「京都文藝復興」「藝術立国」を建学の理念とする本学は開学30年を迎えました。小山薫堂副学長が千宗室茶道裏千家家元を迎え、世界に誇る日本の伝統文化が現代の社会においてどのような意義と果たすべき役割があるのか、そして京都から発信するべきことは何かを語り合いました。
小山 私は必ず月に2回、東京から京都に来ます。そのとき新幹線で楽しみにしているのは、月刊誌に家元が連載されているエッセーなのです。自然の営みをテーマとして、季節の移ろいを繊細に描写されています。あの文章はお茶の道を歩み続けているからこそ生まれてくるものなのでしょうか。
千 私の表現は海外文学の影響を受けています。子どものころから母が本をたくさん与えてくれました。気に入った本を繰り返し読むのが好きで、特にドイツの散文詩がお気に入りでした。そこから日本の和歌などに目を向けると、海外文学とはまったく違う、切り詰めた言葉の中にさまざまな色合いが感じられる独自の表現があることを知りました。『和漢朗詠集』などをひも解くたびに、日本の歌心も自分の中に取り込んでいったのだと思います。
小山 教養の深さに感服しますが、それは意識して勉強されてきたのでしょうか。
千 私が生まれ育った地域は、京都の中でも寺院が多い土地でした。墓地が見え、風が強い日の翌朝には卒塔婆が好き勝手な方向に倒れていたことを今でも覚えています。夕方、学校帰りに同じ場所を通ると、今度は卒塔婆が西日を浴び、まるで立ち枯れた木のようなシルエットを伸ばしていました。そういった風景を切り取って、心の中に納めておくような作業をしていたのかもしれません。
小山 同じ景色を見ていても、見ているものがわれわれと違う気がします。
千 私は、人以外のものを見ることが好きでした。小山さんは、主に人を見てきたのだと思います。興味を持って見れば、見えるものはおのずと増えていくはずです。
「人の想い」そのものが文化
小山 家元の人やモノの見方は、茶道で長く研鑽を積んでこられたことが影響していますか。
千 私は茶席の静謐さがとても好きです。海外から来た人に茶室を説明すると、「遺跡なのか」と聞かれることがあります。遺跡は息絶えており、静かな眠りについている場所です。一方、茶室は多くの先人が守り伝えてきたおかげで、ずっと生きています。今も同じ場所で、先人たちと同じような日々を送らせてもらっていることに感謝し、いつもお茶をたてています。
また、神社や寺院の前を通るとき、柏手を打ったり、手を合わせたりする祖母や母の姿を子どものころから見ていました。同じように振る舞う気持ちにはなれないと感じていましたが、結婚して家族ができ、子どもにも恵まれると、知らず知らずのうちに自分も同じことをしていましたね。神社や寺院は大勢の人が何百年も守ってきた尊い場所です。そこで感謝の気持ちを表すのは、私が茶室に抱いている心情と同じだと気付いたとき、文化とは何かを納得することができました。
許し合えるのが「茶の湯」の心
小山 少し前のエッセーには、「神社にお参りするときには国の繁栄をまず祈る」と書かれていました。「自分の想いだけを祈念していたら、それによって廻りまわって人の幸せを取ることがあるかもしれないが、国の繁栄を願えば、それがいつか自分にも巡ってくる」と述べられています。常に相手や周囲をおもんぱかるというのは、やはり茶道の考え方が軸にあるのでしょうか。
千 「茶道が良いか悪いか」ではありません。茶の湯で私が良いと感じる部分が、ある人にとっては嫌だと感じる部分かもしれません。悪い部分をも包含して、まあいいかと許し合えるのが茶の湯であり、大切なことだと考えています。
小山 許し合うということは認め合うということでもあるのでしょうか。
千 そうです。お互いに少しずつ辛抱し合うことも大切でしょう。畳1枚に3人が座るとしましょう。そのとき、均等に割る感覚を3人が持っていないといけません。畳の目の一つ分(約3㌢幅)ぐらいなら大丈夫と思うかもしれませんが、そのスペースを取られる立場になったらすごく狭く感じるはずです。畳の目一つで人間関係が取り返しのつかないことになることもあります。
小山 日本文化の象徴として、「おもてなし」という言葉が昨今よく使われますが、私が茶事に招かれて感じたのは、もてなされる側のリテラシーが高くなければ、成立しないということです。おもてなしは対等な関係が前提となるのではないでしょうか。
千 茶の湯を初めて体験する人は、不安を抱いているかもしれません。お招きする側としては、その不安を感じさせないようにしなければいけません。ただ、そこにあるのは「こうしなければいけない」という「ルール」ではなく、亭主と客が互いを敬い、その場を心地よく共有できるような気配りとしての「マナー」です。双方がともに謙虚になることで成し得るのが「おもてなし」。茶事に招いた方が後で振り返って、足はしびれたけど面白かったね、なんてふうに思い出してもらえれば嬉しいですね。
教養を生む源泉は文化や芸術
小山 インターネットの普及により、欲しい情報や知識にすぐアクセスできるようになりました。ただ、それによって、他者の立場や感情に思いを巡らせ、配慮する力を養いづらくなったように感じます。「教養は人を許すためにある」と言った知人がいますが、教養を生む源泉は文化や芸術だと思います。先ほどの茶の湯での相手を想う考え方のように、日本文化が培ってきた利他の精神に目を向けることが重要ではないでしょうか。
千 そうですね。私は情報端末を使う人が「これで十分だ」と思ってしまう心の動きも気になっています。目的地を検索し、案内に従って到達してしまえばそれで満足し、目的地に何があって、どんなたたずまいで、どんなことができるのか知らないままに帰ってしまう人が多いように感じます。今の時代は、ある答えを得て理解したと思っても、その答えをもう一度掘り下げてみることが必要でしょう。伝統文化は所作に型などがあり、時として形式的で堅苦しいものだと敬遠されたりしますが、すぐには分からない、実際やることにより段々とその意味が分かってくる、そんな側面が今の時代に文化や芸術に目を向ける必要性を示しているのかもしれません。
小山 社会の行き詰まりや「昔はもっとよかった」というような声もよく耳にします。どんな時代でも言われてきたことなのではないかと私は思いますが、どのように思われますか。
千 自然に新たに生み出されるものが少なくなってきている気がします。今は創造性が枯渇しかけている時期なのかもしれません。ただ、文化は井戸と同じで、地下水脈が絶えない限り干上がってしまうことはありません。小山さんはどう考えられますか。
小山 古代ギリシャの哲学者エピクロスが唱えた快楽主義は、目先の快楽を追い求めることだと思っていましたが、よく勉強してみるとそうではなく、最後に幸福にたどり着くことだと知りました。コロナ禍という危機に直面したことで、これまで見過ごしていた幸せに気付いたり、当たり前だったことが特別なことだとあらためて認識したりしました。そんな現状を打破しようと努力し、苦しみながらも這い上がろうとする姿勢は、快楽主義ともつながると思います。
千 19世紀の近代ドイツでは、身近なものに目を向ける「ビーダーマイヤー」と呼ばれる市民文化が生まれました。同じように、まずは日本人が、日本の歴史や文化に触れることが大切で、「思いやり」と「感謝」の心が自然にはぐくまれていくような教育の取り組みが進められることを願っています。
次世代に文化・芸術を伝えていく
小山 2022年を迎えた今も、世界各地で紛争は絶えず、地球環境などの問題が山積しています。持続可能な社会を築くことが大切だといわれるなか、日本の文化こそが、その大きな示唆になるのではないかと思っています。「藝術立国」を理念に、世代や地域を超えた文化芸術活動を広めることを命題とする大学として、次の時代へと文化や芸術を伝えていくことは、個々人の幸せはもちろん、社会全体の幸福に資することだと考えています。
千 そうですね。次世代への「学びの場」を提供することはとても大切です。文化が遺跡となってしまわぬよう、次世代の方たちへバトンを受け渡せる架け橋とならなければいけません。100年後にこの街がどうあってほしいかを考え、その土地や地域にかない、社会に寄与する文化をこれからも伝えていきたいですね。
ただ一方で、人間の欲求にはヒエラルキー(段階)があることも忘れてはいけません。最も基本的な欲求は生きることに関することです。欲求が満たされていくごとに段階が上がります。その頂点にあるのが美や文化芸術に対する欲求ですね。まずはしっかりとその欲求を満たすことのできる社会、地域の基盤が必要です。大学に入ったからといって、すぐに文化や芸術を知り、その頂点の幸せが得られるわけではありません。個々人が学校でしっかり学び、社会に出ても学ぶ気持ちを忘れずに精進を続けていくこと、そういった人たちの集まりが次の日本をつくっていくのでしょう。
学び続けてたどり着く「幸せ」
千 近頃は何にでも即効性が求められるようになりました。しかし、食事にしてもエネルギーへと変わるには時を要します。文化は、いわばサプリメント。すぐに効果は目に見えませんが、続けていくうちに確実に未来のどこかで生きてきます。学ぶ姿勢を持ち続けていれば、いつか学校で身に付けたことが役立ち、芸術や文化を嗜むことに幸せを感じることができるようになるのでしょう。
小山 学ぶ姿勢ですね。京都はそういった意味で、学び続けることのできる文化や芸術の集積地です。京都発の日本の伝統文化・芸術に携わる大学として、文化や芸術活動が持つ人と人とを繋ぐ力で、「学ぶ姿勢」を持った人たちが多く生まれる社会に貢献していきたいですね。そのことにより「京都文藝復興」、「藝術立国」の具現化を目指していきたいです。
千 「学ぶ」ことの第一歩は「見る」こと。そこから始まります。ウイルスとの共存が求められる日々の中で、今だからこそ手に入れることができる喜びは何かを考え、自分の心や身体が本当に求めているものや場所を見つけられるようにならなければいけません。そのためには、何が幸せかを判断する物差しを個々人がしっかり持つこと、文化や芸術を通じて得る「教養」がそれに寄与することでしょう。利休居士より受け渡されてきた茶の湯は、心の中にある「三毒(貪欲(とんよく)、瞋恚(しんい)、愚痴(ぐち))」を捨てて一碗(わん)の前に座するところから始まります。この茶の湯の根本を通して、さまざまな日本文化に触れていただけるよう努めてまいります。
小山 文化や芸術は温故知新。どのような時代でも文化や芸術が私たちとともにあり、実践できることを見つめ直していきたいと思います。今後とも茶道や華道などの伝統文化と私ども芸術大学の相互連携を何卒よろしくお願いいたします。本日はありがとうございました。
(撮影:高橋保世)
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。