京都造形芸術大学では広報誌『瓜生通信74号』を発行しました。「ことばをつむぐこと」と題した特集では、写真批評家で美術工芸学科学科長の竹内万里子准教授を紹介しています。
「見ることは謎めいている」と語る竹内准教授は、作り手の作品を見ること、それについて書くことによって、受け手の視点から写真というアートに対峙しています。「見る」という体験、「書く」という行為について、出発点にはいつも「わからなさ」があると言う竹内准教授に迫った本誌掲載のインタビューを、瓜生通信Webマガジンで紹介します。(本誌は本学人間館1階のインフォメーション横に設置)
「見る」ことを知るために「書く」
写真をどう見たらいいのかというのが、根本的な疑問としてずっとありました。撮ることについては大学卒業後に専門学校で勉強したものの、むしろ自分以外の人が撮った写真を「見る」ことの方が謎めいていたんです。でも写真史や写真論に関する資料を必死に読んでみても、目の前にあるこの写真を本当に理解できるかと言われると、やっぱり違うと思った。「撮る」ことではなく「見る」ことをもっと知りたいと思うようになって、自分の関心を探るために、おのずと文章を書くという方向へ向かっていきました。
大学院を出た頃、「書かないか」と声をかけてくださった雑誌の編集者がいたのですが、自信がなくて一年ぐらいずっと断り続けていたんです。それでやっと恐々引き受けた初めての仕事が、写真家の高梨豊さん¹のインタビューでした。その後さらに別の雑誌でも書くようになって、写真展や写真家、写真集について書いたり、海外の写真フェスティバルを取材したりして、たくさんの文章を発表しました。そのうち専門学校や大学から写真史の授業を依頼されたり、美術館の客員研究員などとして展覧会の企画制作にも携わるようにもなったり、様々な仕事に恵まれて「うまくいっている」と言っていい時期がありました。
でも、正直自分はまだまだなのに、あまりにも仕事に恵まれすぎていることに違和感を感じ始めました。いつの間にか自分が予定調和的な業界の一つのコマになっているようにも思えてきて居心地が悪くなり、仕事がうまくいけばいくほど息苦しくなっていきました。そこで三十代半ばに、いったん誰も自分を知らない世界へ行こうと、すべてを捨てる覚悟でアメリカに渡ったんです。ちょうどその頃、この大学で教えられていた福のり子さん²に声をかけていただいたのがきっかけで、帰国後この大学に来ました。その頃はもう東京の業界からは距離を置いて、自分にしかできない仕事をやりたいと思っていましたから。
〝批評〞と聞くと、作品について高みから分析して説明したり、切り口の鋭さを競うように語ったりするというイメージをもたれるかもしれませんが、私の場合は目の前にある作品の底へ底へと潜るように書いています。競泳ではなく素潜りのようなものです。作品について書くというのは、もちろん、その良さをわかりやすく伝えるという役目がある場合もあるけれど、それ自体が目的ではありません。自分自身がその作品の中にどれだけ深く入って、そこから生身の言葉を拾い上げられるかということが問われていると思います。
しかも作品を見るというのは、目だけではなくて全身の体験です。たとえば展覧会の経験はどこから始まるかと考えると意外と難しい。会場の入口か、そこに通じる廊下か、もっと言えばどこかで展覧会のチラシを見たときから始まっているのかもしれません。ですから自分が展覧会をキュレーションするときは、会場の内外すべてにおいて、それが人にどう伝わるか、どう働きかけるかをチラシのデザインや展示の空間設計、照明、キャプションなどあらゆる細部において吟味します。
『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』を翻訳したとき、その展覧会をギャルリ・オーブで学生たちと一緒に作る機会がありました³ 。ルワンダのジェノサイド(集団殺戮)のときに性的暴行という壮絶な体験をされた方々が危険を覚悟でカメラの前に身をさらし、語ってくださった作品なので、彼らの想いを踏みにじってはいけないと、その扱い方には相当注意しました。
非常に重く強度のある作品なので、踏み入れた瞬間に「ただごとではない」という緊張感を空間に持たせられるように、入口にはくぐって入るような白いゲートを設置しました。被写体が自らの経験を語っている文章のキャプションも、読みたければ一歩近づくと読め、読みたくなければイメージだけに集中できるような文字のサイズと照明のバランスを練りました。観客が作品を横目で眺めて素通りするのではなく、きちんとその前に立ち止まって作品と向き合えるよう、細部を徹底して仕込んでいきました。学生と一緒に本気で展覧会を作るといつも、予想を超えるような彼らの頑張りを目の当たりにして、自分はそのくらい頑張っているのか?と、襟を正させられるものです。
「声」を受け取ること、発すること
2014年に娘を出産した後は、育児に追われて書くことも読むこともままならない時期がありました。毎日ひたすら病院と大学と家との往復で、自分の時間も一切なく、このままだと自分の魂が死んでしまうと思うほど追い詰められました。
そのとき、今こそ本を作るしかないと思ったんです。自分のためにこれをやらなければ死んでしまう、という思いで取り組んだのが『沈黙とイメージ 写真をめぐるエッセイ』でした。娘のためにも、自分が今燃え尽きてはいけないという思いもありました。この本で目指したのは、作家や作品に対する深い愛と敬意をかたちにすることです。彼らの作品があってこそ生まれた自分の文章をまとめた本なので、それらをただの図版に貶めてしまうことなく、その存在感を本の中で際立たせたかった。デザイナーと相談を重ね、印刷会社と試行錯誤しながら、作品の写真を一枚一枚手で貼るという見せ方にたどり着きました。
その意味でこの本には、写真に対する書き手としての私の姿勢が表れていると思っています。これほどのエネルギーを費やしてもう一冊本が出せるとは、到底思えない。あれほどの切迫感がなければ、この本はできなかったと思います。
もちろんこの本には限界があることもわかっていて、万全でないことは百も承知しています。だけど、今の自分にやれることはやった。「今の自分にはこれしか書けなかった」という潔い気持ちです。そういう意味では、〝遺書〞のようなものだとも、たびたび思います。
芸術って何も、同時代にだけ向かっているものではないんですよね。作家は売れなければ生きていけないという状況もあるにはありますが、たとえそうだとしても、自分たちがより大きな歴史の一部であることには変わりありません。
そうである以上忘れてはならないのは、芸術というのは同時代ではなくて歴史に開かれているということです。歴史というのは、過去であり未来。生きることはどんな時代であっても、どうしようもなく困難だし、つらいことも多い。そんな中で芸術は、薬みたいにすぐに何かに効くというものではなくて、孤独や絶望の中で生きてきた様々な人たちの声として残されてきたんです。そうした「作品」の一部は同時代的に取り上げられるかもしれないけど、あくまでも時代を超えて暗闇の中に差し出されたものだと思っています。
私自身が、絵画や写真、哲学書、詩や小説など、芸術としか言いようのないものから見知らぬ誰かの声を受け取り、何とか支えられて生きてきたから、そう言えます。その作者自身は作品を作ることによって必ずしも幸せにならなかったかもしれないけれど、自分が実際には出会うはずのないような誰かが差し出したものが、国や時代を超えて自分の手元にあって、それが魂を支えたり、心を震わせたりすることがあります。
芸術はそうやってこれまで歩んできたし、自分たちもその歴史の中にいる。だから、絵を描くことも彫刻を作ることも-私にとっては書くことですが-、自分たちがやっていることはすべて、各々がそうやって歴史に向かって発している声なんですよね。それは誰かのもとに届かないかもしれないけど、もしかしたらどこかの誰かには届くかもしれないという一縷の希望はある。たった「一縷」の希望です。
書くことはとても孤独だし、到底報われない。読まれなくてもいい、読み手がいないかもしれないという絶望や諦念の中で書く感覚と言うほうが近いかもしれません。先ほど〝遺書〞と表現したのはそういうことなんです。作品は、作者と異なる「生」を生きる。だから自分の本の「生」が、もしかしたら0.01%ぐらい誰かの心に届いて、日常生活とは別の次元で少しでもその人の心に寄り添うということがあるといいなとは思います。でも、それが目標というわけではない。あくまで大切なのは、自分自身の奥底にある本当の声をかたちにすること。それがなければ誰かに届いたって仕方がない。
書くことが導く先にあるもの
授業ではよく、学生に文章を書いてもらっています。そこで伝えたいのは、ただわかっていることを書くのではなくて、書くことによって初めて「わかる」「気づく」という実感です。人は、書こうとして初めて必死で頭を整理するし、書こうとして初めて自分が十分に考え抜いていなかったと気づくことができます。「書く」というシンプルな行為を引き受ければ、人はおのずと自分と向き合うことができるし、わかっていたはずのことが実はわかっていたつもりでしかなかった、見てないものを見たつもりになっていたという自分の中の嘘や言い訳に気づくことになる。だから書くことはつらいんです。でもその深い喜びや驚きを知ったら、きっとなくてはならない行為になると思います。
ゲルハルト・リヒター⁴ は1964年の日記の中で、「なにかができるということは、なにかをする理由にはならない」と記しています。これは大変重要な示唆です。私自身、文章が書けるから書く仕事を続けてきたということではまったくありません。むしろ苦手意識のほうが強い。優れた作品とは、見る側を思いがけない旅に連れていく存在だと思いますが、私にとって作品を批評するということは、その想像を絶する旅路に徹底して付き合う行為なんです。その旅路は予定調和的ではないし、楽しいことばかりではない。波乱も矛盾もあるし、時には自分自身が分裂したり傷ついたりしてしまうこともある。それでも徹底して付き合い続けること。
大げさに聞こえるかもしれませんが、その意味で私にとって作品について書くこと、すなわち批評とは、愛の行為そのものです。愛するというのは—— 恋とは違って——、相手の良い面ばかりではなく、その人の矛盾も汚い部分も何もかも全部ひっくるめて受け入れること、それによって自分が時に傷つき、変わることがある。作品を受け止めるとはそういうことなんです。
学生の中には自分が人と「違う」ということを悩む人が多いですし、私もそうでした。芸術の役割の一つは、徹底して一人ひとりの人間が違うことを認めることです。私自身、アメリカで過ごす経験を通して、自分が人と違うことを肯定していいんだと三十代半ばでやっと心底思えるようになった。違うことはそのまま美しいことであり、創造性そのもの。学生のみなさんには、どうか違いを大事にして生きてほしいし、誇りに思ってほしい。大人の一人として、そう思ってもらえるように少しでもいろんな生き方や価値観を示し、実践することができたらと思います。
注)
1. 1935年、東京都生まれ。日本デザインセンターの広告写真家を経て、代表作に『都市へ』『初國』など。
2. 本学アート・コミュニケーション研究センター教授。1990年初頭からニューヨークでインディペンデント・キュレーターとして現代写真の展覧会を多数企画。
3. 「時代の精神展」第一弾として開催。著者のジョナサン・トーゴヴニク氏によるアーティスト・トークやワークショップなども実現した。
4. 1932年、旧東ドイツ生まれ。1960年代前半より現代美術界を牽引し続け、今もなお、もっとも影響力をもつ画家。
竹内 万里子 たけうち まりこ
京都造形芸術大学美術工芸学科長、准教授。写真批評家。早稲田大学政治経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程(芸術学)修了。早稲田大学非常勤講師、東京国立近代美術館客員研究員などを経て現職。2008年フルブライト奨学金を受け渡米。国内外の雑誌、新聞、作品集、展覧会図録への寄稿、共著書多数。「パリフォト」日本特集ゲストキュレーター(2008年)、「ドバイフォトエキシビジョン」日本担当キュレーター(2016年)など、数多くの写真展を企画。主な共著に『Oxford Companion to the Photograph』(Oxford University Press、2005)、『日本の写真家1 0 1 』(新書館、2005年)。主な訳書に『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』(ジョナサン・トーゴヴニク著、赤々舎、2010年)。近著『沈黙とイメージ 写真をめぐるエッセイ』(竹内万里子著、赤々舎、日英対訳、2018年)は米国の「PHOTO-EYE BEST BOOKS 2018」に選出された。(取材:二宮慈、撮影:堀井ヒロツグ)
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