EXTRA2018.08.31

京都歴史

お精霊(しょらい)さんを迎える六道まいりと六波羅蜜寺万燈会(まんどうえ)― 幸福堂 お迎え団子と蓮菓子/みなとや 幽霊子育飴 [京の暮らしと和菓子 #15]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 毎年8月の7日、8日頃に「立秋」を迎えますが、実際には夏真っ盛りの天候と暦のずれに嘆息してしまうのが、常となっています。
 とくに今年の京都は、7月中旬以来連日の高温にあえぐ酷暑が続き、8月に入っても、38度、さらには39度を超えるほどの記録的な猛暑の日々に苛まれていたのです。こんな時期に「立秋」が迫っていると言われても、まったく違和感しかないと思っていたのですが、今年の立秋、8月7日を迎えた途端、京都は久方ぶりに35度を切る気温に落ち着き、10日までの4日間は、ときに秋風を感じるような、まさに新涼の風情を覚えることさえできました。
 この4日間は、ちょうど東大路松原西入るで行われている「六道まいり」と重なる日でした。京都では、お盆の前に、まずはこの「六道まいり」をすることで先祖の魂、「お精霊(しょらい)さん」をお迎えするという習わしがあります。

8月7日 朝 松原通りに「六道まいり」の横断幕がかかる

 昨年の9月のこのコラムでも書きましたように、私の実家は、昭和末年頃までは、在家の商家でありながら神仏を祀ることに明け暮れるような風習が続いておりましたが、東山を望む洛中にではなく、伏見に有ったため、家人が「六道まいり」に出かけるということはありませんでした。
 その代わり、お盆の準備のために祖母、母、昔からの女衆(おなごし)さんらが、かかりきりで仏壇のお飾り、お供え、お膳の準備に明け暮れていました。
 そして13日から15日にかけては、檀那寺だけでなく、北は建仁寺さん、東福寺さん、南は宇治の萬福寺さんをはじめ、伏見近隣の諸寺を合わせて10カ寺以上から、宗派に関係なくご住職さまや雲水さんなどのお参りを頂いていました。娘である私は、お参りに来られたお坊さまを門でお迎えして、仏間にご案内し、お参りの読経の終わった後、座敷でお茶、お布施をお出しする役回りを命じられていたため、いつお出でになってもお迎えできるよう、この間はずっと家に控えていることを義務付けられていました。
 大学生の頃、下京区にある親戚の叔父に「六道まいり」のことを聞き、家のお精霊さんのお迎え準備は祖母や母に任せきりにして、在宅を義務付けられていないお盆前の時期にあたるこの「六道まいり」に、少々興味本位に出かけたのでした。
 初めての「六道まいり」では、生と死の狭間を行き交う人々の思いが凝縮した独特のこの地の熱気に、ある種の衝撃を受けたことが忘れられません。この界隈には時代をタイムスリップしたような不思議な世界が確かに広がっていたのです。

 写真を撮ってくれている高橋さんは、今回初めての「六道まいり」体験でもあったので、昔、自分が無知だったために抱いたこの地への不可思議な印象を思い出すと、つい教員の悪い性壁が働いて、私の解説付きで二人で出かけようということにしてしまいました。
 そして「六道まいり」の初日にあたる8月7日の朝、便利な東大路通りから向かうのではなく、私の指定でわざわざ松原橋西詰から出発することにしたのです。

 そもそも鴨川から西の松原通りのことは、昨年10月の本コラムで詳しく書きましたが、じつは今の五条通りは豊臣秀吉がつけかえたものです。平安京以来のもとの五条通りは今の松原通りだったのです。つまり京の町から鴨川を越えて京外へ出るためのもとの五条橋は、今の松原橋の場所にかかっていたわけです。

松原橋 西詰

松原橋より東山を望む

 松原橋の西詰から東を望むと東山がなだらかに連なっています。この東山にある清水寺の南に続く丘陵地帯、阿弥陀ヶ峰から今熊野(いまぐまの)辺りこそ、平安時代より葬地として知られた鳥辺野(とりべの)なのです。
 平安時代、京中に住む庶民は、亡くなると鳥辺野に運ばれてそこに置かれ、遺骸は朽ちるに任せられました。つまり五条橋を渡り、東山に続くこの道は、葬送の道でもあったのです。京都の人がなぜこの橋の向こうに独特の意味を意識し続けたのかは、この橋を渡ることで実感できるのです。

 平安時代、疫病が続いて、多くの死者があふれた時には、野辺送りをすることさえできず、鴨川の河原に累々と遺骸が捨て置かれたことさえあったのでした。
 そうした遺棄された骸を火葬して弔ったり、疫病の庶民を救うため十一面観音像を作り、町に出かけて救済を施したり、また「南無阿弥陀仏」を唱えて念仏行を教え廻ったことで知られているのが、市聖(いちのひじり)とも称される空也です。
 空也が晩年に建立した西光寺が、その後六波羅蜜寺となったのですが、この寺院のある一帯が、六波羅と称される地域であり、そこは、まさにこの松原橋を渡り東山へと続く道の途上にある、葬送の地に隣接した境界の地、冥界への入り口ともいえる場所でした。

松原通り 西福寺角の六道の辻の道標

 その六波羅の六道の辻にある西福寺は、空海が、自作の土仏による地蔵を安置して開いた地蔵堂に始まるとされます。嵯峨天皇の皇后、橘嘉智子(たちばなのかちこ)(檀林(だんりん)皇后)が、この地蔵堂にしばしば参詣し、正良(まさよし)親王(のちの仁明(にんみょう)天皇)の病気平癒を祈願したと言います。

西福寺 檀林皇后と弘法大師の逸話の書かれた額

 そして西福寺にはこの時期、《六道図》《熊野観心十界曼荼羅図》の他、《檀林皇后九相縁起》が堂内にかけられています。
 世に伝える后の遺令に曰(いわ)く
 葬儀は不用 中野に棄てよ
 色欲に耽る者は 我が燗穢(らんえ)を見て
 少しく警悟すること有る也
 崩ずるに及び屍を西郊に棄つ

西福寺の《檀林皇后九相絵縁起》江戸時代 ※複製、展示替えあり

 絶世の美女でもあったという檀林皇后が死後、遺骸を野に棄てるように遺言し、その身の燗穢していく様を見て世の無常を知れというもので、いわゆる九相図として描かれています。
 肉体が惨たらしく腐り朽ち、鳥獣に食い荒らされて、ついには骨だけとなり風化していく様を描いたこの図を、ここで初めて見た大学生の頃、美術史のテキストや展覧会で見るのとは違って、お参りの人の間近にあって本来の生々しい役割を果たしていることに、少なからずショックを受けたものでした。

 西福寺でのお参りをすませて、さあ、いよいよ六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)へ参りましょう。以前15年くらい前に来たときは、この参道には高野槙を売る店、お盆のお供え、新盆のための仏具など、露店が数多に立ち並び、お参りの人で大いに賑わっていました。その時は義母と息子と3人でお参りしたのですが、息子が人波に飲まれて見えなくなりそうになるのを、追いかけながら歩いたことを思い出しました。

 しかし、久しぶりに訪ねた「六道まいり」は、その頃と比べるとお店の数も減り、お参りの人の姿もめっきり減っていました。

 この酷暑のせいもあるのでしょうが、露店のおばさんに聞くと「最近は、同じ日にやってる五条坂の陶器まつりに人の流れが移ってしもて」とのこと。なんともあの独特の熱気を想像してきただけに、一抹の寂しさも感じますが、そういう私自身が、お盆には家族でお墓まいりをするくらいで済ませているのが常ですから、ご時世ということになりましょうか。

 それでもお約束どおり、露店で槙を求めて六道珍皇寺境内へ山門をくぐりました。

高野槙を売る店

槙を買う参詣者

六道珍皇寺山門前

 「お精霊さん迎え」は、まず買い求めた高野槙を持って本堂に進み、水塔婆に戒名を書いてもらい、迎え鐘をつき、石地蔵が並んだ賽の河原と称するところで、高野槙の葉で水塔婆へ水回向(えこう)をするという手順でお参りをします。お精霊さんは槙の葉に乗って冥土より帰ってくるとされるので、この高野槙にお精霊さんを宿して家に持ち帰るということになります。

六道珍皇寺 本堂前

迎え鐘の鐘楼

迎え鐘を打つ

 ことに有名なのは、迎え鐘です。この鐘はその音が十万億土の冥土にまで届くと信じられ、家の者が撞く鐘の音に導かれて、お精霊さんはまちがいなくこの世に、そして京の地に戻ることができると言われます。鐘楼は壁に囲われ鐘の姿は見えませんが、鐘につながった太い縄が壁の外に引き出されており、これを勢いよく引くと、地の底に響くような低い音で鐘が鳴ります。この独特の鐘つきのために、いつも六道まいりの時期は、ぐるりと鐘楼を取り囲むように人が並び、その行列は境内外の道路にまで続きます。
 そして、戒名を書いた水塔婆を持って地蔵の並ぶ賽の河原に向かい、槙の葉で水をかけて水回向した後、塔婆を納めて帰ります。

賽の河原で水回向する人々

水塔婆に槙の葉で水をかける

 今回、お忙しい中、ご住職の坂井田興道様にお話をお聞きすることができました。初日の今日は、やはりこの猛暑のためか、早朝開門の時間にかえって人出があったとのこと。
 そして本堂の仏前に並べられていたお供え物についてお教えいただきました。

六道珍皇寺 ご住職 坂井田興道様

本堂の供物棚

お供え

 小皿に盛った小豆とお米、その後ろに昆布と麩と湯葉を立てた供物は、私にはこれまで見たことのないものでしたが、三界(さんがい)の六味を象徴するもので、干し湯葉がまるで帆を張ったように見えるその姿は、やはり精霊舟(しょうりょうぶね)を象っているとのことでした。
 江戸中期頃から続いているという、宗派に関係なく行われた一連の「お精霊さん迎え」の行事は、今もなお、戒名の書かれた水塔婆に一心に水回向する人々の姿に、亡き人の魂の帰りを待つ切なる思いを受け止める場であることに変わりはありません。

 しかしこういう冥土との繋がりを意識する臨場感は、何と言っても平安時代に遡る小野篁(おののたかむら)の逸話と重なるものです。篁は博識な文人として重んじられ『令義解(りょうのぎげ)』の選者としても知られますが、奔放な行動から、一時隠岐に流されていたこともあり、許されて帰朝後は、参議にまで登った人物です。とはいえ奇行でも知られて「野狂(やきょう)」と称されていたことから、のちにさまざまな伝説に彩られることになったようです。
 有名なものが、日中は内裏に勤め、夜になると冥界に入って閻魔大王に仕えていたというものですが、この六道珍皇寺には、篁が冥府へ行く時に使ったという井戸が本堂北の庭園に残されています。

篁が通ったという冥府へつながる井戸

篁堂の小野篁像(中央)

篁堂の閻魔大王

 こうしてあの世とこの世を繋ぐ六道珍皇寺で、槙の葉にお精霊さんを宿したら寄り道せずにまっすぐに家に帰るべしということなのですが、参道でどうしても寄りたいのが、幽霊子育飴のお店です。

みなとや 幽霊子育飴本舗

 今は、ちょうど西福寺の北向かいの六道の辻に店を構える「みなとや 幽霊子育本舗」さんですが、10年ほど前までは六道珍皇寺の斜め向かいにありました。
 口にするのに似つかわしくないとも言える「幽霊」と名のついた飴の存在にも、やはり初めての「六道まいり」で、少なからず衝撃を受けたのを憶えています。そして素朴に包装された古風な飴の、その優しくまろやかな甘さに、再び驚いたことでした。

幽霊子育飴

 幽霊子育飴の由来書きから抜粋すると
「命をつないだ飴の由来 今は昔、慶長四年京都の江村氏妻を葬りし後、数日を経て土中に幼児の泣き声あるをもって掘り返し見れば亡くなりし
妻の産みたる児にてありき、然るに其の当時夜なよな飴を
買いに来る婦人ありて幼児掘り出されたる後は、来らざるなりと。
此の児八才にて僧となり修行怠らず成長の後遂に、高吊な僧になる。
寛文六年三月十五日、六十八歳にて遷化し給う。されば此の家に販ける飴を誰いうとなく幽霊子育ての飴と
唱え盛んに売り弘め、果ては薬飴とまでいわるゝに至る。」
とあります。
 当代で20代目になるという段塚きみ子さんのお話によると、当初、敦賀でお米と飴を商われていて、京へ出てこられた当初は、出町柳にお店を構えられたということです。その後大火事にあってこの六波羅の地へ移り、お米と飴を売り出されたところ、そのお店で幽霊が飴を買いに来るという出来事に遭われたのです。当時のご当主は墓から掘り出された子どもの行く末も案じられて、当時出町柳の近くにあった立本寺(りゅうほんじ)にその子をお預けになったとのことです。

 由来書きには、僧の名は記されていませんが、じつは名僧と名高い立本寺20世貫主の日審上人(にっしんしょうにん)がその人と言われます。
 この由来書きにある生沒年、慶長4年(1599)と寛文6年(1666)は、まさに日審上人の生没年と一致しています。

幽霊子育飴

 麦芽水飴と砂糖で作られた飴は、固めたものを素朴に割って成形されています。不揃いなその形が、まるで宝石の原石のようにきらめきます。口に入れてゆっくり溶かしていくと、麦芽糖の穏やかな甘さとこくが広がっていきます。  
 もはや他ではなかなか味わうことのできない飴の原点ともいうべき味と、不思議な由緒に惹かれ、六道の辻を訪ねた時には必ず買い求めてしまうのです。

 さて、あとは習わし通りお精霊さんの槙を携え、まっすぐ家に帰りましたが、翌日の夜は、もうひとたびこの六波羅に出かけることにしました。それは8日の夜から六波羅蜜寺で行われる万燈会(まんどうえ)の法要に参列するためです。

8月8日 六波羅蜜寺万燈会

 午後8時に本堂内陣に、密教の五大(地・水・火・風・空)を表す「大」の字形の燭台3基にそれぞれ据えられた16のかわらけに燈明が灯されます。

本堂内陣の大字形の燈火

3基の大字型燈火

 先にも少し触れましたが、空也の活動の拠点として成立した西光寺を、弟子の中信が貞元2年(977)に再興して、名称も改めて天台別院として成立したのが六波羅蜜寺です。
 文禄4年(1595)に智山派真言宗となり、現在に至っていますが、空也に由来するという秘仏十一面観音菩薩を本尊とする内陣には、密教による壇が設けられ4人の職衆(しきしゅう)によって、智山派真言宗ならではの華麗な聲明(しょうみょう)が唱えられます。こうして誠に厳かな雰囲気の中、お精霊さんをお迎えする法要が修されるのです。
 法要の後には、一人一人の頭に薄紙をおき、その頭頂にご住職様から特別に「破地獄」のお加持をいただくことができます。これを受けると地獄の責め苦から免れることができるといいます。この薄紙にはあとで自分の名を書き入れて、1年間仏壇などに納め置くのが作法ともお教えいただきました。

薄紙の上から頭頂にお加持を受ける

 燈明の光の中で清浄な心持ちを頂戴した六波羅蜜寺を辞すと、久方ぶりの涼やかな風が夜道を抜けていきました。

 提灯の灯に誘われて、ふたたび六道珍皇寺を訪ねてみると、まだたくさんの方がお参りをされていました。

六道珍皇寺門前の提灯 

夜の六道珍皇寺

迎え鐘の行列

 夜の六道まいりにも、また格別の趣があります。この地がなおさら冥界に近しく感じられ、亡き人の魂を呼ぶ迎え鐘が低く鳴り響きます。

 こうして、お精霊さんをお迎えした後、家の仏壇に供えるのがお迎え団子や落雁で作った蓮菓子などです。お盆の頃には、スーパーにも多数並びますが、今回はやはり、松原通りにお店を構える幸福堂さんのお菓子を求めることにしました。

 京都には、茶席などで用いる上生菓子を扱う「上菓子屋」の他に、団子や饅頭、餅などの普段のおやつを扱う「饅頭屋」、「餅菓子屋」があります。このような京都の普段使いのお菓子屋さんは、街のあちこちにありますが、そのお菓子の水準の高さは、他の地域と一線を画すると思っています。幸福堂さんも主にそうした親しみやすい餅菓子などを販売するお菓子屋さんですが、なんと創業は明治元年。松原通り河原町西入る、つまり松原橋から西に進んで河原町を超えてすぐのところにある150年の老舗です。

 こちらのお迎え団子は、うるち米を製粉して作る新粉で作ったもので、よくあるお花見団子などと同じ材料です。上品な甘さで、お供えにすることを考慮されていると思いますが、少し柔らかく作られています。おさがりのお団子を家族皆でいただくときにも、適度な柔らかさを保っているのが、さすがです。

 そして、落雁で作られた蓮菓子も、お供えにぴったりの大振りなものですが、その型の精密さ、上品な色合いは、スーパーにある大量生産品とは比べ物にならないものです。しかもあっさりした落雁に甘さを抑えた漉餡を含んだ手の込んだもので、これも丁寧に作られていることがよくわかります。

 お決まりのお供えだからと型通り、おざなりに済まされることも多い蓮菓子ですが、きちんとした仕事を当たり前のこととして行われる、そのことに老舗の心が宿っているように思います。

 今年は久しぶりに六波羅、六道の辻で「お精霊迎え」をたっぷり梯子して、仏壇のない我が家ではありますが、この十数年の間に喪った母、義父、そして父の写真の前に、槙、蓮、禊萩(みそはぎ)とお盆のお菓子を供えました。いつもより、亡き人々の面影を思う8月となりました。

幸福堂

住所 京都府京都市下京区松原通河原町西入松川町388-2
電話番号 075-341-8850
営業時間 9:00〜19:30
販売期間 お盆期間
定休日 水曜日
価格 お迎え団子 85円/1個(税抜)、蓮菓子各200円(税抜)

http://www.ko-fukudo.com/

みなとや幽霊子育飴本舗

住所 京都市東山区松原通大和大路東入2丁目
轆轤町80番地の1
電話番号 075-561-0321
営業時間 10:00〜16:00
定休日 なし
価格 一袋500円/300円(税込)

http://kosodateame.com/ame/

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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