REVIEW2021.05.22

次の10年に向けた、キュラトリアルなコラボレーションによる新しい形「For the next decade ― 少し未来の芸術の未来」展

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  • 京都芸術大学 広報課

キュレーションとコラボレーションの融合

2021年5月10日から20日まで、ギャルリ・オーブで「For the next decade ― 少し未来の芸術の未来」展が開催された。この展覧会は、「これからの10年を考える」というテーマをもとに、本学の教員である4名がディレクターとなり、それぞれが近年着任の専任教員をフィーチャーし、ディレクターと共同作業する形で作られた。

例年、オーブでは新しい教員の顔見世として展覧会が開催されてきた。しかし、そのような新しい教員の作品展という枠では、関心を持たれなくなってきている。例えば、片岡真実(森美術館館長)や服部浩之(秋田公立美術大学准教授)らのキュレーションによって開催されている「KUA ANNUAL」では、卒業展のような最終学年という枠組みと、等価に分節化された展示ではなく、テーマ設定と学年を取り払った選抜制による、キュレーションされた展覧会に変貌させることで、大きな成果を収めている。

非常時の日常の中で、共に成長する展覧会 ― KUA ANNUAL 2021「irregular reports:いびつな報告群と希望の兆し」東京展
https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/795

 

京都芸術大学では、ここ数年、そのようなキュレーションを積極的に取り入れた、野心的な教育プログラムを実施しており、その薫陶を受けた学生は飛躍的な成長を遂げている。片岡や服部、長谷川祐子(金沢21世紀美術館館長)のような美術館の企画展や国際展を実施するキュレーターと一緒に展覧会を作り上げることで、鑑賞者に効果的に見せるためには、どのようなことを重視し留意すべきか会得してきているといってよい。同時にそれらを鑑賞する学生たちの見る目も肥えてきている。もちろん、指導する側の教員が、学生の成長を見て感化されないわけはなく、自分たちが企画する場合にもキュラトリアルな視点を導入している。


本展では企画者、いわばキュレーター役の教員と彼らが選ぶアーティスト側の教員によるキュレーションされた4つの展覧会が実現されている。面白いのは、キュレーター役と言っても、彼ら自体アーティストであったり、デザイナーであったりするので、自らもプレイングマネージャーとして参加していることだろう。音楽で言えば、フィーチャリングするアーティストと一緒に音楽を作る行為に近い。他のジャンルと比べて比較的に自律性が高い現代アートのような展覧会形式で、そのような共同作業ができるようになったのも、鑑賞者とのインタラクティビティや地域住民とのエンゲイジメント、多ジャンルの専門家との共同作業が積極的に行われるようになった昨今の現代アートのシーンを反映しているといえる。それでは一つひとつ紹介していきたい。

 

想像の旅に誘う文芸によるこれからの見取り図

髙橋耕平(美術工芸学科 写真・映像コース)は、写真、映像を用いたインスタレーション作品を主に制作しているアーティストであるが、今回、「文・芸・感・染」というテーマをもとに文芸批評を専門とする江南亜美子(文芸表現学科 クリエイティブ・ライティングコース)を招聘した。

《いまを生きる私たちに必要な7つの視点》 書評:江南亜美子、写真:髙橋耕平、グラフィックデザイン:永戸栄大


髙橋は、コロナ禍で旅や移動が著しく制限される中、ここにいながら未来のことや遠くのことを想像する力が文芸にはあると感じたという。髙橋の場合、写真を撮影するため、物理的な空間や距離に縛られてしまう。写真は基本的に常に過去に撮影されたものであり、未来を撮影することは不可能だ。もちろん、写真を使って未来のイメージを作ることは可能だが、今回はあえて文芸の想像力をビジュアライズすることを試みた。また、髙橋は、江南が書評家であり、多くの本を評価し、新しい読者に届ける役目であるということにも注目した。そのような媒介者がいなくては、作品と鑑賞者だけではアートも成り立たないからだ。

いっぽう江南は、書評は性格上、フローの情報として現在から過去へ流れていくものであり、それが展覧会という形で空間に配置され、ある種のストック情報として展開されることに発見と喜びを感じたという。また、10年先の未来というテーマを受け、ここ数年の変化は劇的であり、現在の動向をキャッチアップし、知識をアップデートしないと未来も予想できないので、ここ数年に刊行された本を積極的に選ぶことに留意したという。これらの本は、教員や事務局職員などの人々にも読んで欲しいと江南は言う。


《いまを生きる私たちに必要な7つ視点》と題され、「声をあげる女たち」「男の生きづらさ」「セクシャル・マイノリティ」「脱―人間中心主義」「搾取に抗って」「AI・科学技術の影」「アフター・ディザスター」という7つのテーマで選ばれた30冊の本は、なるほど、昨今注目されているトピックが目立つ。BLM、#MeToo、LGBTといった、今まで抑圧されてきた人々の声を取り上げた本だけではなく、優位とされていた男性の困難さを記した本も選ばれている。さらに、AIの台頭や気候変動など、人類全体の大きな課題やこの10年の間の巨大災害とその被害者に注目した本なども取り上げられており、向き合うべき過去・現在・未来の課題を文芸によって深く知るための見取り図になっている。

特に、工夫されているのは書評の空間的な見せ方である。そのために髙橋はもう一人、デザイナーの永戸栄大を招聘した。永戸は本のカバーのようなデザインを施し、表紙に本の写真、背表紙に書評のキャッチ、裏表紙に書評をレイアウトした。情報デザインとして洗練されており、180文字程度の文章量、女性誌風に切れ味よくまとめられた記述も的確で読みやすい。また、髙橋自身が撮影した書影も、今までにはない試みがなされている。書評のための書影は通常、平面的に撮影され、特定の背景を設定しないが、髙橋は本の中身を想像させるように、背景や環境を選んで撮影している。あるいは批評的な視点で撮影しているといってもよく、もう一つの導入となっている。


そして、それらの書評が、譜面台型に斜めになった高さ70㎝程度の木製のスタンドに置かれていることで能動的に体験を誘っている。我々が読みやすい角度と、展示の全体像を把握できるようになっているのだ。壁面に展示することも考えたそうだが、顔を垂直にして文字を読むことは意外に少なく、左右との関係も希薄になったことだろう。これらのスタンドはゆるやかに7つのテーマに沿ってグルーピングされているが、相互に見えない関係性、ハイパーリングが貼られており、鑑賞・読者は、動きながら、様々な文脈を編むことができる。現在、コロナ禍で立ち止まっているが、世界は次の形に向けて急速に変化しており、これらの書評・本は、自分がこれから向かう先の海図の役割を果たすだろう。

コロナ禍で感染することはネガティブなことと当然考えられているが、SNSの登場以来、影響力のある発言者は「インフルエンサー」と言われ、その伝播する力に注目が集まるようになっている。そういう意味では本展は書評を通して、閉塞感に耐性をつけると同時に、想像から創造に向かうための「感染」を期待しているといってよいだろう。

 

過去・現在・未来の水の循環

身近な道具を用いて知覚の変容を促すアーティストの八木良太(空間演出デザイン学科 空間デザインコース)は、「循環する時間・水」をテーマに、過去・現在・未来を10年単位で目印にし、白石晃一(情報デザイン学科 クロステックデザインコース)と共同的な作品を展開した。さらに今回の展示には、もう一人の作家の存在がある。

白石は、2014年、展覧会設営時に不慮の事故で亡くなった國府理の代表作《水中エンジン》(2011)の再制作プロジェクトに参加している。《水中エンジン》は2011年の東日本大震災・福島第一原発事故を受けて、通常風で熱を冷やすことに代えて、水槽にエンジンを入れて水で冷却する作品として制作された。先月まで美術評論家、椹木野衣の企画・監修による京都市京セラ美術館「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989–2019」展にも出展されて話題となったが、水中でエンジンを稼働させると劣化が激しくなるため、作品保護の観点から、水を入れない状態で展示されていた。

今回、白石は、その水槽分の水、750リットル分をペットボトルに入れて、10年後の「再稼働」に向けて持ち帰ってもらう作品を制作した。これらの水は、10年後に回収されて、再制作する《水中エンジン》のために使用される予定だ。ただし、その間、災害時には備蓄水として使用してもよいという。

白石晃一《"ENGINE IN THE (STOCK/FLOW) WATER" REDUX》


低い台座に整然と並ぶ500ミリリットルのペットボトルには、それぞれH2Oと印字されたラベルが貼られている。その姿はこの10年の間に膨大な量が蓄積された福島第一原発事故の汚染水を溜めたタンクを想起させる。間もなく敷地いっぱいとなるとされるタンクは、放射性物質が処理されて海洋放出されることが決定したが、依然、漁業関係者を含め反対する地元民は多い。ペットボトルは所々欠けており、すでに日本各地に持ち帰られているが、それは福島の背負った重荷を全土で支えることのメタファーのようにも思える。10年後、どこまで復興しているのか、住民が帰郷しているのか、これらが再び回収された時、確かめることになるだろう。

 

八木良太《TODAY -10》


白石が設定した未来の10年尺に呼応するように、八木は10年前の2011年に撮影された写真を、日付と時間を入れて上映している。それらは写真共有サイトFlickrのAPIを使って、10年前の同時刻を検索するプログラムを組んで、自動的に呼びだされているのだ。八木はそこから10年前の震災に関連した写真が現れると思っていたとのことだが、Flickrのユーザーは海外が主であるからか、海外の牧歌的な日常の記念写真が上映され、日本とは異なるリアリティで世界が動いていたことが生々しく伝わってくる。それは日付の持つ多義性を表すことにもなっており、河原温のオマージュにもなっていることがわかる。

そして、「現在」という時間は、その反対の壁面に置かれた除湿剤で表されている。まだ除湿剤に水が蓄積される状態ではなかったが、ちょうど梅雨も始まる季節になり、会期中には水が溜まるかもしれない。そうすると、また豪雨や河川の氾濫による自然災害の季節が訪れることになる。津波、豪雨、洪水、冷却水、汚染水、備蓄水など、いかに人間が水の災害と恵みの中で生きているか、様々な尺度で測量されているように思える。

八木良太《ELEPHANT》

 

さらに、10年前よりさらに4年さかのぼり、白石が新潟県の弥彦山山頂にある弥彦神社の奥宮まで、雷神を想起させる噴水装置を担いで登頂し、虹を発生させるプロジェクトのドキュメントによるインスタレーションが設置されている。山頂の水を噴水装置に入れて噴射したものの虹は現れなかったようだが、まさに水の循環を体現している。八木は、このプロジェクトを人々との間に「新たな虹」をかけるために、オープンエンドな形で蘇らせようとしたと言う。これらの水をテーマにした作品が連なり、人々に開かれ、循環する時間のインスタレーションを形成していたといえるだろう。

白石晃一《Re2 CONCILIATION PROJECT》

 

空間に再現されるレクチャラ―の息遣い

映像作家・美術家の山城大督(アートプロデュース学科 アートプロデュースコース)は、「認知し観察し創造し」というテーマで、齋藤亜矢(文明哲学研究所)と鈴木卓爾(映画学科 映画製作コース)、中村紀章(環境デザイン学科 建築・インテリア・環境デザインコース)の3名の教員を招聘した。しかし、こちらも作品を紹介するということではない。3名の「授業」を再現するという手法をとった。

《VIDEO LECTURES》


山城は、昨年来、コロナ禍でZOOMなどを使った遠隔授業が行われることになったが、その際、パワーポイントやキーノートで制作されたスライド資料が主で、講師の顔がサムネイルになり、その存在感が希薄になっていることに気付いた。しかし、効率性からすれば一見無駄に見える講師の顔の表情や身体的な表情、ノンバーバルコミュニケーションがいわゆる座学にとっても重要な要素ではないかと考えるようになる。そして、失われていた身体を映像を使って空間に「再現」することを試みた。

《VIDEO LECTURES》と名付けられたこのシステムは、PCとスライド資料によるレクチャーを撮影し、スライド資料をモニターに、人物をスクリーンの後ろから上映された映像で再現するという仕組みになっている。スライド資料に使われたモニターは、撮影時のものと同じなので、鑑賞者はまさに「同じ画面」を見ていることになる。レクチャラーも隣に「等身大」で上映されており、まるでそこに「いる」かのように思える。スライド資料を横目に見ながら説明されることで、まるで実際の授業を受けているような感覚になる。没入感が生まれ、頭にもすっきり入ってくる。ここで身体的な縮尺、表情、動作、「言い淀み」も含めて、実は重要な「情報」であったことがはっきり自覚できるのだ。

このシステムの原理は、ホログラフィーに通じる、リアルなものを再現させるプリミティブな方法であり、映像・上映史の初期から行われていた。18世紀末から19世紀にかけて流行したマジックランタン(幻灯機)の上映によって行われたゴーストショーは、「ファンタスマゴリア」と言われており、スクリーンに後ろから投影することで、ゴーストを現出させることで評判となった。映画発明以前の時代あり、そこで流されていたのは静止画によるスライドショーであった。つまり、このシステムは、映像・上映史に受け継がれてきた技術の今日的な解釈であり、応用にもなっているのだ。

《VIDEO LECTURES |齋藤亜矢》
《VIDEO LECTURES |中村紀章》


同時に、ここで行われている3つのレクチャーも、相互に関係しており、一つの認知・建築・映像を解釈するシリーズになっているようにも思える。中央に上映されている認知科学者、齋藤亜矢は、芸術認知の観点からチンパンジーの研究をしており、チンパンジーの描く絵と子供や太古の絵を比較しながら、「見立て」が可能となり、想像力を持った人類とその脳の機能について解説する。向かって左に上映されている建築家の中村紀章は、尼崎の店舗などに設定されているビニール製の庇やファサードなどをフィールドワークしながら、その使われ方を観察し、自身のリノベーションの設計に応用するという事例を紹介する。

右に上映されている北白派といわれる映画で知られている映画監督・脚本家・俳優の鈴木卓爾は、演劇と映画における演技の違いや、切り取られた「フレーム」を駆使して、どのように断絶したカットを人間の認知やストーリーがつながるように編集するか、自身の身体や自身が撮影した作品を例に挙げながら解説する。鈴木の監督作品『嵐電』の舞台となった嵐山本線(京福電気鉄道嵐山本線、通称:嵐電)は、1910年に開設されており、太秦広隆寺駅を擁するその沿線は日本のハリウッドとして映画の街になっていく。『嵐電』では、映画と鉄道のアナロジーを使って、実際の街並みをフレームによって切り取り、演技によるフィクションを重ねることで、映画史へのオマージュとなっている。

《VIDEO LECTURES |鈴木卓爾》


つまり、映画(時間)、建築(空間)と言う違いはあれど、いかに実際の街を観察し、見立てを行い、再構成・創造していくか、人間の知性や想像力の構造と創造性の実例を挙げるという、プログラムになっているのだ。それらは実在している感覚で見られる、何度も聞き直せる、というライブと記録の両者の利点を取り入れた優れたレクチャーシステムであること雄弁に物語っている。

昨今の現代アートでは、映像インスタレーションが盛んであるが、ここまで完成されたフォームで作られているケースは珍しく、ダラダラとした無編集の映像を見せられたり、上映のサイズや形態も練られているように思えないことも多いのが難点だ。いっぽう、このシステムは、レクチャープログラムとして商業的にも展開が可能だろうし、現代アートの表現としても有効であるし、現代の肖像画として捉えることもできる。コロナ禍において、改めて課題として浮上した、映像による身体・空間の再現を、現代の手法で非常に洗練された形で展開した発明的作品といえるだろう。

 

21世紀、ポスト・トゥルース時代のレディメイド

現代アート関連のデザインやアートユニットの活動も行う見増勇介(情報デザイン学科 ビジュアルコミュニケーションデザインコース)は、グラフィックデザイナーの岡田将充(情報デザイン学科 イラストレーションコース)を招聘した。

岡田は、グラフィックデザイナーとしてクライアントワークをする傍ら、3DグラフィックソフトのAdobe Dimensionを使って作品の制作を行っている。かつてデザイナーの仕事は、レタリングやレイアウト、写植などの手仕事を行えることが必須であった。しかし、90年代にAdobe Photoshop、Illustrator、2000年代にInDesignなどが普及してから、いかにそれらのソフトに習熟し、デジタル化された素材を配列するという技能になっている。器用さや手業はほとんど重要ではない。むしろデータを整理する几帳面さやPCの基本的知識や管理能力の方が問われているだろう。

しかしその状況もすでに四半世紀経ちつつあり、それ以降大きな進化はしていない。あるとすれば、ディープラーニングやAIの登場によって、作業効率が良くなったということかもしれないが、コンセプトのレベルまでAIが考えるわけではないので、それほど大きな変革ではないかもしれない。

当初は、マッキントッシュやAdobe Photoshop、Illustratorなどは相当高額で、一部のデザイナーしか利用できなかった。なかでも新しい技術に貪欲なデザイナーに限られていた。しかし、現在ならデザイナーではなくても、クリエイティブな業界にいるものなら触ったことがないという方が珍しいだろう。そこまで日用的な道具になっている。さらに、Adobe Dimensionは、グラフィックデザイナーが使える3Dモデリングになっているため、まさに架空の日用品を作ることが容易になっている。

20世紀の日用品は、ある規格を工業的に大量生産することで、一つひとつの個体に個性が出ない匿名性の高いものとして普及した。そこに作家性や手仕事的な要素は見えてこない。抽象的な概念と化した既製品を使って、本来の機能を停止させることで、さらに無意味で純粋な概念として制作されたのが、マルセル・デュシャンの「レディメイド」である。とはいえ既製品は、物質である以上、規格の中のズレや経年劣化などによって結果的に個性が現れる。

いっぽうAdobe Dimensionのデータは、データであるため、規格のズレや経年劣化はない。そこで現れているのは、平均的で抽象化され概念化された純粋な既製品であるといえる。メーカーによる特性すらない。それらを操作して、本来の機能ではない形で独自の「フォルム」を作り、ある種、純粋な構造体、デジタルのレディメイド作品を作り上げたのが本シリーズといえるだろう。

岡田将充《フォルム [コンポジション #1〜5]》
岡田将充《フォルム [バランス #1〜5]》


プリントアウトされた平面作品は、コンストラクティッド・フォトグラフィのようにも見える。シミュレーショニズムにも通じるが、それらはサンプリングではあるが、「アプロプリエーション(盗用)」ではなく、まったくの「合法」であり、そもそもオリジナルとコピーという概念がない純粋なイメージであることが異なる点であろう。さらに、モニターに映し出された平面作品、上映された映像作品、3Dプリンターで出力された作品が並んでおり、物質性を介在させながら、そこに認知のズレを発生させている。そこに作家/鑑賞者の個性が刹那的に現れるのだ。

岡田将充《フォルム [モデル #1]》


我々は身体を介して見立て、日用品的なイメージで作られた何かを見ているという状態になる。いわばイメージの「レディメイド」「オブジェ」といっていいだろう。そのような微妙な見立ての差異とズレの中で今日の社会やデザインがあることを、本作品は鋭く暴き出しているといえるだろう。

さらに展示には、特殊偏光フィルムで出来た照明と角度によって色が変わる、見増勇介、真下武久、外山央によるアートユニット「INTEXT」の作品《SUPER REFLECTION》(2020)も置かれており、誰の作品か、作品や創作とは何かという概念にも揺らぎが与えられている。展示空間全体が、AIが氾濫し、意思のないジェネレーティブな作品が生成され続ける、ポスト・トゥルース時代のアートとデザインの行方を問うものになっているといえるだろう。

INTEXT(見増勇介、真下武久、外山央)《SUPER REFLECTION》

 

「For the next decade ― 少し未来の芸術の未来」展では一つひとつが異なる展示テーマのもとに、展開されているが、それぞれが相互に呼応し、共同キュレーターによる展覧会として、コラボレーションしているように見える。アフターコロナの世界やその時のアートについて、はっきりとしたものが見えるわけではないが、他者を引き上げる、協働する、オープンな対話を行っていく、という本展に見られるディレクター、アーティストの態度こそが、次の10年を考えるために必要であるということを示した展覧会といえるだろう。

 

(文:三木学、撮影:表恒匡)

京都芸術大学教員展「For the next decade ― 少し未来の芸術の未来 ―」

2021年度ギャルリ・オーブ企画展示

会期 2021年5月10日(月)〜20日(木)
会期中無休
時間 10時30分〜18時30分(最終日17時まで)
会場 京都芸術大学ギャルリ・オーブ 展示室1〜4
主催 京都芸術大学ギャルリ・オーブ運営委員会

※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、一般の方は瓜生山キャンパスに入構いただくことができません。何卒ご了承ください。

 

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