本学瓜生山キャンパス内にある美術展示ホール「Galerie Aube(ギャルリ・オーブ」では、通学部在学生・卒業生を対象とした公募展を毎年開催しています。
例年であれば、応募者からの自由な企画をギャルリ・オーブ運営委員会にて審査し、2〜4名(またはグループ)が選出されますが、今年度は新型コロナウイルスの感染症拡大の影響で前期授業がオンライン方式となる中、学生たちは自宅を中心に制作を行う日々を過ごしているため、公募テーマを設定し、在学生、卒業生、教職員から広く作品を募集することとしました。
結果、美術工芸をはじめ、映画や文芸表現、情報デザインなど、さまざまな領域の作品が集まりました。以下、ギャルリ・オーブ運営委員の髙橋耕平先生による展覧会ステートメントとともに、会場の様子と展示作品を紹介いたします。
⼈間は⾃らの種を延命させるために過去様々な選択を強いられてきたが、COVID-19の感染拡⼤に於いても、⼈的接触の禁⽌、外出禁⽌、都市封鎖、国交の制限まで選択は徐々に規模を広げていった。これらは⽣き延びるために⾃由より安全が優先された結果であり、選択であった。⽇本でも政府や⾃治体から「⾃粛」が要請され、⾃主的に引き籠もる時間が⻑く続いた。
その経験は現在も個々の意識下に潜在しており、⽇常の⾏動を変更させるに⾄る。
⼀⽅で⼈間はタフである。状況を整理するように努め、先を予測し、状況に名前をつけ、未来のあるべき社会の姿をシミュレートする。「アフターコロナ」「with コロナ」「ソーシャルディスタンス」「おうち時間」等、危機に直⾯しながらもCOVID-19を消費しようとする強(したたか)さを兼ね備えている。「コロナは我々に何をもたらしたか」という総括的議論が各分野で⽇々⾏われ、オンラインコンテンツが充実していく。しかし誰がみても我々はまだ渦中にいる。
私たちはこの状況下で個々にどのような時間を過ごしているだろうか。何が変わり、何が変わらないのか。何を考え、何が考えられていないのか。何が炙り出され、何が忘却されているのか、何を恐れ、何に希望を⾒出しているのか。この状況を象徴し結論づける作品を集めるのではなく、この状況を考え続けるための作品を公募する。造形的、芸術的な⽅法によって今と未来を考えるために。
作品募集にあたって(2020年7月31日)
⽂:髙橋耕平(ギャルリ・オーブ運営委員/美術⼯芸学科)
岩田 空 Iwata Sora
映画は、視覚情報の映像を失ったとき、映画ではなくなるのだろうか。
映画体験とは、ある一定の暗闇の空間で大きなスクリーンに投影された映像を見ることだと思う。これが、今や技術の発展で家で映画を見ることが主流になっている人も多くなり、昨今のCOVID-19の感染拡大の防止から一時映画館が入場禁止になり、大きな広場に車で集まり、車内で映画を鑑賞するシステムも出現した。映画館という空間の必要性の欠如である。では、映画は心を動かす映像さえあれば映画として成り立つのだろうか。
私はこの疑問に焦点を当て、映画における視覚情報を全て、文字と空白に置き換えた空間を作り上げる。
映画製作の手順(企画立案→プロット作成→脚本作成→撮影→編集)をもとに、脚本を作り、その脚本から発想されたポエトリーの製作を〈撮影〉段階とし、〈編集〉の段階をタイポグラフィの展示に置き換え、文字と空白の空間を作り出す。 展示を見た人の心の中に何らかの心象風景を与えられたとき、それは映画となりうるのではないか。
人間には想像力があり、想像から不安が生まれ、希望することもできる。人間には言語という巨大な表現があり、言葉で人の心身を動かすことできれば、言葉に安住することもできる。私は人間ひとりひとりの言葉と想像力の可能性とその力強さを信頼していたい。
王 淡月 Wang Danyue
出射 優希 Idei Yuki
上村 裕香 Kamimura Yuka
中村 郎子 Nakamura Urarako
なくなることの隣で。コロナ禍でなくすこと、なくなることが以前よりずっと生活に迫ってきた。しかしなくすこともなくなることもコロナの前から本当はずっと隣にあるものだった。なくすことだけじゃない。ずっと隣にあった、見えていなかったものが見えるようになった。この作品ではわたしたちの暮らしのなかで、なくなることの隣で見えてきたものを文芸で表現した。
見えていなかったものは、友達と遊んだり授業を受けたり実家に帰ったりといった日常の尊さ。死と隣りあわせにあるという感覚。奪い合い押し付け合う人々の醜い一面。それらはわたしたちの暮らしのなかにこれまでもあり、これからもあり続ける。この作品では暮らし・社会を考え続ける、その思考を文芸に託した。いまわたしたちが考えていることを文芸の言葉を通して伝えることで、未来についても共に考えていきたい。
この作品ではなくなることの隣にあるものとしての暮らしを考えてほしいという以外にもう一つ願いがある。それは文学を体感してほしいということだ。
本を開き文字を追うのとは違う、読み手がその作品の前に立ち、様々な角度から文字を読んでいく文学。今回は立方体を宙吊りにするという形式を選んだ。読み手によって読み始める面も、順番も違う。文学に接するときの能動性をさらに高め、体感する文学を味わってほしい。作品では四人が詩、小説、短歌などをそれぞれに書いた。写真と合わせて日常を描くもの、文章によってフォント・大きさを変えたものなど様々な表現によって、私たちの思考や時間を具現化した。
王 耀林 Wang Yaolin
自粛中、暇潰しとしての読書が続いており、敬愛する小説家の三島由紀夫さんの著作を何冊読んで幸せだった。最も好きなのは『金閣寺』だ。今回の作品は、意識と客体の矛盾、あるいは美と虚無の同調が全文を射貫く禅宗の公案「南泉斬猫」を緒とする。自然または人為の災難、美と生、主体と客体など、二元的な「表象」についての作品だ。紛らわしい概念に併せ、段ボール、染め糸、印刷物それぞれ異質の材料で制作した。
小説の文脈を間接的に推測すると、猫はまだしも、有為子から金閣までの全てが、所詮「美」を象徴するに過ぎない。美への執念、そして物質を破壊しようとする供犠が条件となり、形而上的な精神永存を求めようという生の執念は、まるで二元対立のようだ。大変な常態に面する時、どう扱い、どう生きるかを決める前に、生存意志を侵食する「美」というのは「表象」なのだ、と理解の必要性があると判断していた。我々を苦しめるのは、唯の物理的な「死」以外、主体性による客観的な理性でもあるだろう。
「我々が認証している存在とは『モノ』ではなく、唯の経験なのだ。物自体は認識できず、存在するにあたって、我々の主観に依存しないことだ。」というドイツの哲学者イマヌエル・カントの観点を受け直し、ショーペンハウアーは主著『意志と表象としての世界』によって、意志(主体性)と意志の客体(客体化の意志=表象)を対立させ、さらに「歴史は万華鏡のように、動かすたびに新たな形を見せる」と評している。悠久の歴史に、疫病なんて少なくなかったが、破壊力に敵わない創造力である時、その時こそは本当の終焉かもしれない。晒されの物は、いきなり生み出すわけもない。ずっと闇に潜めているだろう。
本作は、自分自身の読書記録物だと言える。今の気分ってなんだね。『金閣寺』の一節で終わらせよう。
「裏に向ひ外に向つて逢著せば便ち殺せ。佛に逢うては佛を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。物と拘はらず透脱自在なり」
岡 はるか Oka Haruka
空間性や時間性、物質性が違うものを写真の中に重ね合わせることはできないか。
自粛期間が明けるまで、外に出るのは家、学校、アルバイト先、スーパーの限られた場所だけで、家の中で写真を撮っていた。こうした一定の日常サイクルを送っていると、どうも生活が平べったいように感じてしまった。いつもより家にいる時間が長くなり、家のことを済ませて、ただぼーっと外を眺めることが増えた。一日中窓の側で作業をしていることもあり、部屋の外で空の色の変化と時間の経過が体に刻まれているのを感じた。そんな時、窓に反射した部屋の中の像と隣のマンションが重なって見えた。写真を撮ると、反射した像と奥に見える景色は違う時間が流れているように見えるが、一つの景色の中に写っていて、別次元の空間が広がっているようだった。
物質的に平面である写真の中で、写真の中だからこそ見せられる空間の広がりがあるのではないか。現実(三次元)では交わらない目の前の空間と、それ以外、カメラの後ろ側の空間が写真の中(二次元)では重なり、一つの景色として見ることができる。物質性の違うものや時間の流れが違うものを一つの景色として表すこともできると思う。カメラのファインダーを覗いて、シャッターを切っているのは私だけれど、写真の中の景色は私の身体を持って見られる景色とは違うため、今まで知らなかった新しい発見や何かを思い起こさせるくれる。カメラという第三の目を通じて、目だけでは見ることのできない新しい平面での空間を捉えて行く。
亀井 佑果 Kamei Yuka
ふとした瞬間に、学校を休んだ時に見たテレビ番組や、両親と行った旅行先で見た景色など、何気ない昔の出来事を思い出すことがあります。この時の、温かいような、少し寂しいような、なんとも言えない感覚が、私はとても好きです。日々の生活の中の些細なことから、今の自分の幸せを感じられるような気がするからです。芸術の最も大きい力は、作品を観てくださった方の気持ちを動かすことが出来る点だと思います。私も、作品を観ることでその人が日々の温かさを感じられるきっかけになるような作品を目指していきたいです。
今回の作品では、施設で暮らす祖父を描きました。
祖父は、穏やかで、とても静かな人でした。私がまだ小さかった時、「綺麗な石が欲しい。」と、祖父に頼んだことがあります。すると祖父は、自分で拾ってきた石にひとつひとつ絵具で色を塗って渡してくれました。自分が求めていたのはこれじゃないと思いながらも、ありがとうと受け取った記憶があります。祖父は、私の言うわがままに、いつも丁寧に向き合ってくれていました。
私が中学生の頃、祖父は脳梗塞になりました。躁鬱病という精神病だったこともあり、不安定な時期に入ると、意思疎通が上手く出来ないストレスから祖母に手を上げるようになりました。私は、だんだん昔の祖父が思い出せなくなっていました。この頃の祖父は、もう私の好きな祖父ではありませんでした。
今の祖父は、自由に外を歩いたり、山の景色を楽しんだりすることはできません。昔のように会話もできません。見た目は以前の祖父と同じですが、目付きは別人です。きっと、祖父の目に映る私も、もう私ではありません。祖父が今まで何を見て、何を感じていたのか、かつて彼がそうしてくれたように、丁寧に祖父のことを想いながら描きました。
関 仲元 Guan Zhongyuan
中国語で「門鏡」とは、外部を観察できるようにドアに設置した小さな穴、つまりドアスコープのことである。それは人に安全感を与える光学機器でもある。現代社会において、一人暮らしはごく普通のことだ。生活的な面だけではなく、精神的な面においても「一人暮らし化」は進んでいる。テンポが速い日常や急速に発展する科学技術などにより、人々はわだかまりに満ちた内的世界を養うようになった。人と人の間には超えられない門鏡があり、一部は見えるがそれがすべてではない。自分自身の心との間にも同様に門鏡が存在しているのかもしれない。新型コロナウイルス感染症の影響によって、ますますそうした門鏡の存在が明らかになってきたと思う。
新 正春 Shin Masaharu
過去から未来にかけて存在するペインティングの多様性の幅を小瓶に例えてみよう。
過去の作家たちはこの瓶の中に様々な形、大きさの石を投げ入れた。小瓶の大きさや深さを測るためだ。石は投げ入れられた順番に積み重なるので、底にいけばいくほど古く、瓶の口の近くには最近投げ入れられた石が見える。
小瓶を横から見たとき、投げ入れられた様々な石はときどき1つの連なりように見える。石がぴったりとはまるように削ったのか、はたまた偶然か。1つ1つの石が接点によって繋がっていき線のように見える。同じ石でも小瓶を回せば今まで見えていなかった石とも接していて、それがまた新しい線に見えることもある。
もうすでに小瓶はいっぱいで、入りきらない石は瓶の周りにあふれかえり、新しい連なりを見せている。しかし、今はまだ見えていないかもしれないが、あふれた石がある場所もまた小瓶より少し大きな瓶に違いない。いずれ限界が来る。
小瓶にはもう余地はないのだろうか。よくよく瓶を手にもって見てみると石と石の間に隙間が見える。瓶の口からのぞき込んでいた時には見えていなかった。石の連なりも面白かったが、隙間が作り出す形も案外面白い。この隙間に金属を流し込み、石を燃やして取っ払ったらどんな形が見えてくるのだろう。
“BOX”は彫刻的ともとれるし、絵画的ともとれる。彫刻としてみるならベニヤで作られた枠の外側にも目を向けることができ、絵画として見るなら視線はベニヤの内側に収束する。
Rema
学部時代から骨董屋で働いてきた経験より、自分の命より存えるモノへ興味を持ち、朽ちながら存えるものの素材研究を行ってきた。同時に文学からサンプリングした物語と自身の物語を交差させることから派生したイメージの化身を古木や植物など、様々なマテリアルへ施しながら制作を行っている。
2020年度に入り、自粛を強制される環境下にいたが、普段から活発に行動する体質だったため家に引きこもる事が難しかった。ある日、部屋から見える山景に触発され京都の北東面の登山を始めることにした。
素人でありながら一人で行う登山は、これまでの連続感のある日常とは断絶されていて、判断を間違えばすぐ死を選べるほどに危険と対立し、その反面生命に囲まれる多幸感に満ち溢れていた。
ある時、下山の途中道を失い不安に包まれながら、落ち葉に腰を下ろし空を見上げた。
其処から見える光を通して見る植物たちの生気は、人間の殺伐とした世界と距離を作りだしてくれる不思議な力を有していた。自分がどこにいるのか分からない不安よりも、人間の世界から離れている安心感に、戸惑いながらも取り憑かれた。
植物を光を通して見る事。私はこの行為に、聖域を見出すトリガーのような可能性を感じている。
だから今日も、言葉にできない経験や物語のイメージを葉に施して、光を通して見る。人類が進化してゆく間に失ってしまった何かを、取り戻そうとする様に。
西 晃平 Nishi Kohei
未曾有の出来事により、私たちの生活は一変しました。その変化は個人の意識まで及び、私たちは新しい時代に適応することを求められました。そんな時代の流れにどこか違和感を抱きながら、自宅で作品の整理をしていたところ、自分が学生時代に『無邪気な子供心』をテーマに制作した作品が目に留まりました。
確かに未知の感染症によって今までと同じように生活ができなくなりました。しかし、どのような時代や状況であっても変わらない『自分らしさ』があることに、過去の作品から改めて気付かされました。
今回の展示は、当時の作品に『packing/unpacking』という要素を付け加えています。私は現在も制作を続けていますが、過去の作品が私に教えてくれたように、制作中の作品が何年後かに再び開梱され、未来の私たちに大切なことを思い出させてくれるよう、これからも想いを詰め込みながら制作を続けていきたいです。
【作品コンセプト】
この作品は、ティーンエイジャーを過ぎても変わらない『大人になりたくない』という私の精神を出発点としています。その気持ちの反面、年齢を重ね、責任を持つべき大人として生活をおくる必要がでてきました。
こうした私の内と外とのギャップに目を向けながら、パンクカルチャーと想像上のパンクスの幼少期を対比させてアイディアを発展させています。パンクスはグループを形成し、反体制や無政府主義を掲げていますが、彼らが幼い子供だった頃は聞き分けがよく、何に対しても従順だったと思います。きっと最初の友達は、モフモフなテディベアとカラフルなプラスチック製のおもちゃだったことでしょう。
そんな子供の遊び心、子供っぽさをこの作品では、お菓子の袋やおもちゃの装飾、子供服を解体したパッチワークなどで表現しています。作品の目的は、無邪気な子供心を忘れてしまった大人たちに『あの頃の淡い気持ちを想起させること』です。
私たちはあまりにも早く大人になってしまったのではないでしょうか。
武 欣悦 Wu Xinyue
新型コロナウイルスに対抗し始めて半年以上になったが、最近では「ポストコロナ」、「ウィズコロナ」のような新興語がよく見られようになった。この先しばらくの間、私たちの生活は元に戻ることができないことがわかった。写真を使って、ウィズコロナ時代で心身健康のために何ができるだろうか。
私が3月に京都に引っ越してきて、数日も経たないうちに、日本は自粛状態に入った。慣れていない環境で知り合いがいなくて、外出が制限されて、授業が延期されて、その時のストレスが酷かった。毎日窓を開けて夕焼けの山脈を見るのが一番楽しい時だった。そして、私はほとんど毎日、夕暮れの山を撮り始めて、《毎日の窓山さん》のシリーズになった。
窓から見える山なので、窓山さんと名付けた。私は小さい頃から身近なものに名前をつける習慣があったが、その名前があると言わずとも通じるここだけの秘密がある気がする。それで、私にとって窓山さんはもう山ではなく、コミュニケーションできる相手である。私が彼を撮った写真は、単なるポートレートではなく、毎日彼に書いたラブレターのようでもあった。毎日の雲と天気の変化は彼の気持ちのバロメーターだ。
今は、遠くの山を見るたびに、いつも穏やかな感じがする。霧の日に窓山さんが見えなくても、彼がそこにいることを知っていて、撮った写真は真白であっても、私が送りたいことを伝えているようだ。このような無言のコミュニケーションの中で、私はストレスから解放された。
松岡 柚歩 Matsuoka Yuzuho
今現在の状況下で私はやはり絵のことを考えていた。そして絵を描いていた。今までと変わらない生活のようにも感じるが、時間について考えるようになった。
一枚一枚に以前より時間をかけて向き合うことが多くなった。色、形、質感、それぞれの要素について考えた。
絵具を重ねることは時間を蓄積することである。絵具を混ぜ、流し、乾燥を待つ。だんだんと色が重なっていく。時間が形に変わっていく中で、やっと自分を取り巻く物事の整理ができていく。
自分が過ごす時間はこれからどれほどあるのだろうか。私は絵ができあがるのを待つように、静かに時間に流されている。
世界の状況が大きく変わっているが、私自身の生活にあまり変化はない。このまま何も変わらないまま、時間が過ぎていくのだろうか。
時間がなんとなく流れる事に不安を感じるように、目の前に映っているものが本当なのか不安に感じる。当たり前のようにそこにあるが、見れば見るほどどうなっているのかが分からなくなってくる。ものに触れたときに気づくことがたくさんある。温度や感触、そして痕跡。しかし、それらは⾒ることはできなくて、触れているのにどこか遠くに感じる。絵を描くときも同じだ。確かさを求めて絵を描くけれど、全てに触れることはできない。そのもどかしさはとても不安だ。だから取り零さないように拾いたいと思う。
現在は自分が見たことがある柄の要素を分解して、絵の具に置き換える作業をしている。柄から絵の具、絵の具から絵画という物質の移り変わりに違和感を覚える。しかしその違和感は心地が良い。
柄を絵の具で作り上げる。どこからが支持体で、どこからが描かれているものなのか。その揺れ動くものの移り変わりに魅力を感じながら制作している。
米村 優人 Yonemura Yuto
私は、特撮ヒーローやギリシャ神話の神々といった人智を超えた圧倒的な存在に対する憧れや興味から、粘度、石、FRPなど多様な素材を用い「超人像」と呼ぶ彫刻作品を制作している。「超人像」は、1つのパーツが単体の彫刻作品として成立しながら、ロボットが変形・合体をするように、展示空間やテーマに合わせ配列可能であるという特徴を持つ。また、インスタレーションとして展示する際は、彫刻の素材や技法だけでなく、その技法自体を可能にする工作機械やプロセスそのものを含んだ形で表現を試みている。その世界観は、幼少期の父親の影響で親しんだ昭和期のアニメヒーローの活躍、ロボットのメカニカルな変形やギミックの要素を再解釈し、物理的な関係性で語られる独自の物語の創出しつつ、痛みや恐れ、憧れ、畏怖の念等の内的な感情も内包することを模索している。
本作は彫刻のモチーフとして挙げられる“騎馬像”に着目し、本田技研工業が製造販売していたオートバイである『R&P(Ride&Pray)』というバイクのボディパーツ用いて構成した彫刻作品である。
(撮影:顧 剣亨)
うちなる時間の結晶なき混沌 ― 2020年度 Galerie Aube 公募展
日時 | 2020年10月2日(金)~22日(木)10時~18時 |
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場所 | 京都芸術大学 ギャルリ・オーブ 展示室1・2 |
主催・企画・運営 | 京都芸術大学 ギャルリ・オーブ運営委員会 |
広報物デザイン | 永戸栄大 |
アートディレクション | 見増勇介 |
出展作家 | 岩田 空、王 淡月、出射 優希、上村 裕香、中村 郎子、王 耀林、岡 はるか、亀井 佑果、関 仲元、新 正春、Rema、西 晃平、武 欣悦、松岡 柚歩、米村 優人 |
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連絡先: 075-791-9112
E-mail: kouhou@office.kyoto-art.ac.jp