EXTRA2018.05.30

京都歴史

洛北の新緑とカキツバタ―唐衣(からころも)末富[京の暮らしと和菓子 #12]

edited by
  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 夏は厳しい蒸し暑さ、冬は体の芯から堪える底冷えに晒される京都にあって、5月は最も過ごしやすい季節と感じている人が多いのではないかと思います。

 4月に見られた霞は消え、からりと乾いた空気を通して、日差しがくっきりと景色を浮かび上がらせます。京都の三大祭のひとつでもある葵祭の行列も、5月の光は雅な色を鮮やかに晴れ立たせてくれます。

近年は、5月にしてもう早、30度を越えた、真夏日だとのニュースの流れる日もありますが、それでもこうした爽やかな空気の中の5月の暑さは、盛夏のそれとはまったく違います。

葵祭 禊の儀に向かう斎王代 (上賀茂神社)

 さてこの季節、とくに私が愛するのは、新緑です。山に囲まれている京都の地の利から、少し足を延ばせば美しい緑を愛でる場所には事欠きませんが、私は大学にも近い洛北の新緑を訪ね歩きます。今年も楓の新葉を揺らす風と、その葉を通して届く緑の光を浴びに、詩仙堂、圓光寺、そして蓮華寺へと、仕事の合間に足をのばしました。

 

 今回は、そのうちの蓮華寺をまずはご案内したいと思います。

 蓮華寺は、左京区上高野の、高野川の流れのそば、西明寺山の麓に沿って立つ天台宗の寺院ですが、その前身は、今の京都駅近く、東塩小路(ひがししおこうじ)に営まれた時宗の寺院であったということです。応仁の乱で荒廃していたものを、江戸時代、寛文2年(1662)に加賀藩家老今枝近義(いまえだちかよし)が、その祖父今枝重直(いまえだしげなお)の菩提を弔うために、現在地に再興したのが、蓮華寺です。重直は、豊臣秀吉、秀次に仕えた後、前田利長に迎えられて重臣となった人物ですが、もと重直の庵がこの上高野の地にあったともいいます。

蓮華寺 庫裏への道
シライトソウ
ミヤコワスレの花
フタリシズカ

 蓮華寺の門をくぐると庫裏へ続く道の脇には、楓の木のもとに、シライトソウ、ミヤコワスレ、フタリシズカなどの山野草が、咲き並んで迎えてくれます。とくに細やかな白い穂を伸ばすシライトソウが庭先でこれほど群れ咲いている場所を、私は知りません。チラチラと動く木漏れ日を受けながら優しく風に揺れる草花の風情は、洛中では味わうことのできない洛北、山懐の寺院ならではの光景でしょう。

 庫裏から続く仏間を過ぎ、書院に足を踏み入れた途端、誰もが寡黙になる静謐な世界が広がります。襖障子を外して解放された書院から、緑の溢れる庭園を前にすると、自然に庭と対坐してしばらく動けなくなるのは、私に限ったことではないと思います。

書院から庭を臨む 

書院正面の池泉式庭園

 八条宮家の別邸として修造された桂離宮は、2代智忠親王の時期、前田家から嫁いだ富姫の関係で前田家の援助も受けて造営が続けられましたが、近義も、これに関わったとされています。
 こうした京での人脈を彷彿とするように、木下順庵、石川丈山、黄檗隠元、狩野探幽ら当代一流の文人たちの助力を得て、本寺が建造されたと言われます。寛文6年(1666)9月の年記銘をもつ祖父重直の顕彰碑は、順庵の撰文、丈山の篆額によるもので、庭園の中島に建てられています。本堂の釈迦如来を安置する厨子は、中国明代のものとされる螺鈿製で、堂内に異国風の独特の趣を作っており、柱には隠元禅師の筆とされる聯(れん)も掛けられています。

中島に建つ重直の顕彰碑
本堂と蓮華寺式石灯篭
本堂内にも初夏の風がわたる
本堂背後から庭園を臨む

 この名園と江戸時代の文人文化を伝える寺院は、今でこそ多くの人に知られ、それこそ秋の紅葉の季節には、観光バスの団体で賑わうほどの人気となっています。しかし、40数年前、初めてこの寺院を訪ねた頃、私たち以外の拝観者はまったくなく、寺内は深閑としていたのを思い出します。
 昨年11月の本コラムで、同志社中学以来の友人であり、今は料理研究家として知られている久保香菜子さんと一緒に、中学、高校時代、京都の寺院巡りをしていたことを書きましたが、じつは、当時この寺院の存在を知らずにいたのでした。ひょんなことから同志社高校で数学を習っていた高橋勘先生に、先生ご自身の車で連れて来ていただいたのが最初の訪問でした。

 高橋勘先生は、代々の生徒から「かんちゃん」と呼ばれて親しまれた名物教師ともいうべき方で、なんと父が同志社中学生だった時にも数学を習っていたほどの長い教員経歴を持たれていたのでした。ちょうど私の学年が推薦入学で、同志社中学から同志社高校に上がる1年前、昭和46年に同校校長を退任され、数学教諭に戻られていたのでした。
 今回、先生の書かれた文章を『同志社時報』第45号に見つけました。ちょうど私たちが入学する一ヶ月前、昭和47年3月の記事で、「再び白墨を手にして」と題されて、教壇に戻られて1年が経ち、生徒に書かせたご自分の授業への批判や注文の文章を取り上げておられます。

 その中の
「校長時代と変わった活気のみなぎった顔をして教室に入るなり体中チョークの粉だらけにして教室を駆けずりまわり、しゃべりまくり、サッとでてゆく。ぼくたちは圧倒されてみているばかり」
という生徒の感想に、なるほどそうだったなあと懐かしくなりました。
 しゃがれ声で、しかし力のある明晰な滑舌で話される先生の熱気ある授業は、数学があまり得手ではなく、成績も振るわなかった私にとっても、とても楽しいものでした。
 じつは、ことの詳細は憶えていないのですが、数学に劣等感のある私ではなく、成績優秀な久保さんがどうも先生に自分たちが寺廻りをしていることを話す機会があったようです。
 何を思われたのか、突然先生が「君たちの行ったことのないところに連れて行ってやろう。」と言い出されたのです。そして洛北岩倉にあった高校校地からほど近いこの蓮華寺に、二人を案内してくださったのでした。

 

 青楓の美しい寺といえば、例えば大徳寺高桐院や詩仙堂、高山寺などには、すでに出かけていました。それらの寺がとても整備されている美しさであったのと比べると、蓮華寺には、自然の山の景観が迫り、その中でのびのびと枝を広げる楓がすべてを包み込んでいるような、まるで抱かれているような、これまで行ったことのある寺院にはない自然との一体感を覚えたのでした。先生は、とくに詳しい解説をするでもなく、ニコニコといたずらっぽく「どうだ」というような顔をしておられました。

 そして、またほどなく、今度も行ったことがないところへと私たちを車に乗せて連れて行ってくださったのが、上賀茂神社の東に位置する大田神社でした。
 しかもその池、大田の沢のカキツバタがみごとに咲きそろっている時期に、車を横付けてくださったのでした。放課後の時間で、少し日が傾き始めていましたが、そのときも私たち以外は誰もいない、今では考えられないような贅沢なひとときでした。

大田の沢に群生するカキツバタ

カキツバタ

 大田神社は大田山の麓に鎮座する上賀茂神社の境外摂社の一つですが、この参道の東側にある「大田の沢」は、カキツバタの自生地として国の天然記念物にも指定されています。
 カキツバタは、アヤメと違い沼地に生えるものですが、この野生のカキツバタが咲く沢は、京都盆地がもともと大きな湖であったことの名残りであるとも言われます。そのことを先生は簡明に私たちに説き、またニコリと「どうだ」という顔をされるのでした。

 それほど大きくない沢ながら、一面にカキツバタの鮮やかな紫が広がる自生地として、京都の北の片隅に古生の地勢を物語って存在することに、素直に感動を覚えました。
 この自然の生みだす紫色への思いは歌人にとっても印象深いものであったに違いありません。平安時代末から鎌倉時代初期の歌人藤原俊成(ふじわらのとしなり/しゅんぜい)も

 神山(こうやま)や大田の沢のかきつはたふかきたのみは色にみゆらむ

と詠んでいます。神山とは上賀茂社の磐座のある山で、神の降臨するところですが、神への深い願いは大田の沢のカキツバタの深い色にあらわれているというのです。
 高校時代は、この和歌のことも知りませんでしたが、歴史や美術史を学ぶことになった大学の頃から、カキツバタはとても気になる花となりました。
 そしてカキツバタといえば、平安時代の『伊勢物語』「東下り」に登場する三河国の八つ橋を上げないわけにはいきません。在原業平と思われる男と一行が八つ橋にたどり着いて、そこに咲いていたカキツバタの花にちなんで、各句の頭に「かきつはた」をおいて詠んだというのが、有名なこの歌です。


   らころも
   つつなれにし
   ましあれば
   るばるきぬる
   びをしぞおもふ

 

 京よりはるばる旅してきた男が、京に残してきた妻を着慣れた唐衣にたとえて懐かしみ、その寂しさを詠んだものですが、この場面は文学だけでなく、例えば光琳の《燕子花図屏風》や《八橋蒔絵硯箱》など、絵画や工芸の世界へもさまざまなイメージを与え続けてきたのです。
 
 そして、今回取り上げる和菓子もまた、この歌から生まれた5月の上生菓子です。米粉で作られる「ういろう皮」で粒餡を包んで作られたものですが、
末富さんでは、まさに「唐衣(からころも)」と命名されています。歌や絵にもイメージが広がるこの時期の茶席にふさわしいお菓子の代表格といえましょう。

 

 特筆すべきは、その姿でしょう。京都の和菓子は、「もの」や「かたち」を写しすぎないことを信条としていると言ってもよいのですが、その最たるもののひとつが、この「唐衣」だと思います。
 カキツバタを象徴していることは、誰でも納得されるところでしょうが、これは、四角いういろう皮を折り紙のように折りたたみつつ、中に丸い粒餡を包んで成形されています。単純な形に昇華したものだからこそ持つことができるイメージの広がりは、写実では決して得られないものです。
 そして「からころも」は、和歌では「着る」などの歌枕でもあるのですが、じつは「唐衣(からぎぬ)」は、まさに斎王代も着用されている、装束の最上層に着す、丈の短い衣のことです。
 品の良い紫色をぼかしのように練りこんだ「ういろう皮」には女房装束をも連想させるような質感があります。和菓子「唐衣」は、カキツバタだけではなく、平安時代の和歌の世界へと誘う力を具えているのです。

葵祭 禊の儀に向かう斎王代 (上賀茂神社)
 
 眺めているばかりではなく、早速いただきましょう。あっさりとした「ういろう皮」が、まず米の香りと旨味を舌に感じさせます。ういろう独特の歯ごたえを噛みしめると、途端に小豆の旨味を存分に残したしっとりした粒あんが、口中で一体となるのです。「ういろう皮」と餡を組み合わせる和菓子は他の季節や種類のものもありますが、その形から、餡に対して「ういろう皮」が多めになる「唐衣」のこの絶妙の調和を、私はとても好んでいます。今年の五月は、幸せなことにいろいろな機会に、何度か口にすることができました。
 さて、高橋勘先生ですが、お宅にもお邪魔したことがあり、書棚に並んだ書物の幅広い内容に、本当の知性とは、このような教養に支えられているのだと改めて感じ入ったことを思い出します。
 大学生になって、岩倉の高校へ足を延ばすこともないまま過ごしているうちに、先生がお倒れになったとの噂を聞きました。
 そして大学院生の時、たまたま通り掛かった岡崎の疎水にかかる橋の上で、ステッキを持って、少し不自由そうなお姿の先生に、ばったりお目にかかりました。
「あ、先生。お元気そうでよかったです…。」と呼びかけると、
「ああ、どなたかはもうわからないのですが、わざわざ声をかけてくれて、ありがとう、ありがとう。ほんとうにありがとう」
と軽く手をかざして、ニコニコしながら不自由ながらもサッサと立ち去って行かれました。
 なんと言えば良いのか、戸惑い、口ごもっているうちに、後姿を送ることになってしまい、そしてそれが先生にお目にかかる最後となってしまったのですが、その明るさと変わらぬ潔さは、今もって、私の中に強烈に焼きついています。
 先生、お憶えいただいていないとは思いますが、お教えいただいた洛北の初夏の名所を、今年も味わせていただいております。ありがとうございます。

京菓子司 末富 本店

住所 京都市 下京区 松原通室町東入
電話番号 075-351-0808
営業時間 9:00〜17:00
販売期間 要問い合わせ
定休日 日曜日・祝日
価格 540円(税込)

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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