SPECIAL TOPIC2023.08.04

京都

多面体・坂本龍一の「LIFE」とコスモポリス京都の可能性—追悼シンポジウム 坂本龍一の京都

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  • 京都芸術大学 広報課

坂本龍一と京都との知られざるつながり

 

「Ars longa, vita brevis 芸術は長く、人生は短し」という言葉を残し、世界的に著名な音楽家、坂本龍一が3月28日に亡くなった。そのニュースが報じられたのは、4月2日のことだった。坂本は2014年以降、がんを患っており、一度目は寛解したが、2020年再度がんが発見され、長い闘病生活に入っていた。2022年12月、体力的にリアルなコンサートができなくなったということもあって、1曲1曲スタジオ録音する形のピアノ・ソロ・コンサート「Ryuichi Sakamoto: Playing the Piano 2022」が世界約30か国と地域へ向けて配信された。その舞台裏のインタヴューを交えた番組『坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes』がNHKで放映されたのが2023年正月のこと。満身創痍になりながら、一音一音紡ぎ出す美しいメロディーに感銘を受けた方は多いだろう。また、明治神宮外苑の再開発計画で、樹木約3000本が伐採されることを知り、小池百合子東京都知事らに考えなおすよう手紙を送るなど、未だ多くの人々の行動を後押ししている。没後なお、坂本の「LIFE」は続いているように思える。

 

多くの方がご存知の通り、坂本は1990年にNYに拠点を移していた。しかし、過去11年間に9年も京都を訪れていたことはそれほど知られていないだろう。なぜそれほど京都を訪れて、何を行っていたのか。2023年6月18日、小崎哲哉(ICA京都『REALKYOTO FORUM』編集長/大学院教授)が発案、出演依頼を行うとともに、自ら司会を引き受け、長年交友のあった浅田彰(ICA京都所長/大学院教授)とアート・コレクティヴ「ダムタイプ」の高谷史郎をメインパネリスト、さらに坂本と縁の深い8人ものコメンテーターが一堂に会した追悼シンポジウム「坂本龍一の京都」が、ICA京都と京都芸術大学舞台芸術研究センターが主催となって、京都芸術劇場 春秋座で開催された。坂本は春秋座で開催された公演やシンポジウムに何度も参加しており、その足跡をたどるのにこれ以上の場所はない。400名の予約はすぐに埋まってしまい、当日券を追加で発券したところ、14:00の開演にもかかわらず、受付開始の11:00にはすでに多数の入場券を求める人が並んでいた。その期待に裏切らない、抱負な秘蔵資料とそれぞれの回顧、そして浅田による特別講義といってもいい4時間に及んだシンポジウムの一端をレポートしたい。

 

吉川左紀子(撮影:顧剣亨)

最初に挨拶をした吉川左紀子(学長、文明哲学研究所所長)は、NHKの放送を見て感動したこと、坂本没後の4月9日に、浅田から坂本とゆかりの深かった京都芸術大学でも、その交流について話す機会をつくるべきじゃないかと提案するメールがあり、それを実現すべく動き、春秋座が日曜日で1日だけ空いていたのが6月18日だったことを明かした。

コメンテーターは、京都精華大学の元学長であるウスビ・サコ(京都精華大学アフリカ・アジア現代文化研究センター長)、岡田暁生(京都大学人文科学研究所教授)など芸術大学の枠を超えて集まった。さらに、「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」を立ち上げた写真家のルシール・レイボーズと照明家の仲西祐介、京都市立芸術大学教授の岡田加津子、彫刻家の名和晃平(大学院教授)、音楽家の原摩利彦、唐紙職人の嘉戸浩など、国籍も職種もさまざまな人々が集まったことに、坂本の幅広い人脈と活動の一端が垣間見られる。坂本は、京都に来ることを「京都会議」「京都合宿」と称していたという。京都でさまざまなジャンルの人々と交流をすることは、自身の創作だけではなく、現実や未来を変えていくための活動の一つだったのかもしれない。

 

坂本龍一の音楽史的な位置づけ


坂本龍一は偉大な作曲家、演奏家である。その音楽活動をどのように位置づけるか、まず浅田から概略が述べられた。それは坂本という個人の活動に留まらない、音楽史や相互に関係する芸術史全体を包含するものであった。それは坂本の音楽人生が、音楽史の先端を体現していたからでもある。

小崎哲哉(撮影:顧剣亨)

坂本は1970年に東京藝術大学に入学した。高校時代から学生運動に参加していたのは有名な話だが、1972年に連合赤軍によるあさま山荘事件が起き、左翼・新左翼の学生運動は頓挫する。同じように、(新)古典派、ロマン派、近現代音楽と続いた音楽の歴史も、武満徹のような前衛的な表現の後、高橋悠治らが、それすらも解体する形で、専業音楽家ではない人々による水牛楽団のような活動を行った。1970年の大阪万博の鉄鋼館(現・EXPO’70パビリオン)では、武満が演出プロデューサーとなり、1008個のスピーカーが組み込まれた円形ホールで、ヤニス・クセナキスや高橋が電子音楽を演奏したが、それがモダニズムの前衛の頂点だった。同じく大阪万博のドイツ館オーディトリウムに参加したカールハインツ・シュトックハウゼン、フランスでは、IRCAM(国立音響音楽研究所)の初代所長ピエール・ブーレーズといった人々が前衛音楽や電子音楽を試み、それに対しアメリカのジョン・ケージが音楽と非音楽の境界線すら疑問に付したわけだが、そのようなモダニズムが無効化した後に、すべての歴史的な様式が並列になり、選択可能になったポストモダニズムを体現したのが坂本龍一であるという。YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)から始めるともともと坂本がモダニズムの先端にいてポストモダニズムに展開したことがわからないということで、今回、ピアノの内部奏法を用いた、坂本の現代音楽曲《分散・境界・砂》が紹介された(演奏は高橋悠治の実妹のピアニスト、高橋アキ)。映画でいえばジャン=リュック・ゴダールが『中国女』から『ヒア&ゼア こことよそ』に至る過程で前衛を突き抜けた。坂本はゴダールの映画を好み、YMOの「東風(トンプウ)」のように、楽曲にタイトルを引用したこともある(本を正せば、毛沢東がモスクワで演説した「東風が西風を圧倒している(东风压倒西风)」という言葉から来ている)。

坂本は、1977年に大学院を修了し、リクエストに何でも応えることが可能なスタジオ・ミュージシャンとして活動し、細野晴臣に誘われてYMOに参加する。いっぽうドイツでは、クラフトワークがシンセサイザーのような新しい電子機器を使い、ロボットのような機械的な動きで演奏して、いわゆるテクノ・ミュージックを創始する。YMOは、アンディ・ウォーホルによる毛沢東のポートレートを連想させる人民服を着てジャケットに登場し、オリエンタルな要素をあえて入れた東洋のテクノ・ポップとして売り出した。浅田は、クラフトワークは、英米のロックに対して、ドイツ人はグルーヴがないと指摘されることを逆手にとって機械性を徹底したが、YMOはそれぞれの演奏がうまくグルーヴがあり、人間的で中途半端だと思っていた、だが、それが多様性のある面白い音楽につながったという。特に『Behind The Mask』は、マイケル・ジャクソンがアルバム『スリラー』の収録曲候補として交渉したほどであった(マイケルの没後、アルバム『MICHAEL』に未発表曲として収録された)。ただ、YMOの戦略は本筋ではもう状況を突破できないというアイロニカルな「からめ手」であり、坂本も、何でもこなせる「万能のヘルパー」「ポストモダンな音楽機械」として振る舞ったのだという。1984年にソロで出した『音楽図鑑』のコンセプトも、坂本の膨大な音楽的な記憶を自動書記的に取り出して、図鑑のように並べるというものだった。同時期に、ダムタイプがデビューし、ポストモダン建築の範例となる磯崎新の『つくばセンタービル』(1983)も建てられている。
 

写真左:高谷史郎、右:浅田彰(撮影:顧剣亨)

 

浅田は1983年に、フランス思想の構造主義、ポスト構造主義の見取り図を提示した『構造と力――記号論を超えて』(勁草書房)を刊行している。同じ年に発表された、自身が修行したチベット密教と構造主義をつなげた中沢新一の『チベットのモーツァルト』(せりか書房)と共にベストセラーとなり、「ニュー・アカデミズムの旗手」と評された。浅田は翌年『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』(筑摩書房)を刊行し、闘争から逃走へ、パラノからスキゾへと知の転換を促し、思想の面でポストモダニズムを体現していく。その頃に坂本と出会い、コンセプト・ブックなどに寄稿するなど交流が始まる。そして1985年に開催されたつくば万博(国際科学技術博覧会)では、ソニーの巨大モニター「ジャンボトロン」を使ったヴィデオ・パフォーマンス『TV WAR』のコンセプトを担当する。その時、映像を担当したのがRADICAL TV(原田大三郎・庄野晴彦)、音楽を担当したのが坂本龍一であり、これが最初のコラボレーションとなった。

1983年、坂本は、ジャワ島の日本軍俘虜収容所を舞台とした大島渚監督の映画『戦場のメリークリスマス』に役者として出演し、映画音楽も担当する。それが映画音楽家としての華々しいキャリアのスタートになった。1987年には、清朝最後の皇帝にして、満洲国皇帝となった愛新覚羅溥儀の生涯を描いたベルナルド・ベルトルッチの映画『ラストエンペラー』の映画音楽を担当し、米国アカデミー賞作曲賞を受賞。俳優としても、満州国建国の工作を行った甘粕正彦役を演じた。ベルトルッチの映画は、絵画的ともいえる光と色彩で圧倒的な映像美を誇るヴィットリオ・ストラーロが撮影監督を務めている。映像作家でもある高谷はストラーロに言及し坂本の映像に対する理解の深さを指摘し、浅田も映像に音楽が入るタイミング が見事であると評した。その後、ベルトルッチ、坂本、ストラーロによるチームで、1990年には『シェルタリング・スカイ』、1993年には『リトル・ブッダ』という、合わせて東洋三部作と呼ばれる作品が撮られる。浅田はベルトルッチと坂本の立ち位置が似ているとし、ゴダールによる映画の解体の後に、もう一度スペクタクル映画は可能か、という命題に向き合ったという。それに坂本は後期ロマン派を思わせるロマンティックな音楽をつけ映画音楽のひとつのピークを築いた。会場では、1985年に、イギリスのミュージシャン、トーマス・ドルビーと共作した『Field Work』のPVも紹介された。そこで坂本は終戦後に硫黄島で発見された日本兵を演じており、映像を通して戦前の日本軍に坂本なりに向き合ったことも示された。

2015年、最初のがんの治療後に手掛けた、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの映画『レヴェナント: 蘇えりし者』の音楽では、北方の大地を背景に、坂本は、音楽とフィールドレコーディングを組み合わせ、世界のうなりそのものを音楽にするような、楽音と非楽音を区別なく提示する方法をとった。後に、「もの派」を牽引した李禹煥がその手法を評価したことで、二人の交流は親密なものとなり、約6年ぶり、最後のオリジナルアルバムとなった『12』のジャケットのアートワークを李が手掛けることになった。

その後、二度目のがんを患い、すべての音楽の様式を、現在のAI(人工知能)のようにシミュレートしてきた坂本が、病気を患い老いていくなかで、自分の聴きたい音楽をつくるようになる。浅田はそれを「ポストモダンな音楽機械」が「傷を負った身体を持った人間」となったと評した。同時に、坂本はYMOを含めて、さまざまなことに関心を持ってすべてを愛していたと補足することも忘れなかった。そして、美しい人生を演出したプロデューサーであるパートナーの存在も大きいと指摘した。

 

『LIFE』から始まった京都の人々とのつながり

坂本龍一が1999年に発表した『LIFE』から、京都とのつながりが深くなっていく。『LIFE』は「オペラ」と銘打っているが、20世紀の歴史的な映像をサンプリングし、20世紀の音楽様式をシミュレートした坂本の楽曲と組み合わせた壮大なマルチメディア・コンサートだ。1部では「戦争と革命」の世紀であった20世紀の歴史的な映像と言葉に重ねて、20世紀を代表する音楽様式の楽曲を奏で、2部では来るべき21世紀のためにエコロジーと共生の視点を導入しつつ多種多様なエスニック音楽を織り合わせ、3部で救済があるか問うて終わる。会場では「原爆の父」と称されたロバート・オッペンハイマーが原爆実験を回顧した部分が上映された。『LIFE』では「救いなどないと発見することこそが救いなのだ」とベルトルッチが語るように、「救済」といっても大きな主体によるものではなく、異質なものが価値の高低なく併存するというヴィジョンだといえるだろう。

そのアイディアは浅田が提案し、20世紀のさまざまな映像・画像を浅田自身がコンパイルしたという。シンポジウムでは、まだスキャナーやPDFが普及していない頃に、浅田自身がコピーしたという合計150枚を超える貴重な資料も紹介された。坂本は、「本本堂」という個人出版社を持ち、1984年には、高橋悠治のカセットブック『水牛楽団 休業』の制作にあたり、浅田は坂本に依頼されて編集を担当している。坂本の父は、文芸編集者として著名な坂本一亀だが、坂本と浅田に共通するのは、異分野をつなげる編集者的な気質かもしれない。

そして、『LIFE』の映像ディレクション担当として、1990年に浅田が紹介した高谷史郎が参加する。高谷によると、浅田が調査した膨大な映像は、多くの著作権者の許諾をとる必要があったため、一部の映像は直前まで公演に使えるかどうかわからず、使えなかった場合に備えて代替の映像も用意していたという。また、ダムタイプ初期の中心的メンバーであり、HIVキャリアとなり、1995年に亡くなった古橋悌二と交流のあった浅田は、ニューヨークに滞在中の古橋を訪ねた際、紹介されたスティーヴ・ライヒと映像作家ベリル・コロットによるドキュメンタリー・ヴィデオ・シアター『THE CAVE』とそのヴィデオ・インスタレーションが『LIFE』の着想源の一つであることを明かした。もちろん『LIFE』の主題は、三大宗教を巡る相克を描いた『THE CAVE』とは異なるが。

『LIFE』の2部には、さまざまなワールド・ミュージックのミュージシャンが参加していた。そこに、マリ出身のミュージシャン、サリフ・ケイタもいた。ケイタに記録撮影を依頼されてフランスから来日したのが、「KYOTOGRAPHIE 京都国際写真祭」の創設者である写真家ルシール・レイボーズだ。同じく創設者でパートナーの照明家、仲西祐介と共に壇上に登ったレイボーズは、坂本への想いに胸を詰まらせながらも、アフリカのミュージシャンの撮影をしていて、知己を得たサリフから記録のために来日を依頼されたが、もともと日本に関心があった、坂本のことはもちろん知っていたが、世界の音楽、ファッション、映像が混在して世界に発信する『LIFE』を見て大きな驚きとインスピレーションを受けたと話した。それから10年経ち、東日本大震災と福島第一原発事故をきっかけに、日本の妖怪をテーマに写真を撮影するために相談していた仲西と立ち上げたのが「KYOTOGRAPHIE」だ。

写真左:ルシール・レイボーズ、左から2番目:仲西祐介(撮影:顧剣亨)

2013年に第一回目が開催された「KYOTOGRAPHIE」は、今年で11年目を迎え、すでに京都の風物詩的存在となっているが、ここに至るまでは簡単な道のりではなかった。毎回、骨太な社会問題とメッセージをテーマに打ち出して、国際的な写真家を集めることができるのは2人の志の高さゆえだろう。その原点に坂本との出会いがあり、坂本も「Circle of Life いのちの環」という、環境問題をテーマにした2016年の第4回に参加している。レイボーズの発案で、海洋生物学者クリスチャン・サルデが撮影したプランクトンの動画と写真を高谷が映像インスタレーションとして構成し、坂本が音楽を手がけた《PLANKTON 漂流する生命の起源》。2019年の第7回では、アルバート・ワトソンが招聘され、20年前の1999年に発売されたアルバム『Beauty』のジャケットにもなった坂本のポートレートを展示している。今年からは国際音楽祭「KYOTOPHONIE」を立ち上げた。小崎は、オープニングスピーチで仲西が「このフェスティバルを坂本さんに捧げます」と挨拶したことが印象に残っているとコメントした。仲西は、京都はクリエーターが多いのでいつか坂本の展覧会や舞台をしたいと抱負を語った。

 

高谷史郎とのコラボレーションとインスタレーションへの展開


『LIFE』はまた、高谷との交流を深め、現代アートとしての展開をもたらした。常々「観光は嫌い」と話していたという坂本が、2005年、高谷と法然院で「庭園ライブ」と称して庭を眺めながら音を聴くイベントを行ったことをきっかけに京都を訪れる機会が増え、「庭園シリーズ」としてのちに大徳寺(養徳院)でのライブへとつながっていった。2007年には、2003年に磯崎新の設計により開館した山口情報芸術センター[YCAM]と、NTTインターコミュニケーション・センター[ICC]で、坂本と高谷の共同作品《LIFE- fluid, invisible, inaudible...》を展示した。『LIFE』で使用した膨大な資料を、音楽のように直線的にではなく、多面的に展開するインスタレーション。天井から吊り下げた9つの水槽に超音波霧発生装置によって霧を発生させて、『LIFE』から切り出した映像シークエンスを投影し、同時にそれらに対応するスピーカーから音が流れるという仕掛けだ。この時、オープニングで坂本は「サウンドガーデンをつくろうと思った」と発言したというから、「庭園シリーズ」ともつながるものだろう。同じ年に、坂本は東寺で開催された「Live Earth」にYMOの一員として出演し、「庭園シリーズ」のVol.2を大徳寺の養徳院で行っている。さらに、今回、会場となった春秋座で開催された「第2回世界アーティストサミット」に参加している。

ちなみに、「霧」といえば、二人は「霧の彫刻」で知られるアーティストの中谷芙二子とのつながりも深く、これまでに中谷と何度もコラボレーションを行なっている。中谷は、世界で初めて人工雪の作成に成功した物理学者、中谷宇吉郎の娘であり、アメリカの実験芸術グループE.A.T.のメンバーとして大阪万博のペプシ館で霧を発生させたことなどが浅田から補足された。

大徳寺のライブ写真(撮影:國崎晋)

2012年~13年、東京都現代美術館で開催された「アートと音楽」展では坂本は総合アドヴァイザーを務め高谷と2作品を出展する。その時の作品の一つは大徳寺の塔頭、真珠庵の茶室で、住職と坂本、浅田、高谷がいる中、大雨が降り出した経験から着想されている。障子越しに外の音を聴くという体験から、オノセイゲンとともに「無限の聴覚をひらく 音を聴く道具としての茶室」をテーマに作品を制作した。そして坂本にとってますます「水」が重要な要素となっていく。2013年、《water state1》制作時の話として高谷は、「まるで音みたいだ」と、坂本から水の波紋の動画が送られてきたことを明かした。その後、気象データを用いて雨のように水滴を落下させる《water state1》(2013)、中谷芙二子の協力を得て神社境内の枯池に人工霧を発生させて音楽を生成する《LIFE-WELL》(2013)、2019年にシンガポール国際芸術祭で高谷のパフォーマンス『ST/LL』の直後に行われた坂本のコンサート『Fragments』は、水が張られた『ST/LL』の舞台をそのまま使って、楽器などが置かれた「島」を渡りながら演奏、さらに高谷との最後のパフォーマンス作品『TIME』も舞台に水が張られている。坂本は自分のコンサートは全て水を張ってやりたい、と語っていたという。

 

春秋座でのパフォーマンスと京都での創作


春秋座への坂本龍一の出演は、2005年の「スーザン・ソンタグ追悼シンポジウム」のゲストプログラムで坂本と高谷がライブを上演したことに遡るが、2008年、浅田が京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)大学院長に就任したことによって、関わりもより密接になっていく。

2010年には、NHKの教育テレビ(Eテレ)で『スコラ 坂本龍一 音楽の学校』が放送開始され、春秋座で「夏期特別講座」の公開収録が行われた。有識者との対談形式による講義パートと、小中高校生が参加するワークショップから構成された音楽史を掘り下げる番組だが、この回には浅田に加えて、小沼純一、岡田暁生が有識者として出演している。今回のシンポジウムで岡田は、観客として公開収録を見に行ったら、来ているなら出演するよう現場で坂本に誘われたことを明かした。また、「自分はドビュッシーの生まれ変わり」と思っていたというエピソードが有名な坂本が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ『悲愴』を楽しそうに弾いていたことに驚き、「驚いた」というと坂本は「僕は古い人間なんですよ」と答えたという。そして、「坂本は昭和30年代の中央線沿線というサラリーマン文化、プレポストモダンの中で育っており、実直でまっとうな人間だと感じた」と語った。

『 マラルメ・プロジェクト―21世紀のヴァーチュアル・シアターのために』
2010年7月24日 京都芸術劇場 春秋座 Photo by Toshihiro Shimizu

同じく2010年、浅田は、フランス文学者で、京都造形芸術大学(現・京都芸術大学)特任教授、舞台芸術研究センター所長であった渡邊守章と「マラルメ・プロジェクト―21世紀のヴァーチュアル・シアターのために」を企画。構成・演出は渡邊、映像・美術は高谷、坂本は音楽・音響を担当している。2010年に筑摩書房から『マラルメ全集1』から刊行され、四半世紀かかった5巻本の「マラルメ全集」の翻訳が完結した記念でもあった。浅田は「戦後初めてフランスに留学し、全身でフランス語を身につけた渡邊であるから可能だと思った」という。その後、2011年には「マラルメ・プロジェクトII――『イジチュール』の夜」が、2012年には「マラルメ・プロジェクトIII――<イジチュール>の夜へ―」が行われた。

今回は2013年に開催された「III」の抜粋映像が上映された。渡邊が「イジチュール」や「半獣神の午後」などのフランス語原文と自身による日本語訳を朗読し、それに合わせて、高谷は円形の廻り舞台上に、本のように120度に開いた二面のスクリーンを立てて、マラルメの詩が星座のように広がったり文字になったりするCG映像を流す。

エドガー・アラン・ポーに心酔していたマラルメは、物語詩『大鴉』(おおがらす)の仏訳出版を夢見ていた。翻訳自体はボードレールも行っていたが、マラルメは1875年に、エドゥアール・マネがリトグラフによる挿絵を描いた豪華本として出版にこぎつける。この史実に因み、舞台には、名和晃平が剥製をガラス玉で覆う技法で制作した「PixCell」シリーズのカラスが置かれた。ダンサーの寺田みさこが、二面のスクリーンを背に、飛び立つようなしぐさをすると、文字も羽のように広がっていく。坂本は即興で、浅田曰く「見事な伴奏」を付ける。まさにマルチメディア的な演出の記録映像には会場も息を飲んだ。

写真左:名和晃平 左から2番目:原 摩利彦(撮影:顧剣亨)

名和は2011年に、当時最年少で東京都現代美術館での個展「シンセシス」を開催して注目を浴びていたが、舞台芸術にはまだ取り組んでいなかった。しかし、「あいちトリエンナーレ2013」で発表した泡が床下から湧き出てくる《フォーム》(2013)を、パフォーミングアーツ統括プロデューサーだった小崎の紹介で世界的に著名な振付家のダミアン・ジャレが見たことから、共同制作を開始。2016年に発表する「VESSEL」の音楽を坂本に発注する。だが、闘病とその後の多忙のため、ダムタイプのメンバーでもある音楽家、原摩利彦にサポートを依頼。1996年、中学1年生の時にコンサートを見て感銘を受け、1999年の『LIFE』も見たという原は、J-WAVEのラジオ『RADIO SAKAMOTO』に投稿を続けていたが、弟の原瑠璃彦(庭園・能楽研究者)の方が先に紹介されていたというエピソードを明かした。法然院の「庭園シリーズ」で出会い、NHK FMの即興セッションを行うなどして、交流を深めていったという。今やダムタイプや名和晃平の音楽には欠かせない音楽家であり、浅田は坂本のバトンを受け取った一人であると評した。

 

写真左:岡田加津子 左から2番目:岡田暁生(撮影:顧剣亨)

 

2016年、坂本は1970年大阪万博の鉄鋼館に展示されていたフランソワ・バシェの音響彫刻が、京都市立芸術大学で修復されたことを知って同大学を訪れた。「楽器」のカテゴリを超えた金属製の音響彫刻だが、その複雑な形状によって不思議な音色がする。鉄鋼館の演出プロデューサーであった武満徹がバシェを招聘し、17基つくられたが、閉幕後は解体・放置されていた。2010年に1基、2013年に2基が修復され、2015年、新たに2基が京都市立芸術大学によって修復される。坂本は、フィールドレコーディングを重ねていて、音響彫刻にも関心を持ったのだ。坂本の要望に応えて対応した、バシェ協会理事で作曲家の岡田加津子教授は、銀色に輝くバシェの音響彫刻に坂本が手をかけたとき、シルバーヘアーがサラリと落ちて、その絵になる雰囲気に期待が高まったのを覚えていると告白した。訪問に付き添った岡田暁生も、一方的に鳴らすのではなく、「モノに尋ねるような鳴らし方」が印象的で、興奮がいつまでも止まらない「遊園地の子供」のようだったと回想した。さらに、坂本に同行していた作曲家で録音エンジニアのオノ セイゲンに、複雑な機材の操作について的確な指摘を行っているのを見て、技術に対する理解の深さを改めて感じたという。収録後も大学のさまざまな場所を叩いては音を奏でており、坂本の手にかかれば、どんなものでも面白くなるのではないかと感じたそうだ。鳴らす以上に聞くことに長けている証拠であり、これは自然の音を聞くことにも通じているだろう。これらの音源は、2017年の『async』に収録される。ジャケット写真は高谷が手掛けた。

その後、東京藝術大学でも、バシェの音響彫刻の修復予算をクラウド・ファンディングによって調達することになった。岡田加津子は、なかなか目標に到達しないなか、坂本が大口の寄付をして見事に達成し、修復ができたエピソードを披露した。

 

京都の職人たちとのコラボレーションと国際的対談

『async』に関しても、さまざまな場所でフィールドレコーディングしてきたことを、空間的に展開して理解を深めてもらいたいという坂本の意向により、2017年に「設置音楽展」がワタリウム美術館で開催される。『LIFE』のインスタレーションから始まった美術館などでの空間での展開は、「設置音楽」というコンセプトによって明確になった。世界的な映画監督、タイのアピチャッポン・ウィーラセタクンからも映像の提供を受けている。

坂本は以前、NHKの番組『ファミリーヒストリー』でも触れていたが、坂本にドイツ音楽を教えた母方の叔父が、幼児期に茶碗を割って遊んでいたというエピソードが心に残っていたようで、次のアルバムの構想のために茶碗を割った音を録音してみたいとの思いから、高谷と樂家を訪問した。茶の湯の大成者である千利休に従い、赤樂茶碗、黒樂茶碗をつくり、「樂焼」を創設した初代長次郎から十六代吉左衞門まで続く京都の名家だ。高谷が十五代吉左衞門とコラボレーションしていたことがつないだ縁だが、坂本が京都の伝統的な芸術の歴史にも関わったことは興味深い。

写真左:嘉戸浩(撮影:顧剣亨)

 

さらに、2020年に制作された、アナログ盤ボックス『Ryuichi Sakamoto 2019』に特別なパッケージを施したいと思った坂本は、以前、高谷から紹介された「かみ添」の嘉戸浩にアートワークを依頼。奈良時代に中国の唐から日本に伝わり、京都で育まれた「唐紙」の技法を現在に伝える「かみ添」は、建仁寺の塔頭寺院、両足院に杉本博司が奉納した襖絵の唐紙も制作している。フライヤーには名前が掲載されていなかったが、来場していた嘉戸も壇上に登った。アナログ盤ボックスは木が好きな坂本に合わせて、杉の木目を使い、アーティストではないが職人として精一杯制作したと語った。坂本は、京都の職人や制作者のネットワークを愛していたように思える。高谷は「和紙の手触りが好きだったのではないか」と指摘した。

写真左:ウスビ・サコ(撮影:顧剣亨)

その頃、坂本は雑誌『婦人画報』のインタヴューで、今一番話をしたい人は、当時、京都精華大学の学長だったウスビ・サコだとコメントしていた。それを受けて急遽、ニューヨークに滞在中の坂本と京都のサコをオンラインで結んで対談が行われる。ふたりは、世界の肥大した都市化の問題、失われていくコミュニティ、貨幣経済による欲望の加速と価値観の変化などについて話し合った。

登壇したサコによると、ファンであった坂本が自分と話をしたいと言っていると、突然聞いて驚いたという。サコは同じ国の出身であるサリフ・ケイタの来日時に通訳をしており、沖縄音楽も好きで聞いていた。坂本と話をしていて、人類規模の出来事に対する思索について自分との対話だけで終わらせるのはもったいないと考え、京都精華大学の企画として、オンラインの公開対談を行うことを提案。坂本に対しては「遠慮せずにアグレッシヴに行った方がいい」と考えたのだという。坂本は快諾し、2020年12月19日、2回目の対談「分断は止められるか-いま、表現と自由を考える-」が行われた。

対談の話題は、文明論から芸術論まで広範囲に及んだ。坂本にとって重要なことは「表現する自由を尊重すると同時に、それを受け取る側の自由も最大限尊重すること」、そして「社会性と公共性と芸術の価値を切り離すこと」。それは戦前のナチスに使われたワーグナーなどに対するトラウマであり、社会の価値によって芸術を価値づけようとする風潮に対する危機感でもある。

表現欲求と他者との対立との葛藤に悩む学生の質問には「対立を恐れていては表現はできない。対立を避けたいことを優先するなら表現するのは無理だ。相手の価値観に合わせるなら表現はできない。もし何かつくりたいと思っているなら諦めた方がいい」と一見厳しいとも思える回答をした。一貫しているのは抑制するのではなく、表現して価値観が違うまま共存するということだろう。サコは、分断よりも同質化の方が怖いと応じ、近年大学でもクレーム対応のため言いにくくなってきたことを明確に言ってくれたことに感謝したという。

 

コスモポリスとしての京都、これからの「坂本龍一の京都」

浅田彰はこれを受けて、坂本の良さは、自分のやりたいことをし、言いたいことを言うという姿勢であると指摘した。それは京都にいても変わらなかったという。表面上だけで敬意を表して、自主規制をしてつくろうようなコミュニケーションをしていたら、良いものは生まれないだろうと付け加えた。

撮影:顧剣亨

ここで浅田は、再び歴史を振り返った。1960年代の前衛が1970年に挫折し、労働運動は資本主義に圧倒されたが、資本家にも労働者にも共通する性差別や自然破壊との闘争からフェミニズムやエコロジズムが出てきた。坂本は、自然の音を音楽に変換するという芸術活動の延長線上で自然保護運動や反核平和運動を展開した。一人で「緑の党」をやっていたようなものだと評した。

音楽のみならず美術やパフォーミング・アーツ、反戦・植林・脱原発などの社会活動など、多方面で活躍した坂本龍一に対する個人的な思い出は、多くの人々が持っているだろう。『LIFE』以降、数多くのコラボレーションを行い、晩年にはダムタイプへの加入を求めて、快諾されたくらい交流の深かった高谷は、坂本が亡くなったニュースが流れてから、それぞれがSNSに坂本との思いを発信するのを見て、毎日メールをやりとりし、よく知っていたと思っていたけども、それは「坂本龍一という大きな存在の一部に過ぎなかった」「これからもっと発見されていくのではないか」と語った。

坂本が京都を好きになったのは、決して観光的な視点ではない。東洋美術収集家のデイヴィッド・キッドが暮らし、デイヴィッド・ボウイが定宿にしていた九条山の邸宅の跡地に自身の家を建てようとしていた。スティーヴ・ジョブズが南禅寺エリアに家を構えようとしたのと同じで、コスモポリタンであったからこそ、京都に惹かれたのではないか、と浅田は言う。さらに「インバウンド消費で儲けるとかいう浅ましい話ではない。坂本のようなコスモポリタンからの視点で京都は再発見されていくべきではないか」と締めくくった。

坂本龍一は、2022年、第59回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館に、ダムタイプの新メンバーとして参加。2023年2月から5月まで、帰国展「ダムタイプ|2022: remap」がアーティゾン美術館で開催された。シンポジウムで配布されたICA京都が作成した年譜には、その他にも、ニューヨークでのMRコンサート、中国成都での個展「一音一時」(高谷史郎との共同制作インスタレーションが展示予定)、ダムタイプと坂本龍一のアートボックスの発表が続いている。さらに、2024年には、新国立劇場とロームシアター京都で『TIME』の公演が行われる予定だ。『TIME』は、世界最大級の舞台芸術祭「オランダ・フェスティヴァル」で2021年に世界初演された坂本と高谷のシアターピースで、夏目漱石の『夢十夜』などをモチーフに、田中泯、宮田まゆみ(笙)らが出演した舞台は、満場のスタンディングオベーションに包まれたという。追悼シンポジウムの最後に、坂本が京都で撮影した写真と、『TIME』のトレーラー映像が上映された。そこでは坂本と高谷による現代の「幽玄」の世界が展開されており、坂本の存在が強く感じられ、「坂本龍一の京都」がこれからも続いていくことを予感させた。坂本の蒔いた人々への種は、いずれ大きく育ち森のようになるのではないだろうか。

(文:三木学)

(TOP写真:バシェ音響彫刻のレコーディング 2016年8月5 日 京都市立芸術大学 Photo by Shiro Takatani)

 

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