REVIEW2021.03.27

アート

写真家は「真実」を破壊し、「個人的神話」を語りはじめる ― 「写真は変成する MUTANT(S) on POST/PHOTOGRAPHY」京都芸術大学 写真・映像コース選抜展

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  • 京都芸術大学 広報課

「POST/PHOTOGRAPHY」の実践に向けて

 京都芸術大学内のギャルリ・オーブにて、3月19日(金)から3月29日(月)まで開催されている展覧会「写真は変成する MUTANT(S) on POST/PHOTOGRAPHY」は、本年度より始動した美術工芸学科 写真・映像コースに所属する学生を中心とした特別講義形式のゼミのなかから、17名のアーティストを選抜したグループショーであり、ゼミを主宰する本学教員の多和田有希と後藤繁雄がキュレーションを担当している。京都芸術大学では、これまでにも「ULTRA AWARD」や「KUA ANNUAL」などのコンテンポラリー・アートを扱った展覧会が開催されているが、今回の展覧会は、そのさらなる新領域として「現代写真」に特化させた野心的な実践だ。

 

 

 新型コロナウイルス感染症の拡大や、それに伴った緊急事態宣言の期間を経て、昨年の8月より開始された多和田+後藤ゼミでは、展覧会タイトルにもなっている、後藤によって打ち出された「POST/PHOTOGRAPHY」をテーマに、デジタル写真以後、ソーシャルメディア以後の、写真を撮影するという行為があらゆる人々にとって全く当たり前のことになった現在の状況のなかで、写真をつくり出すための講義と、展覧会に向けた学生たちによる作品のプレゼンテーションが繰り返し実施された。

 多和田+後藤は、いわゆる「決定的瞬間」といったような記録としての写真が持つ美学的な強度の構築を想定していない。彼らによる講義は、ヴィレム・フルッサーによる著作『写真の哲学のために』(1989年)をベースにしている。フルッサーは、カメラによって撮影・獲得される「写真」ではなく、装置によって生み出される「画像」(フルッサーはこれを「テクノ画像」と呼ぶ)を駆使しながらイメージを生成する「写真」の新しいモデルが先駆的に紹介されている。そして、そのなかでは写真は撮影されるものではなく、つくられるものとして再定義される。

 『写真は魔術 アート・フォトグラフィーの未来形』(2015年)で知られるキュレーターのシャーロット・コットンは、写真が平面に押し止められることなく、分野として「拡張」していると指摘し、デジタルの到来による社会の変化に合わせた写真の実践を取り上げている。情報拡散のインフラを手にした現在において、写真を制作するための考え方自体もまた明確にシフトしているのだ。

 ここでは、3月20日(土)に開催された参加アーティスト、両名のキュレーター、そして東京工芸大学准教授であり、後藤の運営するG/P galleryの所属アーティストでもある川島崇志をゲストに交えた講評会を踏まえ、いくつかの作品を取り上げることによって、「POST/PHOTOGRAPHY」の一部を明らかにしていく。

 

講評会(YouTubeLIVE配信)
日時:2021年3月20日(土)13:00〜16:00
ゲスト:川島崇志(写真家/東京工芸大学准教授)
https://youtu.be/RoMhoACoaYc?t=820

 

「コト」から「モノ」の写真へ

 コットンの指摘する写真の拡張は、本展覧会でも、会場に提出されている圧倒的な物量、砂や散乱するモルタルの残骸といった、一見したところ写真には分類できないような様々なマテリアルから見て取ることができる。その現場でアーティストに求められたのは、その作品をいかに「写真」として再定義するのかということであり、講評会では川島氏による質疑を軸にしながら、アーティスト自らの言葉による説明と対話が展開された。

 講評会でポイントとなったのは、写真が備える「コト」の力をどのように変成させるのかということ。「コト」とは、ある出来事を記録するためのメディアとしての写真ということであり、その文脈が現在にまで強く根付いているということである。そこに写し取られたものは、具体的であるがゆえに読み解かれるための物語を内在してしまう。そのような状況を踏まえて、逆説的に、写真家たちは具体的ではない写真、「コト」に回収されないような、アブストラクトな写真を「モノ」として拡張するための実践として指向されている側面があると、川島氏は指摘する。

 これまでの歴史のなかで、一枚の平面的なイメージに閉じ込められた写真は、それが「真実」を語るものであると還元的に捉えられてきた。しかし、絶え間ない情報拡散のなか、「真実」も「虚構」もない現実を生きる私たちにとって、ある一つの確約された「真実」がいかに危険なものであるのか、それは経験的な理解として認識しうるものである。だからこそ、写真家は写真を「モノ」へと拡張することによって、そのような「真実」を破壊し、複雑かつ多様な可能性へと開かれたイメージにつくりかえる必要がある。

 追立大地(おいたて・だいち)による作品《chimera》は、この「コト」から「モノ」へと変換された写真作品の事例として上げられる。作品自体は、一つのハッキリとしたオブジェクトとして提出され、その抽象的な形状を留めたオブジェクトの表面には、人工知能によって生成された「存在しない人物の画像」がコラージュされている。さらに、その上にはクモの糸のように溶かされた発泡スチロールが接着してある。

 川島氏は、イメージを「モノ」に変換するときに、変換されたときにイメージ自体が「モノ」の阻害になっていないか、そのイメージの持つ意味がどのように作用しているのかということの重要性を指摘した。

 表面に貼られた顔写真は、それがAIによって生成されたものであるという情報と掛け合わさり、不安定な立体モデルに合成されることによって、見るものに叙情的な効果を呼び起こさないように構築されている。その意味で、彼の作品はイメージを「モノ」に変換していると言えるだろう。

追立大地 《chimera》

 

 その一方で、物語として読む、解釈を促すために「コト」の力を利用することも写真をつくるための戦略の一つだ。社会的な出来事を記録する一つの証拠、あるいはそのように前提として認識される写真の役割を利用すること。

 山神美琴(やまがみ・みこと)による作品《“I can’t breathe.”》は、黒いビニールで頭部が覆われたヌードのポートレイトを映したものである。目の見えない状態で、ガレージのような空間を探りながら動く様子は、閉塞感、息苦しさといった今日の社会における普遍的な問題を感じさせる。しかし、それと同時に、その作品のなかで提示されているのは、行為そのものの断片であり、それがどこで、いつ撮影されたものであるのかというような、ある一定の事実が不特定なままで提示されている。

 フォト・ジャーナリズムの分野において、戦争写真のような暴力性を喚起させる写真は、他者の苦しみを請け負いながら、その表象が撮影され、現実の社会で起こった出来事を伝えるという役割がある。しかし、山神はそのようなジャーナリズムにおける必要不可欠な情報をあえて宙吊りにして作品を提出している。

 これについて、川島氏は「新しいドキュメンタリー」という言葉を用いて、「コト」の力を作品に利用するための方法について言及する。ある出来事を事実そのままに伝えるのではなく、それを避けるようにして別の視点から現実を捉えることによって、作品として目の前に現前しているものを多様な可能性へと開く、あるいは至って個人的なものとして提出することができる。そして、そのような作品は、時間的な制約、情報の一喜一憂的な消費を跳ね除け、未来を予見するものにすらなる。山神の作品は、その可能性を備えたものだ。それゆえ、作品をアーティスト自らがどのように語るのかということは、「POST/PHOTOGRAPHY」を構成するための重要な要素であることは間違いない。

山神美琴 《“I can’t breathe.”》

 

 このような「コト」と「モノ」を使い分けること。「コト」の持つ力強さを克服しつつ、「モノ」として思考させること。新開日向子(しんかい・ひなこ)による作品は、その事例として上げることができる。

 会場内のいくつかのポイントに配置された新開の作品《反復する森》は、今年の春に公園で捕まえたというクモを家に持ち帰ったという自身の個人的な出来事からはじまっている。作品は、iPhoneで記録されたクモの様子を紙に出力して、それを破り、自宅のなかにあるものと一緒にスキャンしたものをドローイングし、それを電光掲示板のLEDライトが放つ光によって提示するということを起点として、その光を反射するホイルや、緑の巨大な網、それに手痕を残すようなビニールなどの複数のメディアによってインスタレーションを構成している。

 そこで使用されるマテリアルに反射して、より強力な光を出すインスタレーションは、一見すれば、タイトルにある「森」のイメージとはまるで正反対のもののように思える。新開によると、この「森」という言葉は、自分自身とクモの関係性から来たものだという。持ち帰ったクモを、外の世界にその存在が知られないように、匿うようにして、自宅のなかで記録を撮り続けることで、新開とクモは、ある種の人工的な共存関係をつくり出している。展覧会場に構築されたインスタレーションは、そのイメージが他者に向けて放たれた、新開とクモが共存していくための捏造された「森」である。

 キュレーターの後藤は、LEDによって出されたイメージとインスタレーションを構成するマテリアルが等価に扱われていることに着目し、それがクモと新開の関係性としての「コト」を「森」というかたちで「モノ」として提示することに成功していると評価している。

新開日向子 《反復する森》

 

コンセプト、制作手段、現前しているものの着地点

 キュレーターであり、写真・映像コースの教員を務める多和田有希がアーティストとして学生と並列に参加していることは、京都芸術大学において、本展覧会をユニークたらしめる特徴の一つだろう。講評会では多和田も同様に、自身の言葉によって作品を説明している。

 多和田の作品《THEGIRLWHOWASPLUGGEDIN》は、女性のポートレイト、鹿、そして蘭という三つのイメージをモチーフにして構成されている。今回の作品は、その前段階として、それらのモチーフを燃やしてコラージュにしたもの、そのイメージを加えた80ページ以上のZINEがあり、それらの制作物を踏まえた状態で、インスタレーションとしてつくられている。

 本作品は、同じモチーフが反復し、作品ごとにその形態を変成させるという実践の一部として提出されている。その一部は額装された状態で、いわゆる芸術作品としてアート・マーケットに流通され、一方でZINEの形態を取れば、ページをめくる読み物として別の解釈が加えられるものになる。そして、今回のようなインスタレーションでは、まさに即時的なものとして、しかし、どこまでも引き伸ばすことのできる形態として提示されている。それらの実践は、一つのイメージとして作品を固定せずに、現前する状態を別のものに変成させていくことによって、他者と共有することのできない、作品以前の状態、すなわち自らの脳内にあるイメージを他者に開いていくための試みとして紹介されている。

 さらに多和田は、作品のコンセプトと制作手段、そして現前しているもののバランスによって、作品にイリュージョンを起こすこと、作品そのものの「これでなくてはいけない」という形態を見極めることが必要だと指摘する。それは突き詰めれば、作品における直感や感触がどこからやってくるのかということを自問することであり、それこそが写真を「モノ」としてつくりだすときの最も難しく、そして最も刺激的な探究だと、多和田は説明する。

多和田有希 《THEGIRLWHOWASPLUGGEDIN》

 

 ここでは、多和田の指摘する観点から、三つの作品を紹介する。

 神谷拓範(かみや・たくのり)の作品《Mirror》は、無意識的に撮影したスナップ写真をモルタルのなかに埋め、それを掘り起こすという過程の痕跡を提出している。辺りには砕かれたモルタルが散乱し、発掘された写真の表面は、印刷部が叩かれたことによって白く剥がれている。写真自体がボロボロになっていることに加え、本人も断片的な記憶しか残っていないため、そのスナップがどこで撮影されたかが全くわからないものになっている。

 ここで後藤は、「無意識」という精神分析学的な言葉との付き合い方について言及する。フロイトによれば、無意識とは「はじめは知っていたけれど、失ってしまって思い出せない」という状態を指す。しかし、その「喪失している」という前提自体が西洋的な価値観であり、現在においてもそのような価値観は果たして自明だと言えるのか。

 西洋的な観点で見ると、神谷の作品は心のなかにある闇のようなものを「掘り起こす」という解釈がつきまとう。しかし、それは私たちの感覚では、そんなに重苦しいものではなく、実際のところは遊戯的なものであり、触知的なプロセスによってつくられる。神谷自身もそのように感じていることを講評会のなかで述べている。叩き、破壊し、そこから何かを発掘するということは快楽的な行為だろう。

 しかしながら、用語一つを取ってみても、そこにはすでに構築された文脈が存在しており、さらにはその文脈自体も、アーティストの置かれた位置によって変化する。そこでは、そのことを理解し、すべての行為に意味を持たせるという戦略もあれば、一方で後藤は、そのような西洋的な価値観の強い用語を使う場合、それを脱臼させるように「へらへら」しながら、意図的にはぐらかすようにして使う戦略もあるということを強調する。神谷の作品の一部である床に散らばった残骸は、そのようなはぐらかしのための意図的な演出と受け取ることができる。

神谷拓範 《Mirror》

 

 自らのコンテクストを大きく利用した作品として、平等菜々理(ひらとう・ななり)の作品《Genes to create(創造する遺伝子)》がある。平等には一卵性双生児として生まれたという背景があり、自分と完全に同じ遺伝子を持つ姉が存在している。平等の作品は、その姉と比較されることに対するある種のコンプレックスからはじまっている。

 作品は、自身の過去の写真、現在は廃止された飛行場で撮影された、しかし、ぼやけて曖昧なポートレイトの上から、現在の平等と姉のモノクロの顔写真を正方形のグリッドに分解し、それを組み合わせて一つの顔になるようにしたというものである。

 このように内的なテーマを扱うとき、一方では淡々としたドキュメントが手法として選択される場合もある。しかし、モザイクのように配置され、強引に一つに合成された顔写真は、ドキュメンタリーと呼べるものではない。平等の作品は、重苦しく真実を追求することもできるテーマを扱っているにもかかわらず、自分たちの顔をブロック崩しのように分解して、その差異を比較できないものにしてしまう「へらへら」とした、したたかなおもしろさがある。

平等菜々理 《Genes to create(創造する遺伝子)》

 

 沖野颯冴(おきの・そうさ)の作品も、その出発点としてはナイーブな理由からはじまっている。新型コロナウイルス感染症の拡大による制作の影響は、あらゆるアーティストに少なからず影響を及ぼしたものだと思われるが、講評会にて沖野は、その影響によって自身の制作が大きくストップしたことを強調した。

 それを脱するための試みとして提出された作品《イメージを連ねる》は、写真に対する製品的なクオリティへの反発をベースに、木の根を連写したイメージの出力物を丸めるようにして、うねりをつくり、波打つ帯のように接合したいくつかのユニットを立体的に積み重ねたものである。その構成は、会場のなかで他の作品に合わせるようにして、即興で行なわれている。

 後藤は、このユニットを「単位」であると表現する。単位であるがゆえに、それは細胞分裂のようにいくらでも大きくすることができる。そして、そのうねうねとした形状ゆえに、操ろうとしても全てが思い通りにならないものとして発明されていると作品を評価する。

沖野颯冴 《イメージを連ねる》

 

 この3名のアーティストには、多和田の指摘するようなコンセプト、制作手段、そして現前しているものをうまく噛み合わせるため、手遊び的に、感覚の着地点を探る実践的な傾向があるように思われる。そして、それは前述したヴィレム・フルッサーによって以下のように言及されている。

チェスのプレイヤーが駒で遊ぶのと同じように、写真家は装置で遊ぶのです。写真装置は道具ではなく玩具なのです。写真家は労働者ではなく、プレイヤーです。つまり「ホモ・ファーベル(働く人)」ではなく「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」なのです。(ヴィレム・フルッサー, 深川雅文訳, 1999年, 『写真の哲学のために』勁草書房, p. 33.)

 

テクノロジーによる脱人間的な美学

 この展覧会では、後藤が運営する通信制大学院からもアーティストとして2名が参加している。そして、彼らは、デジタル以後の写真、コンピュータによる演算、すなわち、自らがほとんど関与しないような、もはや「撮影」とは呼べないようなかたちで写真がつくられることを前提として作品を提出している。今回は、そのなかから北の作品を紹介しよう。

 北桂樹(きた・けいじゅ)による作品《A.o.M (Aesthetics of Media) ––メディアの声に耳を傾ける試み》は、その加工作業がiPhoneのみで完結した作品である。その作品は、スクリーンショットで捕獲されたニュースサイトの画像を、加工アプリによって自動補正し、同様の補正を60回繰り返すことで現出するイメージを出力したものだ。そこには、人間の美的な感覚としていいとされる補正が繰り返し補正されることで、異常に強調された輪郭線、明瞭過ぎる色調といったような、人間の美的意識から大きく逸脱する「気持ち悪い」画像が提出されている。

 北は、このような機械的な処理によって、勝手に生成されていくイメージ、あるいはそれそのもののエラーを利用している。そこには、北自身が作品として良いと思ったなどの判断は存在しない。それらは、現代のテクノロジーによって決定され、生成されたイメージである。

 デジタルのテクノロジーという現在のインフラの根幹的な部分によって提出されたそのイメージは、ある種の踏み絵のようなものであり、このようなイメージに慣れるのか、反発するのか、という取捨選択があるように思われると後藤は述べる。そして、このような脱人間的な美学的イメージが存在していることを提示する北の行為そのもののなかに美術的な営為が認められると評価する。

 一方で、川島氏はその作品の配置が既存のトラディショナルな方法を踏襲したままであること、その処理の仕方をより「人でなし」なものにするための戦略に余地があると指摘した。そして、このようなアプリケーションの利用をより確信犯的に作品に取り入れるアーティストは、今後ますます増えるだろうと後藤・川島氏は述べる。

北桂樹 《A.o.M (Aesthetics of Media) ––メディアの声に耳を傾ける試み》

 

「個人的神話」を棲み分ける

 講評会を通して、参加アーティストは自らの言語によって作品を説明し、対話することによって、その作品の位置付け、確信犯的なプレイの度合いを測定された。

 川島氏は講評会の最後で、近年ではギャラリーがなくても生きていけるアーティスト、自らの言語で社会的に通用するような説明のできるアーティストが増えていると語っている。多和田の言うように、作品それ自体の絶対的な形態を見極めること。それに加え、その作品を様々な文脈とベクトルから説明することのできる言語を開発することによって、そのようなアーティストは次々に確立されていくだろうと締めくくる。そして、このような状況は、これから活躍するアーティストにとってもシリアスな課題であるのと同様に、批評家やキュレーターのような人々にとっても、彼らとは異なる切り口で作品を語るための自身の「メソッド」の開発を要求するものである。

 そして、多和田はその言語の発明のために、お互いの比較検証の場を用意する必要があると述べている。「POST/PHOTOGRAPHY」というテーマによって、それぞれの作品が大きく括られてはいるものの、各作品のあいだにある微細なグラデーションの違いを、対話とキュレーションによって自覚的なものにする必要があるという。

 そして最後に、後藤は今回の展覧会、引いては来年度以降も継続される多和田+後藤ゼミの最終的な目標について、スイス出身の伝説的なキュレーターであるハラルド・ゼーマン(Harald Szeemann, 1933-2005)の提唱する「個人的神話(individual mythology)」というフレーズを引用しながら、その意図を明らかにしている。

 今回の展覧会では、一人ひとりのアーティストが一定のレベルに達した状態で作品を提示することができた。そして、それを他の参加アーティストとの比較によってではなく、自らの明確な姿勢として経験できたことが重要であったと、後藤は述べる。各々が自らの方法論を中心として振る舞いながらも、展覧会として俯瞰したときには、それぞれが共生した世界を提示できているということ。

 このような状況をつくり出せたのは、生存競争的な引っ張り合いではなく、それぞれのメソッド、物語といった「個人的神話」が展覧会として棲み分けられたこと、そして「POST/PHOTOGRAPHY」という複雑かつ多様な可能性を開くためのテーマが打ち出されたことによって、参加アーティストが持つ表現のレベル設定が更新されたためだと思われる。今回は成果展という形式によって開催された本展覧会であるが、来年度以降の多和田+後藤ゼミもますます期待できるものになるだろう。

写真は変成する MUTANT(S) on POST/PHOTOGRAPHY

会期 2021年3月19日(金)〜29日(月)
※会期中無休
時間 10:00〜19:00(最終日のみ16:00まで)
会場 京都芸術大学 ギャルリ・オーブ
キュレーション 多和田有希、後藤繁雄
出展者 伊藤雅浩、追立大地、沖野颯冴、大澤一太、神谷拓範、北桂樹、柴田眞緒、新開日向子、高橋順平、多和田有希、R E M A、平等菜々理、藤本流位、山神美琴、吉田コム、渡辺晃介、向珮瑜

https://postphotography.wixsite.com/2021

(文:藤本流位、撮影:神谷拓範)

 

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