EXTRA2018.10.31

京都歴史

10月の歌舞の華やぎ-みずゑ會と宮川町歌舞練場―亀末廣 竹裡[京の暮らしと和菓子 #17]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 今年11月には、耐震改修で約3年間休館していた京都「南座」がいよいよ再開され、2ヶ月連続の吉例顔見世興行が幕を開けます。去る10月27日には南座前から八坂神社までのお練りが、東西歌舞伎の花形役者によって華やかに行われ、久方ぶりの南座顔見世興行への期待がますます高まっている今日この頃です。少し贅沢かと思いながらも、この記念すべき顔見世にはぜひ出かけなければと、11月の夜の部、12月の昼の部の切符をそれぞれ取ったばかりです。

 大学院に進学以降、またとくに仕事と子育てに追われていた間は、とんと歌舞伎とは縁のない年月を送ってきました。ところが突然、今年8月に中村芝翫さんのテレビ番組に京都のお寺への案内役として出演させていただくことになり、そのご縁をきっかけに、若い頃の思い出が甦り、血が騒ぎ出したのです。

吉例顔見世の開場を待つ南座のまねき

 じつは、高校時代、南座に歌舞伎がかかると必ず、友人、久保香菜子さんと観劇に出かけたものでした。久保さんは、昨年11月と今年5月の本コラムでも書いたように、中学以来の寺院巡りの友であったのですが、私を歌舞伎の世界に引きずり込んだ張本人でもありました。

 当時、彼女がご贔屓にしていた尾上辰之助さんの楽屋に、手作りのケーキを届けるという折りに、いっしょにくっついて行ったことがあります。南座の楽屋へ通じる昔ながらの蛇腹式扉のエレベーターで、たまたまご一緒になったのが、舞台から戻られる先代の芝翫さん、当代芝翫さんのお父様でした。玉三郎さんの人気が若者にも歌舞伎ファンを増やしていた時代でしたが、私は上品でしっとりとした味わいのある芝翫さんの女形が好きでした。女形のお姿の芝翫さんと、エレベーターの中という至近距離で遭遇し、少し緊張してしまいましたが、おべべを着込んで精一杯のおしゃれをしたつもりの女子高生に、気安くお声をかけてくださったことを覚えています。

 さてその頃の私は、歌舞伎のお芝居や舞踊の美しさもさることながら、清元や常磐津、長唄という、歌の世界に惹かれるようになっていったのでした。

 そしてその思いが高じて、ついに長唄を習うことまで始めてしまったのです。最初、両親には清元を習いたいと頼み込んだのでしたが、色恋の情感たっぷりに唄う清元の世界に、若い娘が踏み込むことには躊躇があったようで「長唄にしなさい」と言い渡されてしまいました。父は、できるなら自分が習っていた能楽の「謡(うたい)」の方を勧めたかったようなのですが。

 長唄の師は、杵屋勝由美先生でした。先生は若柳(わかやぎ)吉姫として若柳流の舞踊も教えておられ、お住まいの関係で、滋賀県を中心に多くのお弟子さんをお持ちでしたが、私は京都のお稽古場へ通わせていただいくことになりました。じつに今考えても、よくお許しいただいたことと思いますが、長唄三味線などは、不器用で到底うまく弾けまいと、まったく自信が持てなかった私は、「お三味線は習わずに長唄だけのお稽古を」という勝手な希望を申し上げたのですが、おおらかにお聴き入れくださったのです。
 京都のお稽古場で、それまで舞踊を習われていた相馬シヅカさんが、私の入門をきっかけに、長唄三味線と長唄のお稽古も始められ、ご一緒することになりました。のちにわかったのですが、相馬さんは、母の同級生のお妹さんだったのです。この不思議なご縁もあり、懐広い先生となんでも相談できる優しい先輩に恵まれて、楽しくお稽古を続けることができたのでした。
 お稽古を始めて1年も経たない頃だったと思いますが、先生の社中の方々の「吉姫会」の開催が決まり、突然「のりこさんも長唄で出なさいね」と申しつけられたのです。まだお稽古を始めたばかりの駆け出しの身で、突然発表会用の練習を始め、何が何やらわからないまま「吉姫会」のリハーサルの日を迎えたのでした。
 じつは、私にとってそのまさに初舞台の場が、今回特別に取材をお許しいただくことができた宮川町歌舞練場だったのです。

宮川町歌舞練場

  「吉姫会」の公演は、当然、社中のみなさんの舞踊がメインで、名取の晴れのお披露目の方もいらっしゃって、出番の少ない私は、リハーサルの日はおおかた舞台で繰り広げられる華やかな踊りの数々をのんきに客席から楽しんでいた覚えがあります。

 そしていざ自分の番が来て、プロの地方(じかた)の皆さんを横に、眩しいライトを浴びて広いヒノキ舞台の赤毛氈の座についた途端、なんと晴れがましいことであったのかと、今更ながら自分にとっては誠に大それた発表の場であることに思い至ったのです。

 間違いなくあがってしまっていたのでしょうが、それさえわからないほど夢中で、あっという間に出番は終わってしまったという感じでした。この時の演目は、「松の緑」と「黒髪」で、長唄のお稽古のもっとも初めに習う2曲でした。

 地方のお一人から「声量があって、ええ声してはる」と言っていただいたことが少し嬉しかったのですが、後から思えば声量くらいしか取り柄のない私を、励ましてくださっていたのに間違いありません。

宮川町歌舞練場 舞台より(閉演中)

 翌日の本番は、クラクラするような光の向こうにたくさんの聴衆の顔が透けて見えて、余計にあがってしまい、声もうわずっていたように思います。出来は散々であったとさすがに自覚しています。

 40年以上前の、この初舞台の晴れがましくもほろ苦い経験は、今でも鮮明に焼き付いていて、この歳になると妙に懐かしく思い出されるのです。
  
 そして今回、その思い出の宮川町歌舞練場を、宮川町お茶屋組合のお許しを頂き、10月の本コラムで取り上げさせていただくこととなったのです。
 さて、宮川町は、南座のすぐ南側に位置していますが、江戸時代初期には、少年達だけで演じる「若衆歌舞伎」とゆかりのある歓楽地として発展したことが知られ、現在も京都五花街の一つとして多くの芸舞妓を抱えています。

宮川町のお茶屋さん 

 ちょうど、10月11日から14日には、芸舞妓さんたちの伎芸発表の場である「みずゑ會」が開催されており、私は12日の夜の公演を拝見しにいくことができました。宮川町の芸舞妓の皆さんのキリッとした上品さと艶やかさを持った舞踊に、何か懐かしいものを感じたのも当然で、若柳吉蔵お家元らが、現在の宮川町芸舞妓さんの舞踊の指導や公演の振り付けなどをなさっているのでした。

平成30年 みずゑ會 パンフレット

 京都造形芸術大学の春秋座では、祇園甲部歌舞練場が耐震改修中ということもあり、昨年から春の「都をどり」、秋の「温習会」が行われており、私もその舞台を何度か拝見する機会がありましたが、祇園甲部の井上流と若柳流の違いを改めて感じることができました。花街ごとに伎芸の特色があることで、それぞれ違う楽しみ方ができるのも、また京都五花街の魅力と言えます。

総おどり「宮川小唄」(宮川町より提供)

 独特な演目で、二匹の猫が屋根の上の物干し台などでたわむれ遊ぶさまに男女の情愛を重ねた長唄「臥猫(ふしねこ)」は、ふく佳さんと叶千沙さんによる滑稽さを含んだ楽しい舞踊でした。また長唄「五段目 角兵衛獅子(かくべえじし)」では、ふく葉さんの舞踊の見事さは言うまでもないのですが、私は、その長唄に聞き惚れました。昔私も習ったことがあって大好きだった「越後獅子」にも少し似ているのですが、さらに複雑で高度なものとなっていて、聞かせどころの「浜唄」を唄われるちづるさんの声に、引き込まれました。

長唄を唄う「ちづる」さん (宮川町より提供)

 そして「みずゑ會」の最後を飾るのが総おどりの「宮川小唄」です。舞台全体を芸舞妓さんが華やかに、また流れるように舞い踊り、大きな舞踊の波を構成します。その華やかさはやはり花街ならではのものと言えましょう。

 こうした芸舞妓さんの伎芸の鍛錬、そして発表の場となっているのが、宮川町歌舞練場なのです。

朝の宮川町 

 「みずゑ會」が終わった3日後の17日、私と写真の高橋さんは、まだ人通りも少ない朝の宮川筋を通って、宮川町歌舞練場を訪ねました。10時前に到着したのですが、歌舞練場からは、もう三味線や唄が漏れ聞こえ、芸舞妓の方々のお稽古が始まっているようでした。普段のお着物姿で、出入りされる舞妓さんもお見かけしました。大きな会が終わって間もないというのに、はや日々の修練が再開されているのでした。

宮川町歌舞練場前にかけられているお稽古日程表

お稽古のために歌舞練場に来られた舞妓さん

 今回、歌舞練場の内部をご案内いただくために、舞台監督をされています前原和比古氏にもわざわざお声をかけていただき、ご足労を頂戴しておりました。

 前原氏は、昭和46年には劇場のお仕事についておられたようで、ちょうど私が「吉姫会」で歌舞練場に出演した時には、もしかしたら、舞台のことでお世話をお掛けしていたかもしれないのでした。
 宮川町の歌舞に関する詳しいお話もお教えいただき、「みずゑ會」の「臥猫」などに現れている宮川町独特の演目には、楳茂都陸平(うめもとりくへい)(1897〜1985)が関わっていたということでした。

 楳茂都陸平は、舞踊家2代楳茂都扇性の長男として生まれ、楳茂都流3代家元を継いだ後、ドイツで舞踊理論などを学んだのち、宝塚音楽歌劇学校の教授も務め、新舞踊のユニークな作品や群舞を手がけて、日本舞踊に新しい風を吹き込んだ人物だということです。

 宮川町は、当時この楳茂都流を芸舞妓の舞踊の流派としていたのですが、春におこなわれている「京おどり」の総おどり「宮川音頭」は立体的な空間構成で舞台演出がなされていて、楳茂都陸平が取り入れた舞踊譜によって、計算された群舞が実現した例とのことでした。西洋の理論も取り入れた新舞踊の面白さが、宮川町の歌舞に息づいていることを改めて実感したのです。

大正5年に造られた主体部の大きな寄棟造の破風と屋根

 さて、宮川町歌舞練場は、表向きの鉄筋コンクリート造りの玄関部分は、昭和45年に増築されたもので、じつは舞台と客席の主体部は、大正5年(1916)に建造された瓦葺入母屋造2階建で、外観は四方に寄棟造の破風を飾る壮麗な書院造りの木造建築なのです。なんと創建から100年以上を経た、純木造建築の歌舞練場としては、市内唯一の劇場といいます。

 その劇場建築の歴史を物語るもののひとつが、舞台上部の竹製「ブドウ棚」です。今回特別にこの舞台裏を拝見することができました。

舞台上、天井に釣り上げられた背景画とそれを支える竹製の「ブドウ棚」
ブドウ棚から下がる様々な舞台背景画や装飾
舞台脇2階 前原氏が「臥猫」の背景画をブドウ棚から下ろしてくださる
縄だけで組まれた竹が、舞台装置を支える

 今も、舞台上部のブドウ棚に釣り上げられた背景画を、人力で上げ下げすることで、舞台装置の転換をするという昔ながらの方法がとられているのです。私たちのために、みずゑ會の「臥猫」で使用された黒塀を描いた背景画をわざわざ下ろして見せてくださいました。

 誰が見ることもない舞台裏の伝統的な舞台装置のあまりの美しさに、すっかり魅了されてしまいました。整然と組まれた竹、そしてその竹を組むのに用いられる縄の美しい結び。宮川町歌舞練場にこのようなものが維持されてきたことに、驚嘆してしまいました。

舞台に下ろしていただいた「臥猫」の背景画

舞台監督の前原和比古氏

 そして、客席から見ることができる舞台正面上部には軒唐破風と欄間が設けられ、それには極彩色の彫刻装飾が施されていて、これも大正期の贅を尽くした華やかさを美しく今に伝えています。

二階から舞台正面をのぞむ

舞台正面上部の唐破風と欄間

 私が初舞台を経験した当時は、こうした宮川町歌舞練場の素晴らしさに気付く余裕もなかったことを思い起こします。このような格式高く、美しく維持してこられた舞台をあの拙い唄のためにお借りしていたのかと思うと、ますます申し訳ない気持ちが増してくるのでした。

 さて、今月取り上げさせていただくお菓子は、実はこの恥ずかしい長唄の初舞台の思い出と繋がっているのです。

 亀末廣さんの「竹裡」は、新栗の時期にだけ調整されている蒸し栗羊羹です。竹の皮に包まれていることを「竹裡」、竹のうちと言う名に表していますが、その外からの見かけには、全く栗のお菓子であることは知れません。そのかけ紙には、次のようなことが記されています。


竹裡
風薫る里や千尋の竹のおく 鳳もここにすまへば 賢人も此(この)下蔭をしたふされば 龍孫(竹の子の意)のころもを以って佳味を包み名づけて竹裡といふ
その趣致あたかも瑞禽(鳥の意)の巣こもれるが如く 隠士の遊へるに似たり 希くは清世の君子茶前酒後の後料として汎(ひろ)く用ひさせ給はむことを
                                     謹みて白す

竹の皮のまま薄く切りて出させ給へばお扱ひにも清々にして 取らせ給ふにも御指頭をよごさず また見るからに雅味を添へ候
蒸したてを直ちに皮に包み候へば風に当らず随つて日持ちもよろしく臨時の御貯蔵 遠方のご進物に最適に候
                                   亀屋 末廣 謹製
                                                        京都 綾小路車屋町角 

 この難しい文言を認めているのは、小西大東(1869〜1944)で、有職故実の学者として「京都史蹟会」の講師を務めた人物でもあり、明治後期から和菓子の菓子帖などを制作しており、菓子の図案や銘に関わったフランドプロデューサー的な存在だったことが知られています。
 亀末廣さんの方でも、いつこのお菓子ができたかの詳細はわかっていないそうですが、おそらく明治時代ではないかと推測されているのです。
 このように非常に長い歴史を持つ和菓子ですが、実家の祖父母や両親がとても好んで、その販売の時期になると取り寄せたりしていたもので、そうした折に家で口にする機会がいくたびかありました。私たち兄弟も、両端の竹皮の折れ目に入り込んでいる羊羹まで、こそげていただくほどの大好物でした。

 その「竹裡」を、母は長唄の発表会の日に黙って用意していて、私が案内していて宮川町歌舞練場に足を運んでくれた高校の友人たち一人一人に「わざわざ ありがとうございます」と手みやげとして渡していたのでした。
 発表会の翌日、その友人たちと学校で出会うと、皆あの「竹裡」を褒め称えてくれるのでした。「美味しかった」はもちろんなのですが、
 「大きな栗が入っているのに、羊羹と栗が同じ硬さで楊枝で切っても栗がゴロッと飛び出したりしないのね。すっと楊枝が通るの、素晴らしいわ。」
 言われてみれば、なるほどそうだわと、後で気づく私だったのですが、繊細に味わい、的確に評する友人の大人びた感性に、驚いたり感心したりしたことが忘れられません。

 その時のやりとりを思い出しながら、今年も竹裡をいただきました。小さくして甘く煮た栗を入れた蒸し羊羹なら、他のお店にも類品はあるのですが、羊羹と栗の甘さが本当にあっさりしとした絶妙の加減で仕立てられて、一体となっているところ、しかも大きな栗がゴロンと入っていることで、栗の芯の部分に、栗本来の味と香りがそのまま残っていることも、このお菓子の嬉しいところです。もちろん竹の皮の香りも羊羹に深い味わいを加えてくれています。
 
 さて、友人たちが前日の私の長唄について評することは、一切なかったのも彼女たちの優しさの表れだったと思っています。発表会前に、毎日家で練習を続けている私の長唄を聞いていた母の機転と竹裡のおかげで少し救われた初舞台でもありました。

宮川町を歩くお稽古帰りの舞妓さんたち

亀末廣

住所 京都市中京区姉小路車屋町東入ル車屋町251
電話番号 075-221-5110
営業時間 8:30~18:00
「竹裡」販売期間 9月末~11月初旬(栗がなくなり次第終了)
定休日 日曜・祝日
価格 3,600円(税込)

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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