EXTRA2018.02.28

京都歴史

平安時代の和菓子 椿餅と早春の梅宮大社―椿餅(塩芳軒)[京の暮らしと和菓子 #9]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 今年の京都の2月は、立春の声を聞いてからも厳しい寒さが続き、梅の開花もなかなか進まず、梅の名所も花が咲き揃わないと言われるような状態でした。とはいえ、ようやく中旬を過ぎるころからは、春の日差しを感じる日も増えてきました。
 この時期のお菓子としてぜひご紹介したいものが椿餅です。この由緒については後ほど辿るとして、私が初めて食べた椿餅は、この季節であったかどうか定かではないのですが、八坂神社の南に位置する下河原にあった椿餅 甘栄堂さんのものでした。
 じつは私の祖父は、造り酒屋という稼業のための出入りも多かったとは思いますが、京都の花街で少し名の知れた粋人だったようなのです。私は、若い頃、勤め先の上司に何度か祇園や宮川町の元お茶屋さんがなさっているようなお酒の場に連れて行ってもらったことがありましたが、上司が面白がって私の実家のことを口にすると、必ずや女将さんなどが「ああ、あの齊藤さんのお孫さんどすか。」と亡き祖父のことを知っておられたのでした。何か花街での武勇伝でもあるのでしょうか、孫むすめに聞かせる話でもないし話題にはせずにおこうというような微妙な空気を感じて、少し居心地が悪かった覚えもあります。
 さて、話が逸れましたが、かつて下河原は芸妓の検番(お茶屋などへの取り次ぎを行う事務所)が存在する花街の一つで、その検番のすぐ近くにあったのが椿餅 甘栄堂さんでした。ここでは、おそらく一年中、椿餅を専門に扱っておられたのだと思いますが、私が口にしたのは祖父が買い求めてきた花街からの手土産だったようです。

 20才前後の頃、着物を着て月釜のお茶会のお手伝いをしたあとなど、街中の喫茶店に行く気がせず、友人とそぞろ歩きによく高台寺の前にあった文之助茶屋に一服しに出かけることがありましたが、まだその頃は、通り道にあった甘栄堂さんの「椿餅」と大書された看板を目にしていました。大学院生になって以降、また年々観光で賑わうようになるにつれ、この辺りに足を運ばなくなってしまい、ずいぶん経ってから気がつくと、お店は無くなってしまっていました。
 京都でも、残念ながら今日味わうことができなくなってしまったお店のお菓子は私の知る限りでさえいくつもありますが、甘栄堂の椿餅もそのひとつです。
 

 さて、今多くの京都の和菓子店では、2月頃が椿餅の季節となり、まだ浅い春にいただくお菓子の代表的なもののひとつとなっています。この2月は、初冬からの早咲きの椿と早春に開き始める椿が咲きそろいだす時期でもあります。そこで今回訪れましたのが梅宮大社(うめのみやたいしゃ)です。こちらはその名のとおり、梅の花で有名な神社ですが、知る人ぞ知る、じつは椿の名所でもあります。
 もうひとつ、この神社へお参りをしたいと思ったわけは、先月の「京の暮らしと和菓子」で訪ねた実家の酒蔵に端を発します。蔵の中の神棚に松尾大社のお札とともに梅宮大社のお札が祀られていることに、改めて気づいたのです。

梅宮大社は、酒造りの神とされる「酒解神(さかとけのかみ)」、「酒解子神(さかとけこのかみ)」を祀っている神社なのです。

梅宮大社随身門(楼門) 文政十三(1831)年に造営

 この神々の名には聞き覚えがないと思われる方も多いでしょうけれど、梅宮大社の御由緒にしたがって説明しますと、酒解神は大山祗神(おおやまずみのかみ)、酒解子神は木花咲耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)のことで、大山祗神は、お子さまに当たる木花咲耶姫命が瓊瓊杵命(ににぎのみこと)との間にもうけられた彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)をご安産になったことをお喜びになられ、狭名田(さなだ)の茂穂を以って「天甜酒(あめのたむさけ)」を造ってお祝いをされたという『日本書紀』の記事から、これが穀物を以って酒を醸した始まりとされます。またこのことから大山祗神を酒解神、木花咲耶姫命を酒解子神と称することになったということです。
 そのため、全国各地の酒屋の酒樽が楼門を始め、境内にお供えされています。実家の酒樽ももちろん境内にあり、酒造りに際して、この梅宮大社の神々への祈りを欠かさず続けてきたのでした。

本殿 元禄十三(1700)年造営

 今回、これまでのご縁を頼みに、厚かましくも橋本以裕(もちひろ)宮司様を煩わして、境内の神苑に咲く椿の花々をお教えいただきました。
 神苑には多数の紅い藪椿が大きな樹勢を誇っていますが、白藪椿、紅侘助(わびすけ)の他、お茶花に喜ばれる、繊細な絞りの紅が入った太郎庵、可憐な薄紅色の有楽(うらく)、白くふくよかな加茂本阿弥(かもほんあみ)、そして花芯が花弁のように巨大化した日光(じっこう)といった珍しい品種の椿も花をつけて、梅花がまだ二、三分咲きのものが多いなか、奥ゆかしくも華やかに咲きそろっていました。

紅い藪椿
白藪椿
紅侘助
太郎庵
有楽
大樹にたわわに咲く有楽
加茂本阿弥
日光(じっこう)

 宮司様のお話によると、多数の椿を植えられたのは伯父様に当たられる先々代の宮司様で、当初は椿の名を札に書いたものを枝に結んでいたが、写真愛好家などが花を撮るときに邪魔になるためか、札がはずされ、そのまま木の下に放置されることが相次いだため、札をつけること自体をやめてしまったとのことでした。 
 こうした一部の人の振る舞いには驚きと怒りを禁じえませんが、花の名を知りたいと、宮司様に尋ね続ける自分もまた、何か無粋な存在に思えてきました。ふくよかに咲く椿の美しさを純粋に愛で楽しむ心持ちが、神苑にはふさわしいのかもしれません。
 梅宮大社の神苑では、これから3月に咲く品種も多数あり、見頃はまだこれから続くということでした。3月には、遅れている梅の開花も進み、さらに梅と椿の競演を楽しめるはずです。

梅宮大社の神苑と白梅
 
 さて椿餅の話に戻りましょう。椿餅は菓子の中ではかなり古い起源を持つもので、源氏物語(若菜上)に登場します。源氏の六条院での春三月の蹴鞠の会の後、蹴鞠に打ち興じた若い公達らに出された甘いもののひとつとして。

「次々の殿上人は、簀子に円座召して、わざとなく、 椿餅、梨、柑子やうのものども、さまざまに箱の蓋どもにとり混ぜつつあるを、若き人びとそぼれ取り食ふ。」とあります。
 この椿餅については、南北朝時代の源氏物語の注釈書である『河海抄』に、「つは井もち井」はもちの粉にあまづらをかけて椿の葉に包むことが書かれており、今日の道明寺粉に当たるものを戻して餅にし、まだ砂糖のない時代ですから、あまづら、すなわちアマチャヅルからとった甘味料を含ませた餅菓子であることがわかります。平安時代には唐菓子という中国から伝わった揚げ物の菓子が多かったようですが、この独特の餅菓子は、和菓子の原点とも言われています。
 この時代にはまだ餡はなかったので、道明寺粉の餅そのものに甘味を染み込ませたものだったことがわかります。そして先に書いた下河原の椿餅は餡のない道明寺製のお餅でした。これが平安時代のそれにどれほど近いものかどうかはわかりませんが、じつはよく似た道明寺製の桜餅に馴染んだ若い舌には、餡が入らずあっさりした甘みと、椿の葉がとくには桜餅の塩漬けの桜葉のように味を添えているわけでもないことが、少々物足りなかったことを思い出します。
 おそらくそういう点で、多くのお店の椿餅が、お抹茶と合わせていただくことなどを前提に、餡を包み込んだ道明寺製のお餅となっていったものと思われます。

 なかでも塩芳軒の椿餅は、艶やかな椿の葉が美しく整えられていることで、群を抜いています。この椿の葉一枚一枚が、形や大きさの揃ったもの、お餅に坐りの良い、捻じれのないものなどの選別を経たものであることも明らかに伝わってきます。葉の両端を落とした形も、餅の姿に沿っていて、愛らしく思われます。

 そして上下に厚みのあるしっかりした椿の葉があることで、ネットリと蜜を含んだ道明寺の餅が、皿や懐紙にくっつかず、とても扱いやすいのです。先ほどの源氏物語に出てきた、蹴鞠の後の若い貴公子らが盛りあわされた梨やみかんとともに、おそらく手でつまんでも食べやすいように提供されたスナックであったことも頷けます。
 さらに塩芳軒の道明寺はたいへん肌理が細かくなめらかで、餡の甘さも控えめな、上品さの際立つ椿餅となっています。

 梅宮大社を辞す時、宮司様が「うちでは大島と呼んでいる藪椿より大きく開く真っ赤な椿。まだ咲き始めたばかりですが、3月下旬頃にはあふれんばかりに咲きこぼれるのですよ。」と、社務所前の大木から花数輪のついた枝を、手ずから切ってお渡しくださったのでした。
 家に帰って花瓶にさして楽しんでいたのですが、大きく開花して盛りが少し過ぎた頃、なんと花からしとどに蜜が流れ落ちているのです。落花したものを縦に切ってみると、まだたっぷり蜜が花芯の奥に残っていました。そっと口に含んでみると、そのあまりにも上品で濃密な甘さに、平安時代の椿餅に、この椿の蜜も使われることはなかったのだろうかと、淡い空想が広がるのでした。 

塩芳軒

住所 京都府京都市上京区黒門通中立売上ル飛騨殿町180
電話番号 075-441-0803
営業時間 9:00~17:30
販売期間 10月〜5月頃
定休日 日曜・祝日・月1回水曜日(不定)
価格 432円(税込)※お求めの場合は5個より。要注文

http://www.kyogashi.com/

 

  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都造形芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都造形芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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