その取り組みから生まれた記事を本Webマガジン「瓜生通信」でみなさまにお届けします。
ただ楽しむアート、大学で学ぶアート
あなたは芸術大学に、どのような印象を持っているでしょうか。
芸術を楽しむだけではなくて、「学ぶ」ための場所。あるいは少し変わった人が集まる場所。人によって印象はさまざまかもしれません。
私は、創作に時間を使いたい、好きなことを深められたら楽しそうという思いから、京都芸術大学の文芸表現学科に入学しました。しかし、いまだ芸術を学ぶことの意味を、はっきりとはつかめていません。
将来の役に立つかといわれると、たしかに京都芸術大学の進路決定率は、90%以上あります。でも、大学卒業後の進路のためなら、べつに芸術大学に来る必要はなかったわけで、私があえてこの大学を選んだのは、もっと深いわけがあるのではないかと疑問に思いました。
そんなことを考えていたあるとき、「芸術と心理」というおもしろい授業に出会います。その講義のなかで、私たちが芸術を楽しむことの起源は、人間が獲得した「今ここにないものを想像する力」に由来する一方で、進化の隣人であるチンパンジーも「描く」という行為を楽しむと聞きました。授業の担当で「芸術するこころ」の起源について研究をしている齋藤亜矢先生が所属するのは、大学施設の文明哲学研究所というところ。大学の理念「藝術立国」のもとで、そもそも芸術とはなにか、人間とはなにかを学術的に考える場所だそうです。


授業で紹介された、チンパンジーのアイちゃんは、絵を描くことに楽しさを感じると聞きました。同じように私も、ただ楽しいから小説を書いているのでしょうか。そんな悩みをもっと深く考えるために、文明哲学研究所まで足を運びました。
社会のため? 芸術は役に立たなくていい

文明哲学研究所は、もともと学校法人瓜生山学園京都芸術大学の創設者である、德山詳直前理事長のご自宅だったそうで、さりげなく置かれた狛犬や石像も、自然豊かな景観にあっていました。
本日お会いするのは、「芸術と心理」の授業を担当されている齋藤亜矢先生です。少し緊張して、風情のある建物のチャイムを押すと、温かく迎え入れてくれました。

なぜ人間は芸術を学ぶのか。まず、芸術は人の役に立つかをたずねると、驚きの答えをいただきました。社会に役立てることを目的とした芸術は、ときに危険でもあるというのです。
たとえば、古代からつくられてきた宗教画や神像といった芸術作品は、人間が想像した、神様や精霊の姿を共有できる形にします。つまり、神様の存在を信じさせる力があるということです。文明哲学研究所の庭にある石人像も、来歴は明確ではないそうですが、おそらくかつて朝鮮半島で墓を守るためにつくられたものだといいます。

齋藤先生:「芸術は、旧石器時代の洞窟壁画のころからありますが、文明が生まれて以降はとくに社会的な役割が強くありました。古代文明でも、神や超常的な存在の姿が描かれ、そのイメージを共有することで集団の団結力を高めたり、権力者がもてるかぎりの技術と材料を使うことで権力を誇示したり、集団の社会的秩序を示す役割があったと考えられています。その後も宗教画など、信仰と結びついていた時代のほうが長くて、個人の表現を重視するのはおもに近代以後なんですね。
だから本来、芸術には、人の価値観を方向づけたり、集団意識を高めたりする社会的な力があります。一方で、それがネガティブな方向に作用してしまったのが戦争の場面です」
たしかに、戦争のポスターなどのプロパガンダを思い返せば、「役に立つ」ことを求めた芸術が人の心を操作する方向に使われる危険も見えてきます。では、芸術はどういったかたちが理想なのでしょうか。
齋藤先生:「現代のアートでは、むしろ『役に立たないこと』が大事なように思います。正しさを主張したり、価値観を方向づけるよりも、既存の価値観を揺るがすとか、みんなが目にとめていないことや当たり前に思っていることの少し違う側面を見せることで、新しい価値を生み出すのが芸術やアートだと思っています」
無意味が怖いから、人は意味を求める
齋藤先生は、「芸術は役に立たないことが大事」だと言います。それでは、何かのために存在するわけではない芸術に、なぜ、私は意味を求めたがるのでしょうか。
齋藤先生は、進化の過程で人間が言葉を獲得したことがまず背景にあると考えています。言葉を獲得した人間は、ものごとを言葉で分類して認識しようとする癖があるそうです。言葉でラベリングすれば、効率よく情報を整理できるし、人に伝えることもできます。つまり、そうしたメリットがあるからこそ、さまざまな物事に対して「それが何なのか」と考え、理解することに満足を覚える傾向があるのです。
ではなぜ、わかってもらうこと、わかることが安心につながるのでしょうか。
齋藤先生:「言葉によって、私たちは『いつ、どこで、だれが、どうした……』と記憶を整理できるようになりました。エピソード記憶の発達です。さらにその経験を言葉で共有することで、この状況ではこう対応するべきという知恵を集団のなかで積みあげていきました。ものごとの因果関係を理解して将来に備えるわけですね。「わかる」の語源が「分ける」であるように、自分が持っていた概念になにかがあてはまったとき、人はわかったと感じます。一方で、なんだかわからないものは、どう対応すればいいかわからないから怖いと感じるでしょう。たとえば天変地異の原因はわからないから怖い。だからその原因を説明するために、妖怪や精霊が生み出されてきました」

齋藤先生:「情報技術が発達したことで世界中の知識が集約され、科学によって今までわからなかったものもわかるようになってきました。でも、世の中がわかっているものばかりだったらつまらないし、なんでも分けようとする社会は窮屈なところがあります。すぐに『わかった、わかった』って言われるのがあまり気持ちよくないように、既存の枠組みに押し込められてしまう窮屈さや、一般的な枠組みに入らないものを排除する傾向もあると感じます。そんななか、アートは既存の枠組みで簡単に『わかった』と分類しないで、わかっているつもりのものでさえ未知のものとして向き合うようなところに魅力があると思っています。小説でも、完全にわかる話って、そんなにおもしろくなかったりしませんか」
たしかに、小説でも想像の余地が残されているほうがおもしろいです。予想外の展開に出会うこと、芸術をつくっていくプロセスでひらめきがあることも魅力だと感じています。
社会の役に立つか。将来の役に立つか。芸術で生活できるか。そうした答えが簡単に「わかる」なら、世界はそれほど難しくありませんし、悩むことはないでしょう。
ではどうして、「わからない」ものに向き合う芸術がおもしろいのでしょうか。芸術の価値とはいったいどこにあるのか、どうにも「わかりたい」と思ってしまいました。
現実逃避ではない、気持ちを整理する「想像のちから」
空想はしばしば、現実逃避のようにも扱われます。しかし想像し、作品を制作するときには、自分の経験を掘り下げるプロセスがあるそうです。齋藤先生は大学院生だったころに、実家で飼っていた愛犬の死に直面し、その死体を描き留めたエピソードを話してくれました。真剣に描くことで感情を整理でき、表現することのちからを感じた体験だったといいます。
齋藤先生:「なぜそうしようと思ったかはわからないんですけど、頭が空っぽのまま、その姿をすべて写し取ろうと思ったんですね。ぐちゃぐちゃに泣きながら鉛筆を走らせて、必死に光と影をとらえているうちに、気持ちが少しずつ落ち着いてくるのがわかりました。でも、ちょっと時間が空いてから見たら、絵のなかにあるのがだらりとした死体なので、いたたまれない気持ちになりました」

齋藤先生:「そこでもう一度鉛筆を持って、生きている感じに目に光を入れたり、陰影をつけたり加筆していったんです。そうしたら『このあたりを撫でられるのが好きだったな』とか『あのときこんなことがあってかわいかったな』とか、思い出が蘇ってきて。絵のなかで命を与えようとするプロセスがあったことで、結果的に死に向き合えた感じがありました。
人は生きる中でつらい体験をしたり、モヤモヤしたものや悩みを抱えたりしますが、絵を描くなどの表現をすることで、そういう心の中身を一度外に出して客観的に見られる気がします」
芸術が辛い感情を乗り越える助けになる、という意見は、小説の分野にも存在します。たとえば「ナラティブ・アプローチ」という精神療法では、自分の問題をいったん外において、それがハッピーエンドにつながるストーリーを書くことが著者の救いになるそうです。「物語」は文字で書くだけではなく、さまざまな芸術で表現できる、ということなのかもしれません。
齋藤先生:「一方で、つらいときほど悲しいストーリーや音楽に惹かれることもありますよね。とことん悲しい気持ちにふりきって、思いっきり泣いたりするのも大事なのだと思います。涙には 副交感神経系を優位にして緊張を緩和するはたらきがあるので、実際に張りつめた心を和らげる効果もあるんです」
齋藤先生:「私もエッセイというかたちでずっと表現に向きあっているんですけど、じつは、はじめからはっきりした構想があるわけではないんです。むしろ書いて初めて自分の考えがわかることが多いですね。すらすら言葉が湧いて出てくるタイプではないので、ちょっと変わった書き方なのですが、いろんな考えの種みたいなキーワードをひたすら書き出してから、並べ替えて絵にしていくみたいな感じです。少しずつ言葉がまとまって文章になってきたら、書いては削る、書いては削るを繰り返して、そのなかでようやく『あ、これってこういうことだったんだな』とか『これとあれが繋がってるな』と考えが整理されていきます。それは楽ではないけど、自分のこころも含めて、わからなかったことがわかるとか、気づかなかったことに気づくプロセスがおもしろいなと思います」
人の心のように混沌としたものを、簡単に「わかる」ことはできません。そして人は、わかった方がスッキリして、こころよいと感じるようです。しかし、理解しきったと思えない複雑さがあるからこそ、考え続けることができ、印象に残る側面もあります。そんなふうに私は、芸術と向き合うなかで、簡単に「わからない」ことのおもしろさを感じることができました。
また、幼い子や齋藤先生が研究していたチンパンジーのアイちゃんは、自分が手を動かすことで紙面が変化することがおもしろいから、絵を描くのかもしれないそうです。言い換えれば、自分の行為によって世界が変容する感覚を楽しんでいる、ということ。理性とはまた別の軸にある、そうした純粋な感情は、大人になるにつれて失われていく傾向があります。しかし、私は京都芸術大学で学ぶなかで、なにかの役に立てようとしない芸術にも魅力を感じるようになりました。そして、ただ芸術と親しむうちに新しい発見があるのなら、それほどすばらしいことはありません。
あなたも「ふと気が向いた」くらいの理由ででも、芸術と向き合ってみませんか。
(構成・執筆:文芸表現学科2年 稲本和真)
京都芸術大学 Newsletter
京都芸術大学の教員が「今、気になっている」アート・デザインの話題と、週に一度のコラムをお届けします。メールアドレスだけで登録完了、来週から届きます。
-
京都芸術大学 広報課Office of Public Relations, Kyoto University of the Arts
所在地: 京都芸術大学 瓜生山キャンパス
連絡先: 075-791-9112
E-mail: kouhou@office.kyoto-art.ac.jp