EXTRA2017.10.31

京都

松原通界隈のぶらり歩きと栗きんとん ―栗きんとん(末富)[京の暮らしと和菓子 #5]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 10月といえば、京都のお菓子屋さんでは丹波栗の新栗を使ったお菓子がいろいろ出回る時期です。中でも「栗きんとん」は多くのお菓子屋さんが、それぞれの技を見せてくれる、ひと月限りの秋の上生菓子です。

祖母は10月の声を聞く頃、少し声を弾ませながら「また、頼もか。栗きんとん」と「末富さん」に注文していました。生家では「離れ」と称した別棟に住んでいた祖父母が時おり取り寄せる和菓子を、私たちもお相伴(しょうばん)ということでいただくのを、それはそれは楽しみにしていました。とくにこの秋の栗きんとんは、忘れられないお菓子のひとつです。

 確か中学3年生くらいだったと思うのですが、その「末富さんの栗きんとん」のお遣いを私が勤めることになったのです。烏丸今出川にある同志社中学に通っていたので、家のある伏見からは桃山御陵前駅で近鉄電車に乗り、さらに京都駅から当時まだ走っていた路面電車、市電に乗って烏丸通りをまっすぐ北上し、今出川まで通学していました。つまり、毎日烏丸通りを行き来していたので、「末富さん」がある烏丸松原通り西入(い)ルは、市電を途中下車すれば立ち寄れる場所だったのです。

 とはいえ、通学の途中で下車したことはほとんどなく、四条通りのような繁華街なら馴染みもありますが、松原通というのは、いったいどこなのかと。学校帰りの市電の中で、東西の通り名を覚えるための唄、「丸竹夷に押し御池、姉三六角蛸錦、四綾仏高松万五条(まるたけえびすにおしおいけ、あねさんろっかくたこにしき、しあやぶったかまつまんごじょう)」を頭の中で唱えた上で、高辻通の次が松原通と、高辻で市電を降りたのを憶えています。

 電車を降りてみると、いつも市電から見ていて「かなのくずし字」で書かれていて、「い□□やくし」と部分的にしか読めないから余計に気になっていた大きな石碑が立っていました。ささやかな冒険心にかられて奥に入ってみると、そこには、烏丸通りのビルに隠れるように「因幡薬師」という小さなお寺があったのでした。その時はただ、「いなばやくし」と読むことがわかってスッキリしたという思いで通り過ぎました。

 よそ道をしながらたどり着いた松原通は思いのほか狭く、ビルの多い烏丸通とは趣の違う、古い商家が軒を並べるような町で、その中に目指す「末富さん」はありました。

 その後、高校、大学と京都の歴史を学ぶようになってから、松原通が桃山時代に豊臣秀吉が五条通を南に変更させる前の元の五条通であったことを知りました。つまり京都のメインストリートであり、都から洛外に出るあの五条橋は、今、松原通から鴨川を東に渡す松原橋の場所にかかっていたのです。

現在の松原橋 牛若丸と弁慶が出会ったというのはこの橋の上

 また大学の美術史の授業で、平安時代の仏像を学んでいた時、10世紀末の作品として紹介された仏像が「因幡薬師」であることを知った時には、ちょっとした衝撃を覚えました。中学生の時「ふーん。いなばやくしと読むのや」とだけで済ませていた街中の小さなお寺に、平安時代の仏像が祀られていたのだと。しかもそれは穏やかで美しい平安時代中期の様式が顕著な作品でした。

 観光地でもなく繁華街から少し距離もあるために、それほど気にかけていなかった松原通界隈に、思わぬ一面があることに気づいたのでした。

 さて今月のお菓子、祖父母のおかげで知った私にとっては「きんとん」というお菓子の原点ともいうべき「末富さん」の「栗きんとん」をご紹介したいと選びました。そしてあわせて「末富さん」のお店の近辺、以前から気になっていた松原通界隈の、平安時代に遡る由緒を伝える場所を改めて訪ね歩くことにしたのです。

 

 

 ぶらり歩きは先ほどの「因幡薬師」から出発しましょう。このお薬師様はまさにその名があらわす逸話に彩られていました。

平等寺(因幡薬師)の烏丸通りに面した石碑
平等寺(因幡薬師)正面入り口

 平安時代の長徳3年(997)、因幡国司、橘行平(たちばなのゆきひら)が、赴任を終えて京へ帰る途中、重い病に罹って臥せっていると、ある夜、行平の夢に僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に、仏の国(インド)から衆生を救うために流れついた貴い浮き木があるので、それを引き上げてみよ」とのお告げがあった。行平が引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像で、これを祀ったところ、行平の病は癒えて京に帰ることができた。その後、時は過ぎ長保5年(1003)のこと、薬師像が行平のあとを追ってはるばる因幡から虚空を飛んでやってきたのであった。行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀ったという。<因幡堂縁起』より要約>

 この薬師への信仰は貴賤に広く行われたようですが、ちょうど因幡堂の南に位置していた東五条院に住んでおられた高倉天皇によって承安元年(1171)に「平等寺」と命名されたことから、これが現在の寺の正式な名称となっています。

 平安時代には、このあたりの元の五条通に、院や貴族の屋敷が立ち並んでいたことがわかります。しかし橘行平の屋敷も東五条院もとうに失われ、また長い歴史に繰り返された京の街中での度重なる火災にも「因幡薬師」が救い出されてきたことの重さを感じざるをえません。この仏像を、京の町衆らが深く信心してきたことの証しは、普段から像の頭上に綿の入った頭巾をかけ、安置されているお厨子の背面に4つの滑車を付けて、いざという時には仏像を傷つけずに移動させるための工夫がされていることからもわかります。

 そして石に大きく刻まれたかな書の「いなはやくし」の標べも、庶民のためのお薬師さんの存在を知らせてくれるものであったことが頷けます。

 さて「末富さん」を目指して烏丸松原を西に入っていくと「末富さん」の少し手前のビルの合間には、小さな神社があります。前を通り過ぎるだけで、今まで足を止めたこともなかったのですが、ここは「新玉津島(にいたまつしま)神社」というお社でした。

新玉津島神社
末富

 社伝によると文治2年(1186)に、歌人藤原俊成がと後鳥羽天皇の勅命により自分の邸宅地に和歌山県和歌浦の玉津島神社に祀られている歌道の神「衣通郎姫(そとおしのいらつめ)」を勧請したことに由来するとされています。俊成の宅地は、五条京極(現在の松原通寺町)にあったとも言われており、創建時の由緒は後世の付会とする説もありますが、貞和2年(1363)には、この地に置かれた和歌所に『新拾遺集』の勅撰が命じられています。中世にはその別当識が和歌所を兼ねていたとされ、和歌に関わる社として確立していたことがわかります。江戸時代には歌人であり、芭蕉の師でもある俳人、北村季吟がこの神社の祠官となっています。今でも短歌、俳句の上達祈願の神として崇敬されているとのことです。ひっそりと小さな敷地にある現在の神社が、このような長い歴史を持つ京都ならではの歌や俳句の聖地であったとは驚くばかりです。

 すぐ西にある「末富さん」で栗きんとんを求めてから、そのままもう少し松原通を西に歩いて行くことにしました。新町通を下がったところ(南に行くことを京都では下ルと言います)にじつに小さな祠があります。見過ごしそうなお社なのですが、これは松原道祖神社といい、平安時代の『今昔物語』巻20に「天狗、仏ト現ジ木末に坐セル語」に「五条の道祖神(さえのかみ)」として登場するほどの古い由緒を持っているのでした。

松原道祖神社
五條天神社

 さらに松原通りを西に進むと西洞院通に出ます。ここはバス通りでもあり少し道幅がありますが、昔は西洞院川が流れていたそうです。この西側に、五條天神社があります。この神社もまた、『宇治拾遺物語』巻2の「柿の木に仏現ズル事」の中に「昔、延喜の御門の御時、五条の天神のあたりに、大なる柿の木の、実ならぬあり。その木のうへに、仏あらはれておはします」と出てくる事から平安時代前期には鎮座していたことを伺わせます。『徒然草』第203段に「主上の御悩(ごのう)(病気の事)、大方(おおかた)世中のさわがしき時は、五条の天神に靭(ゆき)(矢を入れる容器)をかけられ」とあり、病気退散の神とされました。

 この西洞院通を北上し、高辻通を超えたところの東側にあるのが、菅大臣神社です。なんとここは、菅原道眞はじめ菅原家の邸宅地があった場所とされます。道眞が大宰府に左遷させられる際、詠んだと言われる有名な和歌「東風(こち)吹かばにほいおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」の梅は、まさにここにあったものといわれます。

菅大臣神社
菅大臣神社の大イチョウ

 台風の行った直後の日に尋ねたのですが、境内の落ち葉などを綺麗に掃き清めておられるご近所の方の姿があり、今も地元に大切に守られているお社ということを強く感じました。

 そしてこの境内には京都市指定の保存樹でもあるご神木の大イチョウが3本聳え立っています。菅大臣神社は、元治元年(1864)の蛤御門の変で焼亡しています。イチョウは火災の時に水を吹くと言われる樹。樹齢何百年にもなろうと思われる大イチョウは、おそらくこの大火の中を生き抜いたものと思われます。幕末維新時の災禍で、焼け野原になった一帯に、無事確かに生き残ったイチョウはどれほど人々の救いと励ましになったであろうかと想像します。

繁昌神社
班女塚

 この境内を通って高辻通に抜け、烏丸通を目指して東へ戻りますと、商いの繁昌、無事を祈る「繁昌神社」があります。まさにこの近くで店を構えておられる先ほどの「末富さん」、さらに京料理の老舗「木乃婦(きのぶ)さん」などのお提灯も上がっていて、商家が立ち並ぶこの一帯ならばこそのお社と言えます。しかし、ここにも驚くべき歴史が潜んでいました。『宇治拾遺物語』巻3にある「長門前司の女、葬送の時、本所にかへる事」という説話にちなむもので、この女が亡くなった時、遺骸を運び出して葬ろうとしたが、根が生えたように動かないので、そのまま埋葬して塚をつくったが、その近くには人も居つかず、「むつかしきことあり」とされ、そこに社を据えたというのです。またそれを班女塚といったと伝えます。後世、この「班女」の音が似通っているために誤伝して「繁昌」となったとの説もあるのがこの繁昌社なのです。今も社の北西に当たるビルとビルの奥にある空き地にこの班女塚が残されています。

 じつは先程触れた菅大臣神社だけでなくここまで見てきたすべての寺社仏閣は、元治元年(1864)の蛤御門の変で広がった火によって、灰燼に帰してしまった歴史を持つものばかりです。当時すべてを失ったこの京都の商業中心地の住人たちは、家屋や店の復興だけでなく、こうした平安時代の由緒に遡る寺社仏閣をも蘇らせていった人々でもあったということなのです。平安時代が街のあちこちに、今もその跡を留め、なお脈々と生き続けていることに、ああ、こうして京都の歴史は引き継がれてきたのだと思い至ります。

 さあ、道草が過ぎました。早くいただく方が良いに決まっている「栗きんとん」をさっそく持ち帰っていただきましょう。

末富製「栗きんとん」

 箱の蓋を取った途端、もう栗の甘い香りが漂います。丹波栗を贅沢に使ったきんとんは自然の栗色の滑らかな栗餡にほんの少し栗の粒を含んで、柔らかくふっくらとまとめられています。栗の深い味を余すところなく感じさせるとともに、中に含んだこし餡との調和が、栗そのものを超えた別の美味を作り上げています。素朴に蒸したり、焼いたりした栗そのものをいただくのも、ほくほくと美味しいものですが、栗きんとんは、人が丁寧に手を加えたからこそできる味、和菓子の真髄を見せてくれるものと、私は思っています。

 新栗の時期だけ10月ごろひと月の少し贅沢なお菓子ですが、昔と変わらぬお味を守り続けておられる「末富さん」に、弛まなく伝統を受け継ぎ続ける京都の人々の心意気を感じつつ、今年も秋の幸せを頂戴しました。

 そうそう、中学生の時の初めての「末富さん」のお遣いでは、家に帰って蓋を取ると、栗きんとんが片方に寄って、まことに残念な姿となってしまっていたのでした。どうぞ、くれぐれもお平らにお持ちになりますように。

 

<文:栗本徳子(歴史遺産学科教授)/栗きんとん 写真:高橋保世(美術工芸学科4年)>

京菓子司 末富 本店

住所 京都市下京区松原通室町東入
電話番号 075-351-0808
営業時間 9:00~17:00
定休日 日曜日・祝日
価格 栗きんとん 600円前後

※価格は年により変動いたします。

※お求めの際は、予めお電話でご連絡ください。

http://www.kyoto-suetomi.com/

 

  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都造形芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都造形芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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