
偶然を信じて
——小山さんは熊本県天草市の出身です。どのような幼少期を過ごされていましたか。
とにかく情報に貪欲でした。天草市は田舎なので、外界からの情報に乏しかったんです。テレビかラジオか、雑誌しかない。いつも情報に飢えていました。なんでもいいから知識を蓄えたかった。
一方で、情報を発信することが難しい時代でもありましたね。あの頃、自分が思っていることを人に伝える方法といえば、発言するか、作文で書くか、せいぜいポスターをつくるくらい。それではとてもじゃないけど思いや考えは広がっていかないですよね。
——小山さん自身は子ども時代に、情報発信はされていましたか。
作文を書くことは得意だったと思いますが、それは先生や両親が「面白いね」と喜んでくれることが嬉しかったから書いていただけなんです。そういう意味では今と同じで、「自己表現」ではなく「誰かを喜ばせる」ことが目的だったんだと思います。
僕が小学校4年生のときに、「大塚先生」という先生が僕の作文をすごく褒めてくれたんですよ。それから色々なテーマで僕にチャンスをくれました。地元の十万山に展望台が完成したときには、小学生代表として自分の作文を朗読して、テープカットをするなんて経験もさせてもらいました。今振り返ると、大塚先生が褒めてくれたから文章を書く仕事に就いたんだろうなあと、思います。
——高校まで天草市で過ごし、日本大学藝術学部に入学されます。大学入試のときに偶然出会った女性がいらっしゃったそうですが。
僕が日藝を受けたのは、特別な思い入れがあったからではないんです。僕の共通一次試験(現在のセンター試験)の成績を見た友人に「もう1校くらい受けた方がいいんじゃないの」と言われて。彼は日藝の映画学科を志望していて、「映画学科以外は、いらないから」と願書をくれました。その中にあった放送学科に目が留まって「なんとなく」受験したというのが本当のところです。
これも不純な動機ですが、いわゆる「京女」と付き合いたくて同志社大学も受験していたんですよ(笑)。ところが日本大学の面接試験で、隣にアイドルみたいに可愛い人がいたんです。「ササイチエコさん」という女の子で、気取った標準語で話しかけたら「受かったら日藝に入る」と言うじゃないですか。後日の結果発表で自分と一緒に彼女の番号も合格している。それで「もう日藝しかない!」と思ったんですね(笑)。でも、入学式の翌日に彼女の姿を探したら、なんと男と一緒でした。すでに彼氏がいたんですよ。僕の恋は入学2日ではかなく散りました。
——放送の世界に飛び込んだのは、偶然の出会いが積み重なっていった結果だったんですね。
「セレンディピティ」が好きなんですよ。幸運へ導かれる偶然。「オレンジ・アンド・パートナーズ」をつくるときも「セレンディピティ」という名前にしようかと思ったくらいです。今の社名にしたのは、世界中の人がわかる言葉で、自分の好きなビタミンカラーを入れたかったから。オレンジジュースみたいに毎朝飲んでも飽きないクリエイティビティや、夜明けや夕暮れに空がオレンジ色に変わる、その曖昧な時間の中に正解を探すような仕事がかっこいいなと思ったんです。
はじまりはラジオだった
——学生時代に文化放送でアルバイトをされていますね。
日本大学の放送学科では、学生たちの間で文化放送でのADのアルバイトを先輩から後輩へ引き継ぐという習慣がありました。それで声をかけられたことがきっかけです。「アシスタントディレクター」とは名ばかりの雑用係でしたけどね。レコードの準備やハガキの整理、スタッフのお弁当の注文とか。とはいえ、そんなことでも「使えるAD」と「使えないAD」のちがいははっきり出るんです。
——そのちがいはどこにあるんでしょうか。
人がなにを求めているかを推察できるかどうかですね。
そのためには、相手を知らなきゃいけない。僕はスタッフの思考や行動を先回りして推測することを心がけていました。
その時のDJは吉田照美さん。照美さんは、「とんかつ 鈴新」というお店のヒレカツとコロッケの盛り合わせが好きで、それしか食べないんです。だから僕は、いつもそれを注文しないといけない。でもある日、「照美さん、同じものばかり食べる人生ってつまらなくないですか? 同じ視点でものを見てもしょうがないですよ。今日は違うものを頼んでください」と言ったことがあるらしいんです。照美さんには「うるせえ、俺が食いたいもんを食うんだ」って怒られたみたいですね(笑)。僕はなんとなくしか覚えていないんですが、照美さんは今でも「だいたいなんでお前ごときがパーソナリティーに向かってそんなことを言うんだ」と言っています。
——現在のお仕事にも繋がっている気がします。
今と変わらないといえば変わらないですね。僕のクリエイティビティは、人の思考や行動を推し量ることから始まっていると思います。
僕は、いつも新入社員を運転手にするんですよ。そうすると移動している間はいろんな話ができますよね。それが自然と個別レッスンになるんですよ。そして、運転ってその人のことがすごくわかるんです。僕がいつも言っているのは、運転は「前方の推理」と「後方への思いやり」、そして「横との駆け引き」。これの三つを、運転によって学べるわけですよ。
——文化放送での仕事がきっかけで吉田照美さんと一緒に「バナナトリップ」というブランドを立ち上げていますね。
これも動機が不純なのですが(笑)、とにかく照美さんと一緒にお金儲けがしたかったんです。当時「夕やけニャンニャン」でおニャン子クラブが着ている「セーラーズ」というブランドの洋服が大ヒットしていました。そこで司会の照美さんに「自分のブランドをつくって着ればセーラーズのようにヒットするんじゃないですか?」と持ち掛けたんです。それが「バナナトリップ」の始まりです。
——「バナナトリップ」が、業界を飛び出して幅広く仕事をすることになったきっかけだったんでしょうか。
それがちがうんですよね(笑)。きっかけは、バナナトリップが潰れたから。そのあと懲りずに白髪が治るってふれこみのあやしげな薬を輸入しようとしたんだけど、法的に認められなくて頓挫しちゃった。そこで商売はいったんやめにして、同時にテレビ一本に絞ることにしたんです。
——学生時代に放送作家としてデビューされていますが、どのような番組に関わられたのですか?
「11 PM」や「メリー・クリスマス・ショウ」という番組に参加しました。「メリー・クリスマス・ショウ」の放送作家陣は長谷川勝士さんや景山民夫さんといったそうそうたるメンバー。内容はクリスマスに青山から歌番組を生放送するというものです。桑田佳祐さんの声がけで松任谷由実さん、泉谷しげるさん、吉川晃司さんなどの豪華なアーティストたちが一同に集まって、まるで「We are the world」のようでした。
——すごいメンバーですね! 大学4年生でそんな番組に参加するというのは放送の世界ではよくあることなのでしょうか。
めずらしいことだと思いますよ。きっと「若者代表」として呼ばれたんでしょうね。僕は当時、大学生の好みや流行に精通していましたから。ベテランの放送作家たちは若者に何がウケるのか、生の情報が欲しかったんだと思います。
——情報に貪欲な姿勢があったからこそだったんですね。
言い換えれば好奇心でしょうね。人生を面白くするのは好奇心です。あらゆるクリエイションの源泉だし、好奇心があるからこそ、さまざまな人との出会いが生まれ関係を結ぶことができる。
——小山さんはどうやって好奇心を維持してきたのですか?
かつて僕のあらゆる好奇心の源泉は恋愛でした。もっとわかりやすく言うと、モテるため(笑)。知識が豊富だとデートのときにいろんな会話を膨らませることができるでしょう。でもこの歳になってくると、下心がなくなって「誰かに喜んでもらえる幸せ」だけが残ってきたのかなあと思いますね。
気づきを与える天使に
メディアの仕事って天使に近いんですよ。「料理の鉄人」で、それまでスポットの当たらなかった料理人が注目されるようになりました。その様子を見て「あの人の幸せに僕の番組が役に立ったのかも」と思うと、天使になれたような気持ちになったんです。「メディアの力」はとても大きなものです。上手に生かすことができれば、人を幸せにすることもできる。誰かの人生にポジティブな影響を与えられることって、すごく気持ちがいいんですよ。感謝されなくても、自分の仕事で目を輝かせてくれた人を見ると「いいことしたな」と充実感や満足感が得られます。
——では、今取り上げたいと考えているテーマはありますか?
本当にやりたいのは「小学校の先生」をスターにすることです。
大学の教授をやっていると、「大学だと遅い」と感じることが多いんです。大学生になる前に、もっと早くやっておけばすごくよかったのになあと。その一方で、世の中では大学教授が偉くて、小学校の先生が下、というようなイメージがありますよね。
でも本当は、小学校の先生にこそ意味があるんです。僕自身も、根幹はやっぱり「大塚先生」だったと思っています。だから、小学校の先生をもっとスターにして、先生の質を上げることで、教育の質の向上や、果ては日本の国力アップに繋げられるんじゃないかと考えています。
僕のその思いは、「嵐のワクワク学校」というイベントのきっかけにもなっています。あれは嵐のファンだけでなく小学校の先生に見てもらいたいんです。そして、教えることはこんなにエンターテインメントなるということや、教え方次第でみんなはこんなにキラキラして話を聞くんだということを伝えたいと思っています。
——小山さんの考える「理想の天使像」を教えてください。
自分がなにかをしなくても、自然と誰かを変える力があるのが最も素敵な天使なんじゃないかと思います。誰かが自分の姿を見てくれて、ポジティブな心持ちになれるとか。なにもせずに人に気づきを与えられたら最高でしょうね。
——まるで神様のようですね。
「湯道」という入浴の作法を提唱しているんですが、陶芸家の樂吉左衛門さん に「どうすれば湯道が『本物』になりますか」と聞いたことがあるんですよ。
そうしたら「簡単ですよ。小山さんが死ねばいいんです」と言われました。「開祖と呼ばれる人がまず死んで、そこに共感する人たちが現れ、その人を神と祭り上げたときに本物になるんです」と。宗教と近いかもしれないですね(笑)。
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米川実果Yonekawa Mika
1996年滋賀県生まれ。京都造形芸術大学 情報デザイン学科2015年度入学。デザインが地方に対してできることに興味があり、京都を中心にイベントなどの企画に関わってきた。人生のお供はくるりと穂村弘。