2月16日(火)、韓国の国民的詩人である尹東柱(ユンドンジュ)の追悼献花式を執り行いました。
尹東柱は、同志社大学留学中、本学の瓜生山キャンパス高原校舎の地にあった「武田アパート」に下宿していました。そこで、2006年に高原キャンパスに尹東柱詩碑を建立。毎年、命日の2月16日には詩人・尹東柱を想い、駐大阪大韓民国総領館総領事をはじめ多くの関係者にお越し頂き、詩碑前にて平和な世界が築けることを祈念する、追悼献花式を執り行っています。
2006年に詩碑を建立した際、德山詳直前理事長はこのように語りました。
尹東柱さんが生きた時代は暗い時代でした。
しかし私たちが生きているこの世界も、決して明るいとは言えません。
世界中で、戦争や飢餓、あるいは絶望的な事件の数々が、子どもたち、若者を苦しめています。
いかにして、人間の深い愛情と信頼を取り戻し、平和な世界を築いていくのか。
芸術は、人々の幸せのために、どのような役割を果たせるのか。
それを考え実行するために、この大学は存在しています。
(瓜生通信37号「尹東柱詩碑建立に寄せて」より)
本学客員教授 上野潤による解説文および、駐大阪大韓民国総領事 吳泰奎氏による挨拶文を掲載させていただきます。
尹東柱とは誰か
京都芸術大学客員教授 上野潤
京都芸術大学高原キャンパスの前に一つの詩碑が建っています。韓国(朝鮮)を代表する詩人尹東柱(ユンドンジュ;1917~1945)の碑です。尹東柱は現在韓国で国民詩人のような扱いを受け、中学や高校の教科書にもその詩は必ずと言っていいほど取り上げられています。しかし、彼は正確に言うと韓国(朝鮮)で生まれ育った人ではありません。彼は当時北間島(プクカンド)と呼ばれた、現在の中国吉林省延辺朝鮮族自治州の明東村(ミョンドンチョン)で1917年12月30日(陽暦)に、キリスト教長老派プロテスタントの家庭に生まれました。下に弟が二人と妹が一人、つまり彼は長男でした。
北間島で高校卒業まで過ごした後(その間、中学3年生の一学期だけピョンヤンに編入学しますが、日本の指示で学校が強制閉校になり、また北間島に戻っています)、1938年にソウルの延禧専門学校(現在の延世大学)文科に入学し、やっと彼は故郷の朝鮮の地を踏みます。
このことは尹東柱の思想を考えるとき非常に大切です。つまり彼は朝鮮内地で生まれ育った人々とは違って、幼いころから隣近所に中国人も朝鮮人も、時にはその他の国の人々もいるような、いわば「多国籍」な土地で生まれ育ったということなのです。さらに、彼の家庭は篤実なキリスト教の家庭で、彼もそんな家族の影響を受けて「隣人愛」への意識が強かったと言えるでしょう。
ところが、延禧専門学校2年生の秋(1939年9月ごろ)に彼は生まれた時から持っていたキリスト教の信仰に根本的な疑いを持つようになります。この葛藤は1940年12月ごろまで続き、その間彼は朝鮮民族の悲哀や苦悩だけでなく、全人類に共通した罪を自覚するようになります。このころに書かれた彼の詩作品には彼が思い至った苦悩が色濃く反映されています。
その全人類的な罪をどう克服して、本当の救いに至ることができるのか… この課題を抱えたまま彼は1941年12月27日、戦時短縮で延期専門学校を卒業します。ところで、この当時朝鮮の地に存在した高等教育機関の中で「大学」と名のついた学校は京城帝国大学(現在のソウル大学)だけで、しかも「大学」出身者と「専門学校」出身者とでは、就職しても給与その他の待遇は大きな開きがありました。そういった現実的な問題に加え、もっと勉学に励みたいという本人の意思もあって、尹東柱は「平沼東柱」(ひらぬまとうちゅう)と創氏改名までして日本の「大学」に留学します。1942年4月2日、彼は東京の立教大学英文科に入学し、一学期通いました。その年の夏休みに彼は生前最後の帰省をし、秋に再び日本に渡り、10月1日に京都の同志社大学文学部文化学科英語英文学専攻(入学当時の呼称)に編入学し、そして現在京都芸術大学高原キャンパスのある地に存在した学生下宿「武田アパート」で生活し始めたのです。
「武田アパート」での彼の様子を、アパートを訪れた彼の叔父が次のように証言しています。
「文学と人生に対する話をしながら、東柱はすでに物欲を離れた一種のメタフィジカルな哲学的体系を備えた段階に至った姿を見せ、話すたびに詩と朝鮮という名前がほとんど口癖のように東柱の口からしょっちゅう出て来た。」
「読書にあまり熱中しすぎて顔色が青白くなっているのを私は非常に心配した。六畳部屋で寒さも忘れて深夜2時まで読み、書き、構想し… これがほぼその日その日の課題であるかのようだ。」
このように京都での学生生活を送っていた尹東柱は、1943年7月に英語英文学専攻のクラスメイトと共に宇治に遠足に出かけ、その時天ケ瀬吊り橋で撮影された写真が彼の生前最後の写真となっています。
その遠足から間もなくして、彼は下鴨警察署に逮捕されます。従来、この時の逮捕罪状が「独立運動」だったと言ってクローズアップされているのですが、これは逮捕罪状の一部を過大に喧伝したものです。正確には彼の逮捕罪状は3つあって、
1.思想不穏・独立運動
2.非日本臣民
3.温厚ではあるが西洋思想が濃厚
というものでした。韓国の優れた研究者(金興奎)は、表現が抽象的ではっきりしない1.2.よりは、具体的な表現がされている3.こそが注目すべき罪状だと述べています。下鴨警察署で取り調べを受けた後、1944年に彼は思想犯として九州の福岡刑務所に移送されます。そしてそこで1945年2月16日の明け方、日本人の看守によれば、日ごろおとなしい彼に似合わない大きな声で一言何やら叫んで亡くなったと言います。満27歳でした。
生前の尹東柱を知る人は、みな一様に彼は「無口でおとなしく、いつも微笑んでいる」人だったと言っています。そして興味深いのは、この証言が延禧専門学校時代のクラスメイト(朝鮮人)だけに共通したものなのではなく、同志社時代のクラスメイトや広島県在住の友人(日本人)もまったく同じ証言をしている、という事実なのです。つまり、現在でも韓国と日本はお互いの国を嫌って心の痛む批判を繰り返しているのに、もっとあからさまな敵意が渦巻いていた日本統治時代にあって彼は朝鮮人、日本人などという国籍や民族にとらわれず、「人間」への愛を見せていたわけです。彼をよく知る幼なじみの文益煥牧師は次のように言っています。
「彼の元ではすべての対立は解消された。彼のほほえみから漂う温かさに溶けない氷はなかった。彼にはみんな血を分けた兄弟だった。私には確言できる。彼は福岡刑務所で最後の息をつぎながらも、日本人のことを考えて涙を流していただろうと。彼は人間性の深みをかき分けてその秘密がわかっていたから、誰をも憎むことができなかっただろう。彼は民族の新しい朝を望み、渇望することにかけては誰にも負けなかった。それを彼の抵抗精神と呼ぶのだろう。しかしそれは決して敵を憎むことではありえなかった。少なくとも東柱さんはそのように感じることはできなかっただろう。」
ところで尹東柱の残した詩、特に1940年以降の代表作群は、非常に解釈の難しい詩ばかりです。表現はぜんぜん難しくありません。星、風などの優しい詩語がちりばめられていて童話のような世界に満ちているように見えます。でも、彼の詩の難しさは、一見やさしそうに見える言葉に込められた象徴的意味がとてつもなく深く、多彩であるということによります。
ご存じのように、詩の言葉は日常言語のように言葉とそれが指す意味とが1対1の関係にあるのではなく、1対多の関係にあります。尹東柱の場合、一つの言葉に込められた象徴を読み違えると薄っぺらいセンチメンタルな情緒に堕してしまう恐れも無いとは言えないのです。だから、彼の人となりや時代背景はもちろん、読書傾向や思想背景までを吟味して始めて本当に彼が言いたかったことを理解することができると言っていいように思われます。
一つ比較的簡単な例を挙げましょう。
彼の「声」を正しくとらえるには、まず何よりも彼がいくつかの作品で何度も主張するように、彼の生きた時代のみならず我々が生きている現在もまた「暗闇」の世界だ、ということを認識する必要があります。彼はそんな闇の中でしきりに「光」を求めます。光のある場所に行く ― それこそが彼の課題だったのです。彼の言う「星」― 星は、暗闇の中で光を放つ発光体です。つまり彼の言う「星」には、闇であえぐすべての人々にとっての希望が象徴されています。その象徴する希望をどうとらえるか… それは皆さんに託された「課題」です。
現在高原キャンパスの前には尹東柱の詩碑「尹東柱留魂碑」が建っています。この碑を「詩碑」とせずに「留魂碑」と名付けたのは、尹東柱の魂は現在もこの高原キャンパスのあたりにとどまっている、という意味からです(私は個人的にこのネーミングが大好きです)。
単に過去の一民族の悲哀や過ちを告発するにとどまらず、全人類に共通する「人間の罪」を告発し乗り越えようとした尹東柱の声は、歴史とともに「過去」になってしまうたぐいのものでは決してなく、人類全体の罪性が消え失せるまで、いや、消え失せた後も、今度は希望と平和の声として我々に響き続けることでしょう。そして我々京都芸術大学の関係者は、彼がそのような全人類的問題を真剣に考え続けていた地を継承する者として、彼の抱いていた思いをこそ継承する使命があると考えます。
最後に、そんな尹東柱の希望の詩を紹介します。
新しい道
川を渡って森へ
峠を越えて里へ
昨日も行き今日も行く
我が道 新しい道
蒲公英(たんぽぽ)が咲き鵲(かささぎ)が飛び
娘が通り過ぎ風が起こり
我が道はいつも新しい道
今日も… 明日も…
川を渡って森へ
峠を越えて里へ
(1938.5.10)訳:上野潤
ご挨拶
駐大阪大韓民国総領事 吳泰奎
皆様、こんにちは。
駐大阪大韓民国総領事 吳泰奎でございます。
新型コロナウイルス感染症の再拡大という厳しい状況の中にもかかわらず、対策を講じて尹東柱追悼会献花式を開催してくださいました徳山豊瓜生山学園理事長をはじめとする京都芸術大学関係者の皆様に深く感謝申し上げます。
韓国人が最も愛する詩人尹東柱は、若くして悲しい歴史に翻弄され犠牲になりましたが、彼が残した作品は75年余りが過ぎた今もより鮮明になり、多くの人の心を響かせています。また、韓日の人々の心を結びつける強力な接着剤のような役割をしています。
彼の人生に対する敬虔な姿勢、自己反省と省察、和解と平和の精神は、国境を越えてこの時代に生きる人々が目指すべき姿と言っても過言ではありません。
当館は、韓日両国の人々が詩人尹東柱の生き方や彼が書いた詩の意味について改めて考える場を設けるために、昨年から京都芸術大学高原キャンパスの前の碑をはじめ、京都に三か所ある詩人尹東柱の詩碑をめぐる行事を行っています。
同胞社会や日本社会が共に彼の生涯や詩を振り返ることにより、両国民の友情が一層深まり、ひいては韓日関係の改善及び世界平和にも貢献できることを切に願います。
ありがとうございました。
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