祇園祭の宵山と占出山(うらでやま)の吉兆あゆ —安産のお守りはこれより出ますー大極殿本舗 吉兆あゆ [京の暮らしと和菓子 #14]
- 栗本 徳子
- 高橋 保世
7月初めの豪雨の後、京都はすぐに、これまた経験したことのない酷暑に見舞われています。こうした自然の猛威にさらされても、京都の7月はやはり祇園祭のひと月です。
1年前の7月の本コラムでも書きましたが、山鉾町の生まれではない私ながら、高校から大学の頃は、いわゆる「鉾キチ」と言われるほど、山鉾建てが始まる10日頃から、町をうろつき回っていたものです。
そして7月16日宵山の日は、昼間は山鉾町を訪ね歩き、一旦伏見の家に帰って、浴衣に着替えて出直します。伯牙山(はくがやま)の町内の親戚の家で夜の宴に紛れ込んで、お腹が満ちたら、宴席のお客様の何人かと宵山に繰り出すというのが、当時のお決まりでした。
この夜の山鉾町一帯は午後6時から11時まで歩行者天国となり、四条通りは人で埋め尽くされ、少し道幅の狭い室町通、新町通は一方通行になります。人気の鉾の周辺では身動きもままならない場所さえありますが、それでもやはり宵山は特別です。
辻々に違った鉾からのお囃子が、時に混じり合い、あるいは風にさらわれ、遠く近くに響き合うのが、えも言われぬ趣になって聞こえてきます。高い鉾の上での囃子方の姿がどれほどカッコよく、まぶしく映ったことでしょう。特定の誰かというのではなく、浴衣姿の鉦を叩く、笛を吹く男衆に淡いときめきを覚えました。
各山ではお飾りをする町会所に詰める町内の人々も、祭りを受け継いでいる誇りと喜びを、その晴れやかな表情に湛えています。
地元でないところから来ている私は、祭りの当事者への憧れを感じつつも、山鉾町の人々が趣向を凝らして作り上げ、守り継いでいるもののそばで、最も輝いているそのときを見るのが、好きでした。
そして占出山の町会所では、愛らしい子どもたちの元気なわらべ唄が響きます。
「安産のお守りは、これより出ます
ご信心のおんかたさまは受けてお帰りなされましょう
おろうそく一丁献じられましょう」
今年の前祭(さきまつり)の宵山は、お世話になっている方の奥様がお二人目の出産をもうすぐにひかえておられるので、お守りをお届けしたいと考え、そしてあの子どもたちの唄声も聴きたくて、迷いなく一番先に烏丸通錦小路を西に入ったところにある占出山に出かけました。
占出山とは、神功皇后をご神体とする山です。神功皇后は、妊娠中にもかかわらず、朝鮮半島に出兵したと伝えられます。その折に石で腹を鎮めて出産を遅らせ、戦いの後、無事にのちの応神天皇を出産したと言います。またこの出陣の時、肥前国松浦川で、釣り糸を垂れて魚占いをすると、すぐに鮎を釣り上げられ、戦勝の吉兆を得たという故事が、この山の主題となっています。
会所で神功皇后をお祀りする
「鮎」は、中国ではナマズを意味する文字です。如拙の水墨画、瓢鮎図(ひょうねんず)はまさに瓢箪でナマズを捉える図ですから、この字がナマズとして使われている例です。日本では、神功皇后がされたようにアユを釣って魚占いをすることから、この字が国訓としてアユになったとされます。
まことに信じがたいような神がかった出産にまつわる故事をもとに、この山は安産の信仰で知られるようになったのです。
ご神体の神功皇后は、祭りの巡行時には衣装の下に腹帯を巻き、巡行後に、この腹帯の授与をうけて、安産祈願とすることも行われます。
その歴史を物語るように、会所には、安産のお礼として宮家、公家から届けられたという打掛が多数残されています。
会所には、三十六歌仙を総刺繍した水引《天保2年(1831)》や「双龍宝尽額牡丹に鳳凰文様」《寛政6年(1794)》の綴錦による見送り、日本三景を綴織で表した前掛けと胴掛け《天保2年(1831)》も飾られています。こうした技と贅を尽くした18世紀、19世紀の染織品を間近に見ることができるのも、会所飾りならではのことです。
じつは占出山には、このほかにもさらに古い見送りとして、たいへん貴重な明代に遡る「鳳凰牡丹円紋綴錦」(16世紀後半〜17世紀前半)も伝えられています。
こうした古くからの懸装品は、会所に設けられた立派な蔵に象徴されるように、町内の人々が、どれほど懸命に祭りを守ってきたのかの証であるとも言えましょう。山鉾町は、江戸時代の宝永、天明の大火、幕末の蛤御門の変に端を発する元治の大火など再三の火災に見舞われてきました。こうした火災で焼失した山鉾ももちろんあるなか、おそらく命がけで蔵の目張りをしたり、あるいは持ち出して避難したりという事態もおこったのではないでしょうか。占出山は、一度も祭りの道具、懸装品を焼くことはなかったと言われます。
蔵にはまた、多くの祭りに関する古文書も残されていると伺いました。いかに町内が祇園祭占出山の歴史を大切にしてこられたのかが偲ばれます。
そして、江戸時代の染織品の傷みをこれ以上進めないために、昭和の終わりから平成にかけて、順次、復元新調が行われてきたのです。現在は、当初はさもありなんと思える色鮮やかに復元された染織品が全て揃っています。
復元新調された懸装品の数々
町会所の外、錦通りの街路には、縄で組み上げられた山に駒形提灯がかけられていて、そのすぐそばに設けられたテントで、今回取り上げる「吉兆あゆ」が授与されています。
「吉兆あゆ」は、大極殿本舗のお菓子ですが、占出山が町内でお飾りをしている13日から16日の間だけ、ここでのみ販売されているものです。
夏の和菓子を代表する「鮎」を象ったお菓子は、他店のものもいろいろありますし、大極殿本舗のお店では初夏から「若あゆ」として販売されていますが、「吉兆あゆ」は、この時期に占出山町に来ないと求められません。
会所でも、粽とともに神功皇后の神前に供えられていたのですが、神功皇后の釣り上げた鮎の吉兆に因んだ祇園祭ならではの菓子となっています。
吉兆あゆ
吉兆あゆの包みを解き、竹皮を開くと、甘く芳しい香りがすぐに立ち上がります。卵がたっぷり入ったカステラ生地の香ばしく焼けた香りです。この薄皮をエラの部分を折りたたみ、尾びれの手前で腹の方にくびれを作って尾の方へ反り上がった形にするなど、ひとつひとつ手作りで鮎の姿を成形されていることがわかります。そして目や口、胸びれあたりから尾の方へ走る側線を焼ごてでシンプルに表しています。
よく似た鮎の焼き菓子では、もっと皮が厚くエラも焼ごてで表し、細長い単純な形のものが多いのですが、このように、エラを折りたたんだり、体の反りを立体的に表したりするためには、生地の皮はかなり薄めでなければできません。薄いけれど、しっとりとしかも香り高いこのカステラ生地の風味は、さすがに大極殿本舗さんです。
創業は明治18年(1885)で、当初は「山城屋」という屋号で開業されたのですが、2代目が、長崎でカステラ作りを学び、明治28年(1895)に、いち早く京都でカステラの製造を始められたと言います。そして平安神宮献上菓子「大極殿」に因んで、現在の店名に変わったのだそうです。
その美味しい生地の中にたっぷりと包まれた白い求肥は、硬すぎず柔らかすぎず絶妙の食感で、しかもカステラ生地とともにスッと口どけしていきます。
鮎の菓子は同種のものがたくさん出回っていますが、やはり大極殿本舗さんのものは、格別です。まして、占出山の祭りの菓子としていただく「吉兆あゆ」はなおさらの事です。
さてさて、もう少し宵山を楽しみましょう。宵山といえば、ぜひご案内したいのが、日和神楽(ひよりかぐら)なのです。
これは、翌日の巡行が良い日和となるようにという祈りを捧げるために、山鉾の役員をはじめ、囃子方も山鉾を降りて、台車に鉦を吊るし太鼓をのせ、祇園囃子を奏しながら、御旅所や八坂神社へ歩いて向かう行事です。午後9時半頃から10時すぎまで、順次お囃子を持つ山鉾が町内を出発します。
前祭りの場合、長刀鉾のみが八坂神社まで向かい、他の山鉾(函谷鉾・鶏鉾・菊水鉾・月鉾・放下鉾・船鉾・岩戸山・四条綾傘鉾)は四条寺町の脇にある御旅所に向かいます。今年の宵山は、長刀鉾の日和神楽についていくことにしました。
八坂神社の舞殿には、明日の夜の神幸祭に向けて、すでに三基の神輿が収められています。写真撮影の高橋さんと私は、四条大橋を渡ったあたりから、祇園町の歩道をひた走り、長刀鉾より先まわりして八坂神社の舞殿前で、長刀鉾の到着を待ち構えることにしました。
長刀鉾の日和神楽は舞殿の前に位置する八坂神社の南楼門から入ります。そして神輿の前に台車を運び、神官様のお祓いの後、長刀鉾の囃子方の神楽が奏されます。この神楽の出だしのゆっくりとした調べが私はとくに好きで、いつも聞き惚れてしまいます。
八坂神社 南楼門から入る長刀鉾日和神楽
長刀鉾の神楽
こうして御祭神の前で巡行の日和を願っての神楽の奉納が終わると、皆が神社から直会の一献を頂戴し、その後に向かうのが、祇園町です。日頃お付き合いのある祇園の人々の無病息災を願って、八坂神社の帰りには祇園町で祇園囃子を奏でる慣わしとなっているのです。
祇園の町筋に入っていくと、おそらく長刀鉾の旦那衆のお馴染みの方々なのでしょう。お茶屋さん、芸妓さん、舞妓さん達が、門にでて出迎えておられます。そして次々に、振る舞いの飲み物、食べ物が配られます。
和やかにそれらを口にし、馴染みの女将さんらとやりとりしながら、ゆるゆると祇園町を練り歩く長刀鉾の方々に、京の旦那衆の華やかな粋(すい)の世界を実感するのです。
そして一力亭の関係者一同が門前でご挨拶されるのを受けると、日和神楽は四条通りを西へ戻っていきます。もう12時近くなっておりました。
翌朝、占出山の巡行の晴れの姿を出発前に見届けようと、8時過ぎに占出山町を訪ねました。朝5時頃から、御神体の装束を整えたり、山に懸装品を飾り付けておられていたそうで、もう既に全て準備は完了していました。
神功皇后は大きくしなった釣竿に鮎を吊り上げたお姿でお立ちになっておられます。
こうしてこの日の巡行は、極暑の中で執り行われました。無事に前祭の巡行を終えた山鉾は、町内に戻るとすぐ解体され、あっという間に跡形もなく片付けられてしまうのでした。この祭のとんでもない高揚感の後に、潔く日常へと戻っていく姿にも、京都の町衆の生き様と矜持を感じます。
けれども、伯牙山のお供をする叔父が言っていた言葉を思い出します。
「巡行が終わった途端に、もう来年の祭りのことを考えてる。そうやないとできひん祭りなんや」
大極殿本舗
住所 | 京都市中京区高倉通四条上ル |
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電話番号 | 075-221-3323 |
営業時間 | 9時~19時 |
「吉兆あゆ」販売期間 | 7月13日~16日 10時~21時 (占出山町会所限定販売) |
定休日 | なし |
価格 | 1200円(税込) |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。