紫陽草や帷子時の薄浅黄(あじさいやかたびらどきのうすあさぎ)
芭蕉
帷子時とは、ちょうど単衣(ひとえ)や麻など夏の着物を着るころのことです。薄浅黄は薄浅葱色のこと、薄い青色を意味します。
少しずつ色が濃く鮮やかになる紫陽花ですが、ちょうど衣替えの時期には、まだみずみずしい浅い色付きの紫陽花と、この時期の帷子の薄青色のちかしさを詠んで夏の到来を表しています。
善峯寺 あじさい苑にて
芭蕉が江戸の俳諧でその名を知られるようになり、さらに独自の作風を確立して漂泊行脚を始め、紀行文・俳文を残したその時代、それはちょうど、5代将軍徳川綱吉の治世と重なります。
この句は、貞享(じょうきょう)元年(1684)以降に詠まれたものとされますが、貞享元年8月に芭蕉は、『野ざらし紀行』の旅に出たのでした。
今回取り上げる善峯寺は、西国三十三所観音霊場の20番札所として知られる名刹ですが、この貞享年間から元禄年間にかけて、まさに徳川綱吉の母、桂昌院の力によって大々的な復興と変貌を遂げた寺院であることは、あまり周知されていないかもしれません。
私と善峯寺とのご縁も、貞享二年(1685)の墨書のある一枚の染織品が取り持つものでした。染織品の調査をして欲しいというご依頼で善峯寺からお声掛けいただき、初めて拝見したその染織品は、萌葱(もえぎ)色の縮緬(ちりめん)に、椿の花が刺繍と染めで散らされた「打敷き(うちしき)」でした。
萌葱地椿文打敷
裏の墨書には、
「御打敷
為 浄徳院殿御菩提
三之御丸桂昌院殿大夫人御寄進也
貞享二乙丑歳
西山善峯寺什物」
とありました。この墨書と、椿の模様の配置に少し偏った箇所があることなどから、これは、当初から打敷きとして作られたものではなく、故人の小袖をほどいて、仕立て直したものであり、桂昌院によって寄進されたものであることまでは、推測できました。
その他にも、たくさんの染織品があるとお聞きし、改めて詳細な調査に伺うことを約したのですが、その調査を、京都造形芸術大学 歴史遺産学科の当時の私のゼミ生を連れておこなったことから、善峯寺と学生たちの誠にありがたい、深く長いお付き合いが始まったのでした。
まず、この打敷きの研究を卒業論文で取り組みたいと願い出た学生、室真理子さんが、縫い目を丹念にたどって、元の小袖の形を復元図にし、幼児の小袖であることを突き止めました。
打敷きから復元された徳松所用の小袖
墨書にあった「浄徳院殿」とは、徳川綱吉の息子で天和(てんな)3年(1683)に5歳で亡くなった徳松のことで、まさにその遺品であった子供用の小袖を、貞享2年の三回忌法要のために打敷きに作り直して、祖母にあたる桂昌院が寄進したものであることが確認できたのでした。このほかにも、同時に寄進された幡(ばん)も、同じく徳松の小袖から仕立て直されたことが、その後を継いで卒業論文にまとめた吉岡恵さんの成果で確かめられました。
そのあとに続くゼミ生たちも、善峯寺のご厚意のおかげで、惜しげもなく寺宝類や文書のご提供を受け、続々と卒業論文の研究対象とさせていただくことができました。そして、その積み重ねによって、少しずつ善峯寺の歴史を解明していく成果に結びつけることもできてきたのでした。
これがご縁となり、現在、二人の卒業生、安田久美さんと吉岡恵さんが、引き続き善峯寺で宝物調査と春、秋の宝物館(文殊堂)の展示のお仕事をお手伝いさせていただいているのです。
今回はとくに桂昌院の善峯寺再興の実態を卒業論文で明らかにした安田久美さんの成果をもとに、善峯寺の境内をご案内したいと思います。
まず、桂昌院が最初に寄進した建造物が、貞享3年(1686)の鐘楼です。先ほどの浄徳院供養のための寄進の翌年のことになります。
桂昌院の寄進による鐘楼
じつは、この鐘楼が描かれていて、しかもその他の伽藍が元禄再興以前の様子を描いたと思われる境内図が残されています。安田さんが研究を始めた当初、この絵は《元禄以前善峯寺全景》と称されながら、その図が持つ意味はわからない状態でした。桃山時代に成立したという《善峯寺参詣曼荼羅》と比較することで、彼女が突き止めたのは、元禄以前、つまり桂昌院の大規模な再興事業が始まる前の善峯寺の状態を表したもので、じつは、境内堂塔の規模が桃山時代より、明らかに縮小しているということでした。
《元禄以前善峯寺全景》
今月18日、大阪北部に大きな被害を与えた地震との関係が指摘されている「有馬—高槻断層帯」ですが、かつてこれが大きく動いて、伏見城などが倒壊したことで知られる「慶長伏見地震」時、善峯寺も大きな被害を受けていたことが伝えられています。おそらくその後の復興が思うように進まないままであったと考えられます。
ところが、この図には、先ほどの桂昌院寄進の鐘楼が描かれているのです。つまり、貞享3年以後に描かれたものであることがわかります。そして、その後程なく、桂昌院の寄進による本堂、護摩堂の再建という大建設が始まったと考えられ、それぞれ元禄5年(1692)に上棟されたことが棟札から確認できるのです。
安田さんは、おそらく遠く江戸城にいる桂昌院に、善峯寺関係者が、桃山時代以前の本堂の規模などとの違いと寺の窮状を訴え、旧に復するような再興をこの境内図をもとに願い出たのではないかと、推測しています。
桂昌院が規模を復して再建した善峯寺本堂
桂昌院が再建した護摩堂
ここで桂昌院の生い立ちを振り返っておきましょう。
彼女は、徳川家光の側室であり、正保3年(1646)綱吉を産み、5代将軍の生母となったのですが、生家は京都の八百屋であったと言います。実父が亡くなった後、母の再婚に伴って二条家の家司(けいし)を勤める本庄宗利(ほんじょうむねとし)の養女となります。こうして公家社会に近い境遇にあったことで、鷹司(たかつかさ)信房の娘が家光の正室として江戸に赴くのに従って、大奥に入ることになったのです。
大奥では強大な権勢を誇った春日局(かすがのつぼね)に仕え、その推挙によって家光の側室となりました。お玉の方とも称され、後世、俗に「玉の輿」という言葉の元になったとも言われています。
家光の死後、落飾して桂昌院となり、仏教に深く帰依し、江戸に護持院、護国寺などを造立したことは知られていますが、京都、奈良でも、桂昌院の援助で修復事業などを行った寺院は、東寺や法隆寺、長谷寺といった有力寺院以外にも多数にのぼります。
しかし、善峯寺が京都・奈良の他の寺院と大きく異なる点は、桂昌院が幼い頃、実父、実母とともに、善峯寺に参詣、参籠していたことがあったと伝えられていることです。こうした縁を頼って、善峯寺は桂昌院への働きかけを始めたのだと思われます。
桂昌院と善峯寺の関係を物語る桂昌院直筆の和歌が遺されています。
桂昌院直筆 和歌色紙
「たらちおの 願(ねがい)をこめし 寺なれば 我もわすれじ 南無やくし仏」
この歌に、実父の信仰する薬師仏が出てきますが、観音霊場善峯寺の本尊は、言うまでもなく本堂に祀られている千手観音菩薩です。
この薬師仏は、現在善峯寺薬師堂の薬師仏と知られていますが、これがじつは善峯寺の住房の一つ、成就坊に有った内仏であり、元禄14年(1701)、桂昌院がこの成就坊をわざわざ改変して、内仏としてではなく、外部から直接お参りのできる薬師堂に作りなおしていることを、安田さんが史料から発見したのです。おそらくかつて幼い頃の桂昌院が家族とともに参籠したのは、この成就坊であったのでしょう。
善峯寺 薬師堂
市井に生まれ育った女性が、将軍の生母となり、ついには息子綱吉の計らいで、従一位(じゅいちい)という女性として最高の位につくまでになったことは、誠に信じがたい栄達であったことでしょう。現在も、薬師堂は桂昌院に因んで出世薬師と称されて、信仰を集めています。
善峯寺奥之院 出世薬師如来の参道
善峯寺奥之院 薬師堂(旧成就坊)
またそのほかにも、元禄5年、鎮守社の三十番神、山王権現、荒神、護法神、弁財天の各社をコンパクトに作り直すなどして、境内に新しく建物を造作するスペースを作り出し、最晩年の宝永2年(1705)、まったく新たに一切経を安置する経堂を建造したのです。そしてそこには、桂昌院自身が援助していた黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)の鉄眼道光(てつげんどうこう)の木版による鉄眼版一切経が安置されたのです。
桂昌院が新たに建造した経蔵 鉄眼版一切経を収める
こうして、桂昌院が様々な堂宇を新築、大改造してその境内の姿を変貌させるまで手を入れたことで、善峯寺は、現在の主要な景観を築き上げることができたと言えます。一方、桂昌院は、彼女の肉親たちのため、とくに実家である本庄家の菩提寺として、善峯寺を確立したかったのだということも、様々な記録などから見えてきます。
綱吉と桂昌院は、「生類憐みの令」などで、批判的に語られることも多いのですが、私は善峯寺にかけた桂昌院の思いには、母としての、あるいは肉親への強い愛を感じてしまいます。
私事ながら、ちょうどゼミ生たちと染織品の調査に善峯寺に出かけていた時期、わが息子は小学5年生でしたが、いっとき不登校の状態にありました。すべてに自信を失って家で暗い日々を過ごしていた息子を、一人で置いておくことができず、善峯寺のご住職さま、そしてゼミ生たちにも心広くお許しいただき、小学生同伴の調査行となったのでした。
その日は、息子と一緒に本堂の観音さまの前に座し、私は、1日も早く登校できますように、息子の傷心が癒えますようにと念じました。
そして場所を改め、桂昌院から寄進されたという袈裟の調書を取り、写真撮影を学生たちと始めたのです。現状の袈裟は、近年の仕立て直しがしてあり、墨書も見つからないので、果たして伝承どおり桂昌院の寄進によるものであるのかどうか、確認できないと考えていたのですが、そばで写真撮影を見学していた息子が
「何か書いてあるよ。このキレの中に」と言い出したのです。
裏地のその下に縫いこまれていた布地の墨書が、ライトの光の加減で透けて見えたようなのです。
「えっ、ほんとや。全く気づかなかった。桂昌院の名前もあるみたい。大発見」
と、思わずお手柄お手柄と褒め、優しい学生たちが、すごいすごいと感心してくれたその時の、久しぶりに見た息子の得意そうな笑顔を、忘れることができません。
本当に多くの方のお力添えで、6月から始まった不登校は、夏休み明けには、日常を取り戻すことができるまでに回復することができたのですが、この日の出来事が何かを取り戻す最初の一歩であったと、今でもはっきりと思い出します。
本堂の棟札には、以下のような桂昌院の願文が記されています。
一天泰平四海靜謐五穀豊饒万人快楽別而者
征夷大将軍御武運長久御子孫繁昌心中御願成就仍高札如件
元禄五年十二月五日謹記之
天下の泰平、五穀豊穣などを願いつつも、将軍である息子の武運長久、子孫繁栄を念じる願文には、徳松が亡くなった後、綱吉にはついに跡取りの息子が生まれなかったことを知る私たちには、複雑な思いもよぎりますが、桂昌院がこの寺にどのような切なる祈りを重ねていたのかは、痛いほど伝わってきます。
そして桂昌院は、宝永2年(1705)に没し、江戸増上寺に葬られましたが、善峯寺には、見晴らしの良い、護摩堂の近くに遺髪塔が建てられました。
桂昌院 遺髪塔 後ろに広がるあじさい苑
その命日は6月22日、先代のご住職から植え続けられた1万本の紫陽花が、ちょうど起伏のある山の傾斜地に咲きそろいます。
紫陽花の名所は多数ありますが、京都盆地を遠く見晴らす山あいに広がるあじさい苑は、梅雨の曇り空の下にも、他所にはない明るさと清々しさを感じさせてくれます。
撮影で伺った日は、早朝からの雨のあと、束の間の晴れ間に、雨つゆがキラキラと輝いて、青やピンクの紫陽花がいっそうみずみずしい色を放っていました。
さて、たっぷりと濡れそぼつ紫陽花の美しさを見ていただいたところで、今月のお菓子の話題に話を移しましょう。今回ご紹介する紫陽花をかたどった和菓子、「朝の露」は、まさにこのような梅雨の雨の合間に見る紫陽花の姿をかたどったものです。
6月の京都の上生菓子の代表的なもののひとつが紫陽花きんとんなのですが、嘯月さんのきんとんは、細やかさと滑らかさで他のお店の追随を許しません。
しかも、その上に、すぐにも消えそうな露を、ごく細かく砕いた寒天を散らしてあらわします。茶席に出された途端、おおっと思わず声が出そうなほど、季節の趣きを湛える美しいきんとんです。
口にした時の寒天のこの細やかさとほろっとした適度な硬さも、他のお店には見ることができない技だと私は思っています。寒天の透明感が、夏の涼味を添え、同時に、滑らかなきんとんに少し違う食感を与えています。さらに中に包まれた粒あんがあっさりと、しかし、しっかりした存在感を主張するのです。
桂昌院の時代には、まだようやく寒天というものが、生まれたばかりのころです。このような洗練された菓子を、たとえ桂昌院でも口にすることはできなかったかと思うと、私たちのこの恵まれた幸せを、改めて感じざるをえません。
はるかに京都盆地を望む
桂昌院が幼い日に両親と参籠したとされる成就坊、現在の薬師堂は、本堂より高所にあり、眼下に広々と京都盆地を、かつ、はるかに東山や比叡山まで見晴るかすことができる場所です。参籠の朝に見た朝日に輝くその広やかで清浄な光景は、江戸で高位に上り詰めた暮らしの中にあっても、おそらく生涯忘れることができないものであったのではないかと想像します。
同じ頃、旅から旅への人生を送った芭蕉とは対照的に、幼い日に暮らした場所に、再びは足を運ぶことができなかった桂昌院ですが、薬師堂の傍に、今は桂昌院の銅像が、合掌の姿でお座りになっています。そしてその下方には、当時はなかった一万株の紫陽花が、彼女を偲ぶこの月に、まるで彼女の稀有の生涯を彩るように山を埋めて、美しく咲き広がっているのです。
薬師堂の傍にある「けいしょう堂」の桂昌院像
一万株の紫陽花咲く善峯寺
<文中で紹介した学生の論文>
室真理子(歴史遺産学科2004年度卒業)
「善峯寺蔵萌黄地椿文に葵紋染繍打敷についての研究」
安田久美(歴史遺産学科2008年度卒業)
「近世における善峯寺の伽藍の変遷について―桂昌院の再建を中心として―」
吉岡恵(歴史遺産学科2009年度卒業)
「善峯寺所蔵浄徳院遺品の小袖裂で作られた幡についての研究」
御菓子司 嘯月
住所 | 京都府京都市北区紫野上柳町6 |
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電話番号 | 075-491-2464 |
営業時間 | 9:00〜17:00 |
販売期間 | 6月頃(前日までに要予約) |
定休日 | 日曜、月曜、祝日 |
価格 | 460円(税込) |
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栗本 徳子Noriko Kurimoto
1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。
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高橋 保世Yasuyo Takahashi
1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。