REPORT2017.06.22

デザイン教育

1980年4月9日朝9時、洛陽から上海にむかう第76番急行寝台列車の食堂車で初めての留学生3人のために挙行された車中入学式…その日から37年あまりが経過して

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  • 瓜生通信編集部

1980年4月9日、京都芸術短期大学興心館において昭和55年度の新入生を迎える入学式が行われていたちょうど同じ頃の朝9時、洛陽から上海にむかう第76番急行寝台列車の食堂車で、もうひとつの入学式が挙行されました。この入学式は、徳山詳直前理事長の発案で計画され、西安市人民政府から同短期大学に派遣された初めての海外からの「留学生」3人のための車中入学式でした。


1980年10月に発行された学園広報誌『瓜生通信』第2号によると、この車中の入学式で徳山詳直前理事長から次のような式辞があったとのこと。


「今朝がたまで、このような形で車中入学式をやろうとは思ってもみなかった。しかし、西安市における任務を終えて、敦煌から洛陽を経、中国大陸を横断するのにこの列車がやがて徐州にさしかかるという思いにとりつかれた時、かつてわが国と中国が戦いを交えたこの地で、いまこそ入学式をとり行いたいという思いに取り憑かれた。

 徐州といえば私は『麦と兵隊』という悲しい唄を想い出す。かつて30数年前、わが国が中国への侵略と掠奪をほしいままにしていた頃うたわれた唄だった。歴史というものは不思議なもので、その徐州を、今われわれは中国からの留学生を乗せて日本へ向かおうと通過している。

 中国の人びとはいつも、古い傷は捨てました、昔の出来事は一握りの帝国主義者の行為で日本人民の責任ではないといってくれる。だが、私はそうは思わない。戦争というものは、すべての人間の責任だ。今こうして3人の留学生と共に日本へ帰る道すがら、かつての戦場の跡・徐州の上で入学式を持とうとしたことの意義は、現代日本の歴史の重さをわれわれ一人一人が担っていることを確認し決意することの裡にこそある。こういう考え方がわが学園の今日の思想であり、未来に向かっての誓いでもあることをここに表明しておきたい」


この日から37年あまりの時が流れた今年6月3日から7日にかけて、徳山豊理事長、尾池和夫学長夫妻、大野木啓人副学長、平井愛子国際部長の一行が西安市を訪ねました。


実は、この最初の留学生として本学を卒業した党晟さんと趙周明さんは、西安に戻った後、西安大学(現在の西安文理学院)にデザイン学科を立ち上げて後進の指導にあたり、同地のデザイン界の礎となりました。また京都で寺社を数多く訪ねたことが仏教美術への興味の種になったというもうひとりの留学生岳鈺さんは、仏教絵画を描き続け、教授として務める西北大学に自身の名前を冠する美術館が設立されるまでの発展を遂げました。彼ら最初の留学生の後にも、現在に至るまで脈々と西安市からの留学生は続き、同地には同窓会組織もできています。

 

西安市の同窓生たちとの懇親会。最前列の尾池和夫学長の右隣(右から3人目)に座るのが、最初の留学生のひとり党晟さん


今回の訪問では、この同窓生との交流が実現しました。記念撮影の写真で尾池和夫学長の右隣に座るのは、最初の留学生のひとり党晟さん。実は本記事メイン画像の車中の入学式写真で、留学生を代表して挨拶しているのがこの党晟さんです。

 

西安文理学院院長の徐可为氏と学術交流協定書を交わす尾池和夫学長
西北大学校長の郭立宏氏と学術交流協定書を交わす尾池和夫学長


そして、今回の訪問では、あらためて西安文理学院と西北大学との学術交流協定を締結しました。瓜生山学園は、今後も創立者の徳山詳直前理事長の遺志を継いで参ります。

 

  • 瓜生通信編集部URYUTSUSHIN Editorial Team

    京都造形芸術大学 広報誌『瓜生通信』編集部。学生編集部員24名、京都造形芸術大学教職員からなる。

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