平成31年正月の後七日御修法(ごしちにちみしほ)と歌会始 ―老松 お題菓子 曙光と御題菓 月の光[京の暮らしと和菓子 #20]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
この冬は暖冬のようですが、先週の土曜日、京都では、久しぶりの積雪もありました。観光名所の雪景色を映し出して全国的に報じられていましたが、じつは時に強い風に煽られて、珍しく傘の役に立たない吹雪にも見舞われるといった具合でした。
そんな寒暖入り交じる1月ですが、今年は「平成最後の」ことがらが続く1月を、誰しもが特別な思いを抱いて過ごすことになったのではないでしょうか。私自身も、ささやかな家での新年行事にも、いつになく感慨深いものを覚えることがあった日々でした。
そして、正月の皇室行事のテレビ報道を見たときは、こうしたかたちで天皇皇后両陛下のお姿を拝見する最後の機会かと思うと、普段以上に見入っていたのでした。
東京の、しかも皇居で行われる宮中正月行事は、京都に住む者にとって、正直なかなか遠い世界のものです。まさに京都が都でなくなって150年を経ようとしている今日ですから、宮中というものから時空の隔たりを感じるのは当然とも言えます。
そうではあるのですが、じつは今なお京都には宮中へ思いを寄せ続けている正月行事と正月の和菓子があることも事実です。
それは、東寺で行われている後七日御修法(ごしちにちみしほ)と、上生菓子を扱う和菓子店で毎年「歌会始」のお題に因んで作られる「お題菓子」です。
東寺 門松が飾られている正月の慶賀門
「お題菓子」については、ご存知の方も多いかと思いますが、後七日御修法は、あまり知られていないかもしれません。
この独特の法会は、平安時代、空海が上奏して承和2年(835)に始められたもので、毎年正月に、鎮護国家、玉躰安穏、五穀豊穣などの、年頭の祈念のために、宮中で七日間行われた密教の儀式です。宮中での正月行事は、元日から七日までの7日間は神事、節会(せちえ)が、八日から十四日までの7日間は仏事が行われました。その「あとの七日」に行われることをさして、「後七日御修法」と称されたのです。
残されている空海の奏上文には、空海が何を求めたのか、その趣旨がよく表れています。奈良時代からの仏教に対して、空海自身が唐からもたらした新しい仏教である「密教」の優位性を強調します。そして、奈良時代以来、正月八日から十四日までの間、宮中大極殿で行われてきた奈良の大寺院による御斎会(ごさいえ)という法会に対抗するように、同期間に密教の新しい御修法を宮中で行うことを願い出ているのです。
御斎会は、護国経典とされる「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」を講説するもので、やはり鎮護国家を願う年頭の法会なのですが、空海は、経典の解釈を議論するだけでは、利益にはあずかれないと主張します。
「然(しか)るを今、講じ奉(たてまつ)る所の最勝王経(さいしょうおうきょう)、但(ただ)其文(そのふみ)を読み空(むな)しく其の義を談ずれども、會て(かつて)法に依って像を書(えが)き壇を結びて修行せず。」(中略)
「伏して乞ふ。今より以後、(中略)七日の間に將(まさ)に解法(げほう)僧二七(にしち)人、沙弥(しゃみ)二七人を択び、別に一室を荘厳し、諸(もろもろ)の尊像を陳列し、供具を奠布(てんぷ)して真言を持誦(じじゅ)せむとす。然らば、顕密の二趣、如来の本意に契ひ、現当の福聚に随って、諸尊の悲願を獲(え)む。」
(続遍照発揮性霊集補闕抄(続日本紀第三巻)より)
つまり、一室を密教の道場として、僧と沙弥を各14人集めて、多くの仏の絵を並べ、これを供養して、真言の秘法を7日間修することで、現在未来の福聚を得ようというものなのです(文中の「二七人」とは、27人ではなく2かける7の意味です)。
密教の修法とは、中を覗くことができないように壁代などを廻らせ、そこで行われていることは秘密とされます。後七日御修法も「宮中真言院」のうちで、秘密の修法として行われました。「宮中真言院」とは、平安宮大内裏の中に作られた真言僧のみに許された宮中唯一の常設の仏教施設です。
秘密とされるその内容なのですが、御修法に参加した僧らの記録などは、けっこう残されており、平安時代の図などをもとに、その様子をみると、空海の言葉どおり、西に「金剛界曼荼羅」東に「胎蔵界曼荼羅」をかけるほか、五大尊や十二天まで、多くの仏の画像を掛け回し、その前に壇を設けています。金剛界と胎蔵界は、隔年で交互に修されるので、例えば胎蔵界の年には、その修法壇が主となります。また、災厄を払う息災護摩壇(そくさいごまだん)や幸運を招く増益(そうやく)護摩壇、除災や富貴、子孫繁栄などに利益のある聖天の壇など、まさに多くの福聚を得るための祈祷の壇が設けられています。
そして、最も注目すべきことは、この修法に天皇の御衣(おんぞ)が勅使によって届けられることです。平安時代には、その年の修法壇の傍に八足の机が置かれ、その上に御衣が安置され、御修法の間、御衣は香水(こうずい)とともに加持されました。そして御修法が結願(けちがん)すると、御衣と香水は天皇に届けられたのです。
平安時代の「玉体安穏」とは、天皇の身体が衰弱することが、すなわち国家の衰弱につながるという思想によっているのであり、密教において、天皇の身体健全のための加持祈祷は、護国のための祈りと考えられました。御衣は天皇の形代(かたしろ)であり、またそれを着すことで加持祈祷の霊力を天皇に付与することになると考えられたのです。
年の初めの祈りとして、一年の国の安泰を祈念する後七日御修法は、真言宗最高の大法として位置付けられてきました。
宮中真言院は、平安宮大内裏の衰退の進んだ中世にまで、維持存続された模様ですが、その後退転しました。しかし後七日御修法そのものは、南北朝の動乱で中断した時期があったものの、その後も今の京都御所の地に定まった「内裏」の紫宸殿にて、毎年、変わることなく修されてきたのです。
明治4年(1871)に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響もあって一旦は廃止となったのですが、明治16年(1883)からは、道場を天皇不在の京都の宮中ではなく、東寺の灌頂院(かんじょういん)に移して再興され、今日に至っています。
平安時代から途中幾度か途絶えかけた時期もあったのですが、基本的に平安時代の御修法の内容をほぼ保持し続けてきた正月の御修法です。そして今も平安時代と変わらず、「御衣」が勅使によって東寺灌頂院に届けられます。
東寺 灌頂院 中では後七日御修法の準備が整えられています
灌頂院は普段公開されていないので、その所在をご存じない方も多いと思います。東寺境内の西南隅に位置し、もともとその名のとおり、伝法灌頂会(でんぽうかんじょうえ、密教の奥義を師匠から弟子へ伝える儀式)のために建造されたものですが、何度も焼失再建を繰り返し、現在のものは江戸時代の寛永11年(1634)、徳川家光によって再建された建物(重要文化財)です。
1月8日の朝 灌頂院へ続く道 一番奥の南西の一角が灌頂院 手前が小子房
大阿闍梨、衆僧や勅使が歩く灌頂院への道は、少し砂利を盛り、筋目がつけられ整えられている
今年、8日の開白(かいびゃく)と14日の結願に、写真を担当してくれている高橋さんとともに、東寺に出かけました。両日ともこの時期としては穏やかな日和で、いつもなら冷え切った砂利の上に長い時間立っているだけで、体が芯から冷えてくるのですが、暖冬のおかげで、凌ぎやすい日となりました。この両日について撮影できる場面を中心に後七日御修法をご紹介しましょう。
8日の朝は、まず御影堂御法楽(みえいどうごほうらく)から始まりますが、現在、御影堂は解体修理中であるため、御影堂のすぐ北にある大日堂での御法楽となりました。
9時30分、衆僧と大阿闍梨は本坊からお出ましになり、大日堂へ向かわれます。本年の大阿闍梨をお勤めになるのは、豊山派総本山長谷寺の田代弘興化主で、御修法に勤仕(ごんじ)する衆僧は、仁和寺、醍醐寺を始め、真言宗各本山の高僧の方々です。
本坊から出てこられる大阿闍梨、衆僧を待ち受ける「ちりんぼう」(先払い)
衆僧の列の最後に傘をさしかけられた大阿闍梨がお出ましになる
衆僧のあとに供奉の若い僧が続く
本坊へ戻られる大阿闍梨と衆僧
大日堂での御法楽が終わると、再び大阿闍梨と衆僧は本坊へ帰り、勅使のおつきを待ちます。
勅使をお迎えするのは、小子房(しょうしぼう)で、本坊の南に隣接しています。現在の建物は昭和9年(1934)の建造になるものですが、南北朝時代、足利尊氏が光厳上皇(こうごんじょうこう)を奉じて都に入った折り、上皇がしばらく小子房を御所とされたという宮廷とゆかりの深い場所です。その勅使門の扉には菊の御紋の美しい透かしが施されており、この日は菊の御紋の幔幕も掛け廻されています。
11時30分に勅使のお車がご到着となり、勅使は紫の風呂敷に包まれた御衣を捧げ持って、一旦小子房に入られます。ここで御衣が金糸で菊の御紋を縫取りされた錦の櫃に収められるのです。この櫃が、僧らによって担がれ、勅使一向はこれに従って小子房を出て、いよいよ御修法の道場となる灌頂院に向かわれます。
大阿闍梨は一足先に灌頂院で勅使を待ち受けておられ、御衣の到着とともに灌頂院南庇で伝達式が行われます。
勅使が最初に御衣を届けられる小子房(しょうしぼう)
御衣を奉侍して小子房門内へ
御衣の櫃が灌頂院の門をくぐる
大阿闍梨一行が最後に入堂される
灌頂院の中に入られる衆僧と大阿闍梨
灌頂院の門扉が閉められ、いよいよ後七日御修法が始まります。ここからは非公開での密教の修法が、7日間で21座営まれ、国家の安泰、玉体安穏、五穀豊穣、そして世界平和が祈念されるのです。
勤仕されるのは真言宗各本山を代表する高僧の方々ですから、かなりご高齢の方も多く、暖冬とはいえ、夜や早朝は冷え込むこの時期の長丁場でのお籠りは、さぞお身体にも厳しいものではとつい案じてしまいます。
どうぞ無事に結願の日を迎えていただきますようにと、閉められる門扉の音を聞きながら、思わず手を合わせておりました。
さて14日、結願の朝、再び高橋さんと東寺を訪れました。この日もうららかな日差しのある暖かい日でしたが、7日間の間には、かなり冷え込んだ時期もありましたので、やはり連日のお勤めは過酷な修行の日々であったろうと推測します。
毎日繰り返されてきた10時のお出ましですが、今日は結願のための最後の上堂となります。
結願の後、天皇の御衣を壇所から持ち出すにあたって、宮内庁から勅使と女官がお出ましになります。じつは、勅使は中日にあたる11日の加持香水に際しても献香のためにお出でになっています。
御衣と香水が加持されて天皇のもとに届けられるまで、その要所要所で勅使のお勤めが果たされていることに、改めて思い至ります。
勅使と女官が壇所に入られたのち、間もなく御衣は灌頂院から持ち出され、本来は御影堂に渡されるのですが、この度はやはり大日堂へ捧持されました。加持を終えた御衣は、ひととき「お大師様」のお側に置かれるのです。
勅使と女官を灌頂院へご案内する一行
勅使と女官が灌頂院へ
灌頂院堂内へ入られる勅使
堂内の壇所へ入られる勅使と女官
大日堂前に整列した関係者
御衣を渡された大日堂
さて、急がねばなりません。灌頂院は破壇ののち、お参りの方々に公開されるのですが、これは長蛇の列になっています。あいにく堂内は撮影禁止となっていますので、壇所をお見せすることは叶いませんが、堂の外観をご覧いただきましょう。
壇所の公開を待つお参りの方々
壇所公開中の灌頂院 勅使一行はこの南側から入堂されました
後七日御修法の壇所公開の時のみに授けられるお守り
もうひとつお正月に宮中へ想いを寄せることがらとして、今回取り上げるのは、「歌会始」のお題に因んだ「お題菓子」です。
老舗和菓子店などで「お題」を歌ではなく和菓子で表現しようと毎年創意を凝らして作られるものです。
初釜などでは、花びら餅を召し上がる方も多い京都ですが、お正月には「お題菓子」と決めておられる方もあります。羊羹など日持ちのする素材で作られる「お題菓子」は、12月から1月上旬まで販売されることが多いのですが、日持ちのしない上生菓子は、大晦日と、正月明けの注文しか受けられないというお店もあります。
宮中で皇族や公家を中心として行われていた「御歌会始」が、広く国民に歌を公募して「歌会始の儀」として催されるようになったのは、昭和22年(1947)からのことです。そのお題は、毎年、漢字一字が選定され、読みは自由ですが、必ず歌の中にこの字が入っていることが求められます。
今年のお題は「光」。今回は老松さんのお題菓子をご紹介したいと思います。まずは上生菓子のきんとん「曙光」です。曙光とは夜明けの光。新年、そして新元号が定められる新しい世を間近にしたこのお正月にふさわしい菓銘です。
つくね芋の白いきんとんに、光のきらめきを優しい彩りの寒天で表し、まさに爽やかな「曙光」を作り出しています。つくね芋の滋味ある旨味を、私はとくに好みますので、この時期によく作られる同種のきんとん「雪餅」も大好きなのですが、「雪餅」は黄身餡が基本です。「曙光」は、滑らかで甘みを控えた漉し餡が用いられていて、黄身餡とは違ったさらに上品なお味に仕上げられています。
「曙光」
中は、上品な漉し餡
「御題菓 月の光」
「御題菓 月の光」
そしてもうひとつ、老松さんでは「御題菓 月の光」という羊羹もお作りになっています。なんと美しい羊羹でしょうか。少し柔らかい仕立てで、下半分には細かくした栗を入れた羊羹、上半分には小豆の羊羹、そして、表には暗闇の中に光が浮き立つような金箔が散らされています。一人前に切り分けると、さらに栗羊羹の黄色、小豆の色と金箔が絶妙のバランスとなります。夜を表しながらも華やかなお正月のめでたさも十分に備えた姿です。
「御題菓 月の光」の外装
外装のかけ紙には歌が記されています。
月読みの光を清み神島の
磯みの浦ゆ船出す我れは
万葉集巻一五−三五九九
作者未詳
ここにも、清らかな月の光の中、新しい世に船出する意が汲み取れます。そういえば、あの金箔が水に揺れる月光のようにも見えてまいります。
「光」をどう解釈して、和菓子に形作るのか、その鮮やかな答えを見事に見せていただいた思いです。
さて、今年の「歌会始の儀」は、今上陛下最後のお出ましとなる歌会と聞き、NHKの中継を拝見しました。さすがに印象深い歌の数々が披露され、聞き逃すまいと書き取りながらの視聴でしたが、最後に天皇の「大御歌(おおみうた)」が詠み上げられ、 NHKの解説が入って、ハッとしました。「今日は16日。そして明日は17日、あの日だった」と。
贈られしひまはりの種は生(お)ひ揃ひ
葉を広げゆく初夏の光に
阪神大震災の被災地でもらわれたひまわりの種を皇居に植えられ、その成長の姿を詠まれた御歌であったと知って、のんきな気分でお正月を送っている自分を省みつつ、あの時の出来事が、鮮やかに蘇ってきました。
常に災害に傷ついた人々を忘れず、そして復興を象徴する光に未来への希望を詠まれた御歌に、心が震えました。
どうぞ、お心やすい日が続きますように、そして末永いお身体の安穏を祈ってやみません。
老松北野店
住所 | 京都市上京区社家長屋町675-2 |
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電話番号 | 075-463-3050 |
営業時間 | 9:00~18:00 |
お題菓子販売期間 | 12月26日~1月中旬(要問合せ) |
定休日 | 無休 |
価格 | 曙光 1個432円/御題菓 月の光 1本2160円(ともに税込み) |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。