宮を構へ、斯の前に神輿を安んじ、供物を献ず。然して又本山に入る。此の旅所の地を官位記と称すと。その謂を知らざるなり」
とあり、
元禄15年(1702)の『山州名跡志』には、
「旧跡聖護院社東二町ばかりなり、土人官下また官位喜と称す。古老云く此の所歓喜光院地なりと」
と、西天王社の御旅所の場所とそこがなぜか「かんいき」と称されていたことを伝えています。よくわかりませんが「かんぎこういん」から来た名称だったのでしょうか?
近代には神仏分離令によって、各社では神仏習合によるとされる牛頭天王の信仰を維持することができなくなります。牛頭天王信仰で知られる祇園社は八坂神社となり、祭神名を牛頭天王と同体と考えられた素戔嗚尊(すさのをのみこと)に改めました。
西天王社も、この期に主祭神名を建速須佐之男命(たけはやすさのをのみこと)として、また社名も須賀神社と改められたのでした。
そして大正13年(1924)、吉田山の社地から、現在地に遷られて今日に至るのですが、それには聖護院村の人々の強い思いがあったと言われます。聖護院村の住民らが産土神と崇めてきた神社が、吉田山という別の地域にあって、聖護院では御旅所の祭祀しか営まれないことに異を唱えてきた住民らは、氏神の環座を願い出ていたのでした。その思いが叶い、御旅所のあった地に社殿が建立されて、環座が実現したのですが、当時官幣中社であった吉田神社内から、お社が独立するということは、かなり異例のことでもあったと言います。
社殿前には、その思いを表すように大きく記された「聖護院町氏神」の石碑が建てられています。
なお、疫病が往来と関係することから創期より祀られてきた往来の守護神や境界の守護神であった祭神を、昭和39年(1964)に分祀して独立させ、新たに交通神社が成ったのでした。
2.懸想文売り
懸想文ひさぐ烏帽子の男ぶり 荒井書子
須賀神社の節分の行事として知られるようになった「懸想文」ですが、じつは、江戸時代には、正月に縁起の良いお札として、京都の町で売り歩かれたものでした。
江戸時代の懸想文は、洗い米二、三粒を包んだ紙、または花の枝につけた紙に、恋文に似せて縁起を祝う文が書いてあるもので、縁談、商売繁昌などの願いをかなえるものとされたことが、『曾呂利狂歌咄』〔1672〕に詳しく書かれています。
同書には、
「往昔正月元日の朝より十五日まで、年毎に懸想文とて売りけり。赤き布衣(ほい)に袴の裙(そば)高く取り、猶(なお)それより前には烏帽子を着せりとかや。中頃は編笠かぶり覆面して、都の町々を売りけり」
と、懸想文売の姿を記しています。布衣とは麻布製の狩衣のことです。
しかし、こうした習俗はいつしかすっかり姿を消してしまったのですが、これが須賀神社で復興されたのは、昭和22年(1947)頃のことであったと言われます。
懸想文売るとて包む面深く 松本三余
懸想文売の目許にいざなはれ 稲畑汀子
現在の須賀神社の懸想文売は、黄色の水干を着用し、烏帽子に覆面姿という出で立ちです。これは、当時画家であり風俗研究でも知られた吉川観方の監修によってなったということです。懸想文の結び文がつけられた梅の枝を肩に掲げ、参拝者に懸想文を売ります。
昨年からは、新型コロナ感染予防のため、懸想文売から直接現金で買うのではなく、先に引換券を購入して引き換えるという方法がとられています。
肩にさしかけた梅の枝には、その御利益を説く短冊がつけられています。
「この文を求めて鏡台や箪笥の引き出しに人に知られないように入れておくと、顔かたちが良くなり着物がふえて良縁があると言はれております」
とあります。
思い出しました。初めて節分祭の須賀神社にお参りし、懸想文を求めた20代の頃、夜のかがり火で懸想文売の独特の出で立ちが、いっそう近寄り難いものに思え、また懸想文、恋文というものにも気恥ずかしさを感じ、少しドキドキしながら、買い求めたことを。
そして縁結びのお守りとしての「懸想文」に、この御利益を念じて、文を開くこともなく箪笥にしまいこんだことを。
そんな初々しい年頃は、遠い思い出。今となっては、その懸想文の文言に興味津々で、毎年変わる文の中身を確かめようと、早速に披いてみました。
皓々(こうこう)と月影白く凍てつきて 雪に銷(とざ)さる
山深く 鳥も通わぬ峰々に 春の兆しの
風かよひ 雪間の草に 陽のひかり
微(かす)かに流る雪解けに 岩間さやかに
水の音 せせらぎ清く 彼方此方(おちこち)の
流れ集めて渓(たに)下り 勢い猛く瀧つ瀬の
悪しきもの皆流し去り 悠々閑々澄み
渡り 春の野原を潤して 恵もたらす
この年は 壬寅(みずのえとら)の良き歳ぞ 忍ぶ思ひも
叶う年 希望の光見ゆる年 都大路も
華やかに 人々行き交ふ賑ひに 耐へし
月日は過ぎ去るか 明日よりは春立ち
返る節分に 今ぞ詣でむ須賀の御社
梅が香薫る神の庭 疫病鎮護の願ひ受け
祭り初(そ)めしは 平安の京の都の昔より
祈る星霜 重ね来て 千歳百歳(ちとせももとせ)余りあり
鈴の音高く柏手(かしわで)に 願ふは 二人の幸(さいわい)を
文にぞ懸けて 拝み奉らむ
かへし
彼方より 千里の道を 駆け抜けて
君に告げなむ 春の兆しを
壬寅の初春 千牛より
寅治朗(とらじろう)さま
まいる
今年の懸想文は、コロナ禍で苦しい日々を送った年を終え、新たな年がコロナ収束の良き年となることを、西天王社に始まる疫病退散の祈りの歴史を交えて作られた願文となっていました。
そして、これはお決まりなのですが、懸想文を記すのは旧年の干支に因んだ名前の女性で、送る相手は新年の干支に因んだ名前の男性へとなっています。
旧年から新年への想いを綴る懸想文です。
3.節分の和菓子 福呼ぶお多福
懸想文をしたためるのは女。壬生狂言で鬼をやり込めるのも女主人。
「福は内、福は内、鬼は外」
そうなのです節分にちなんで作られる定番の和菓子のひとつは、鬼ではなくて女の顔、福の象徴「お多福」なのです。お多福を大多福と書くこともあり、字のごとく新年の福や多幸を願ってのお菓子といえます。
今回、ご紹介するのは紫野源水さんの二種のお多福です。
まずは薯蕷(じょうよ)饅頭から。
なんと愛らしいお多福でしょう。紫野源水さんらしい、どこまで抽象化できるかのギリギリの造形でお多福が表されます。ふくよかでしかも綺麗に象られた三つの丸い山形に、ほんのり紅をさしたような赤み、それに焼印で表された髪のきわ。なるほどお多福の顔に違いありません。
切ってみると、中から薄紅色の餡が出てきました。白小豆を使った餡を染めたものですが、薯蕷の皮の裏側にも同じ薄紅色の薯蕷が仕込まれていたのです。あのうっすらと透けるような紅色が出ていたのは、白い薯蕷の皮を透かして見えるこの仕掛けによるものでした。細心の技に支えられた繊細な作りに脱帽してしまいます。
口に入れると、つくね芋を使った皮は、ふくよかな薯(いも)の香りとしっとりとして弾力のある質感で、上品な餡の甘みと混じり合います。薯蕷饅頭が大好きな私ですが、改めて口福を感じるお菓子でした。
そして、お多福の木型で抜いた落雁の干菓子には、煎って砕いた大豆がたっぷり入っています。額と頬がふっくらと突き出て低い鼻におちょぼ口。媚びないけれど愛嬌のある面相は、誰しもが親しみを覚えます。
ポリっといただくと、香ばしい大豆の香りが際立つ独特の食感と深い味わいです。誠に節分にふさわしいお干菓子といえましょう。
人々の祈りが、一日も早いコロナの収束を叶え、新たな希望の日々が開けますように、今年はいっそう強く招福の願いを込めた節分でありました。
紫野源水
住所 | 京都府京都市北区小山西大野町78−1 |
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電話番号 | 075-451-8857 |
営業時間 | 10:00〜18:00 |
定休日 | 日曜、祝日 |
価格 | 薯蕷饅頭 お多福 1個486円(税込) ※1月下旬から節分まで 豆落雁 お多福 1個118円(税込) ※年中あります 8個(箱入り)1,040円(税込) ※年中あります |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。