EXTRA2018.04.30

京都歴史

桂川を神輿が渡る松尾祭と麦代餅(むぎてもち)―中村軒[京の暮らしと和菓子 #11]

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  • 栗本 徳子
  • 高橋 保世

 今年の桜は4月上旬にはいち早く盛りを終え、次々に躑躅、牡丹、藤が咲きそろうというように花の季節が早足に駆け抜けていくようです。

 4月中旬にはもう京都の街を囲む山々は木々の新芽の息吹が満ちる季節を迎えていました。
そして4月下旬になると、私はなんとなく毎年そわそわとしてくるのです。所属している通信教育部 歴史遺産コースでの年度始めのスクーリングが開講するからなのですが、これがなかなか特別の授業なのです。
「京都の祭」と題し、本学の五島邦治教授の講義とともに、実際の祭をフィールドワークで学ぶというものです。五島先生は、根っからの京都生まれ、京都育ちの歴史研究者ですが、祭礼の歴史にもとくに造詣が深く、祭をフィールドワーク付きで取り上げる授業を作りたいという私のオーダーに応えて、
「それなら松尾祭がいい」
と、この授業を立ち上げてくださいました。
 毎年、松尾祭の神幸祭に合わせて、祭の前日には大学で講義を受け、祭当日は朝から松尾大社を皮切りに、桂大橋の河原で6基の神輿の「船渡御(ふなとぎょ)」を迎え、そのあと御旅所に入るまで、神輿を追いかけていくというなんともユニークなスクーリングです。

 こうした思い切った内容の取り組みであったのですが、9年前の最初の開講時、じつは私はまったく松尾祭を実見したことがなかったのです。さらに各地から集まられた学生さんらが、祭の熱狂の中で迷子になってしまわれないか、危険度なども含めてどのような祭の実態があるのかを確認する必要があると考えて、祭礼当日、私も引率者として参加することにいたしました。

松尾大社の鳥居

 それは、各神輿の役員、青年会の方々、さらには地元の人々が、それぞれ自分の地域の神輿に高い誇りを持って、営々と祭礼の伝統を担い続けておられる姿を、まさに間近に見聞きすることができる稀有の祭であったのです。

 地元では神幸祭を「おいで」と呼び、町中にある各御旅所へ神々をお迎えし、3週間の間、御旅所で神々をおもてなしした上で、還幸祭(おかえり)で、神々を松尾大社にお送りするというなんとも長丁場の祭礼です。
 今年の神幸祭は4月22日日曜日。松尾大社に到着した朝9時すぎには、境内では神輿の準備が始まっていました。キビキビと各青年会の方々が、神輿を飾り付けていかれます。この時以外、神輿を飾る金具や染織品の見事な京の匠の技を間近に見るチャンスはないのです。
 それは、緋色の御衣を一番上にして五枚五色の縮緬の御衣(おきぬ)を屋根の上から順々にかけられて、結局わずかにしか顕れなくなるのです。これが京都ならではの奥ゆかしき神輿の姿です。
 しかし、造形品をつぶさに見ようとする美術史という学問の場にいる私は、9年前、最初にこれを見た時、なぜにこれほどの美しい工芸品を覆ってしまうのかとの思いを抱かざるをえませんでした。この思いは、あとですぐに打ち壊されることになるのですが。

華麗な飾り金具と染織品

一枚目の御衣をかける

贅を尽くした飾り金具
一番上に緋色の御衣をかける
徐々に整えられていく神輿
ゆるまぬようにしっかりと緒を締め込んで

 

 こうしてお飾りが整う頃、神社の参道からジャリンッ、ジャリンッ、ジャリンッという金属音が鳴り響いてきます。これは鳴環(なるかん)という、神輿を担ぐ轅(ながえ)に取り付ける環なのですが、揺れると音を出すもので、神輿を音で荘厳する神具とも言えます。

 神輿の担ぎ手の男性らがこれを高く捧げ持ち、ステップを踏みながら音を鳴らして神社に入ってきます。これが鳴り響くことで、神輿がもうすぐ神社を出立することを触れ回ることにもなるのです。そして、この鳴環が各神輿に取り付けられて、いよいよ準備完了です。

鳴環が神社の境内に到着
ステップを踏んで鳴環を鳴らしながら

 神殿前で御霊が神輿に移されると、山吹の花が咲きこぼれる境内から6基の神輿が鳴環の音と「ホイット、ホイット」の掛け声とともに次々に舁き出されます。

楼門を出る鳳輦(ほうれん)

大社前で鳳輦の差し上げ

 こうして、スクーリングの方はいよいよ午後の部へ。桂離宮のすぐそばの桂川対岸の河原に神輿がすべて集結するのですが、その桂川の船渡御がこの祭りの一番の見所でもあります。それを目指して桂大橋を渡るのですが、最初の授業の時に、その少し手前、桂離宮に南面するお菓子屋さんの前で、五島先生が突然、

 「中村軒の麦代餅は、美味しいですよ。この本店のが一番美味しいんです。少し時間をとりますから、お買い物したい方は、ご自由に。」
とアナウンスをされたのです。お祭りで長蛇の列になっている店先を見て、
「えっ、そんな悠長なことしてていいの?」
と思いつつ、でも、やはり買い求めてしまう私だったのでした。
 そうなのです。祭りはまさに悠長に進みます。慌てることはなかったのです。

 麦代餅を買い求めて桂大橋を渡る頃、桂離宮の北あたりの河原から、いよいよ船に乗せられた一基の神輿が、ゆっくりと漕ぎ出されるところでした。


桂川の船渡御

 春昼の光を受けて輝く川面に、神輿がゆらりゆらりと渡るそのなんとも言えない優雅さと、そしてあの緋色の御衣が、新緑で縁取られた桂川に、鮮やかに美しくはためいているのでした。ああ、やられたと心の中でつぶやいていました。どんな精好な工芸品も叶わぬこの美しい演出は、あの御衣の色でなければなりません。
 小さな木船に重量のある大きな神輿を乗せるにも、川を渡したあとまた、その船から神輿を岸に舁きあげるにも、大勢の男衆の力と技を合わせた見事な働きがなければなりません。そして神輿は河原の祭場まで、力強く舁いていかれます。

 6基がそれぞれ船で渡りきって順々に祭場に並び揃うのには、さらに時間を要しますが、その船渡御の美しさと、男衆の勇姿を見る度に、そばにいる私たちのようなよそ者の見物者も、無事に渡り終えて欲しいと手に汗を握り、岸に神輿が舁きあげられた時には、毎度、喜びと興奮に包まれます。

桂離宮の北辺から川へ降りる神輿
扇の音頭とともに漕ぎ進む神輿
河原に到着した神輿から船を抜き出す
神輿を河原に舁き上げる

 こうして、1基ずつの神輿渡御を河原で待つ合い間に、買ったばかりの麦代餅を頂くことにしたのでした。

 じつは中村軒の麦代餅(むぎてもち)は、かつてよく母がデパートに出かけた時にお土産に買ってきてくれた思い出がありました。学校から帰ってこのおやつにありつけた時は、「えっ、今日はデパートに行ってきたの?」と非日常感をデパートに抱いた昭和の時代の喜びがありました。

 その頃からもちろん大好きな餅菓子だったのですが、最近は口にしていなかったなあと思いつつ、河原で手づかみの立ち食いをしたのです。
 すると、五島先生のおっしゃるとおり、「あら、前に食べていたデパートで買った麦代餅より、やっぱり本店のは美味しい」と思わず口にしていたのでした。
 餅にかけられた香ばしいきな粉の香りとともに、もっちりとした厚みのある餅がじつにみずみずしく、その中に包まれた粒餡は、小豆の味と甘みの絶妙のバランスで、口中で餅と一体となるのです。
 それ以来、毎年このスクーリングでの恒例の「おやつ」となって、学生の皆さんと一緒に河原で頬張ることになってしまいました。
 その美味しさの秘密の本当の意味は、じつは本企画のために今回お店に伺ってお話を聞いて初めて知ることになったのですが、それは後ほどに譲ることにいたします。

 
 
ここではもう少しお祭りを追いかけてまいりましょう。

 6基が全て揃いますと、神官や祭の関係者の方々によって、河原祭祀が行われます。ここで神饌を供されますが、はるばるの旅にお出になられた神々に、お昼の食事を差し上げる意味合いがあると、五島先生よりお教えいただきましたが、神々より先に、とっくに麦代餅を平らげての参列に、毎年いささか気の引ける思いも持ちながら、祝詞に頭を垂れております。

6基の神輿が並べられて河原祭祀が始まる

 祭祀が終わると、神輿がそれぞれの御旅所を目指して出立していきます。西七条御旅所には、四之社(しのしゃ)、宗像(むなかた)社、櫟谷(いちいだに)社、大宮社と一番多くの神輿が入りますが、郡衣手(こおりころもで)神社には郡の神輿、そして三之宮神社には川勝寺(せんしょうじ)の神輿が分かれて入ります。
 それぞれの御旅所の地域に入ると人力で神輿を舁くのですが、それまでは台車に乗せて引いていきます。しかし、一番河原に近い地域を御旅所の地元とする川勝寺の神輿は、河原を出てから昔ながらの旧道を七条通りへと進み、三之宮神社に入る間、ほとんどの行程を人力で舁き続けます。
 スクーリングでは、毎年この川勝寺の神輿の前後を、皆でついていくことにしていますが、旧道に入った途端、驚くほど昔ながらの祭の風景が現れます。 
 京都の大きな祭がほとんど、警察の警護の中で沿道のロープなどの外から見物するような状況であるのは、観光化していく祭の安全に配慮する必要があるためとはわかっていますが、祭の当事者の本当に近くを一緒に歩き、のどやかに休み休みに進む神輿の進行の中で、祭のお役を務める方々とも、ときおり直接お話をする機会もあったりするこの道中を、私はこよなく愛しています。

旧道を行く川勝寺の神輿
神輿への振る舞いを準備する人々

 「また、来てるの?今年は少し遅れてるさかい、5時までに三之宮にはつけへんかもしれへんよ」など、例年現れる私どもの顔を覚えてくださっている方に、お声をかけていただいたり、スクーリングの授業進行のことにまで、ご心配いただいたり、さらには驚くことに、学生が祭の聞き取りをしているときに、祭の扇や手ぬぐいを頂戴するということさえあるのです。

 そして沿道では、神輿が近づくと一家総出で門(かど)に出て神輿を迎え、中には柏手を打たれる方のお姿も目にします。さらには、神輿を舁く男衆への振る舞いの飲み物を用意しているところは、数カ所に及びます。地域の方々が神々を迎えるための祭りを、心を込めてともに支え、またそのハレの日の喜びを共有されている和やかな場面を見るたびに、祭りの原点を感じさせていただくのです。 

三之宮神社に入る川勝寺の神輿
三之宮神社で地元の方に祭のお話を聞き取る

 現在、左京区でマンション暮らしをしている私にとって、地元との結びつきが希薄になっているのは、言うまでもありませんが、大都市では、今や普通のこととも言えるでしょう。

 京都の街に、こうした地元の強い結びつきがまだ濃厚に息づいていることを知るにつけ、どうか残り続けて欲しいと無責任に願ってしまうのですが、じつは今回、中村軒で、五代目の中村亮太さんから、ほんとうに地元とともにあることの重さをひしと感じるようなお話を聞く経験をしたのです。

 
 
麦代餅を取材させていただいた時、まず、そのいわれをご解説いただきました。中村軒は、明治16年(1883)創業ですが、この地域でその頃、麦代餅を作っていた店は、ほかにも2、3軒あったということです。

 桂は、今でこそ住宅地となっていますが、当時は田畑が広がる農村地帯で、そこで働く農家の人々は、春先から農繁期に入ります。朝から晩まで働きづめの重労働に、お十時、お八つといった午前、午後の間食は、欠かせないものであったようです。この時、注文に応じて田畑に配達されたのが、この餅菓子だったと言います。仕事の合間に、手で食べ易いように作られたもので、今の大きさより1割くらいはさらに大きなものだったそうです。
 そして、田植えも終期を迎える半夏生(はんげしょう)の頃、そのお代をまとめて麦と交換したことから「麦代餅」の名がついたと言われます。今では中村軒1軒のみが麦代餅を作っているのですが、その美味しさゆえに、デパートで大々的に取り上げられ、盛んに販売されるようになっていったのです。ちょうど母が買い求めていたのが、そのデパートに出された麦代餅だったわけです。


中村軒店先

奥座敷で麦代餅を頂くこともできます
お店で頂く麦代餅

 ところが、五代目が驚くべきことをお話しし出されました。
 「私が、外の修行から戻りましてから、皆で相談いたしまして、機械化にして販路を広げるのではなく、手作りでつくれる範囲内での商いを保つことにしました」

「かつてはデパートにブースを置いていたのですが、それも引きまして規模を縮小しました。そして餡を、竃(かまど)のくぬぎの薪の火で炊く、元のやり方に戻したんです。やはり、これが一番美味しい餡を作る製法やと思います」
 機械化、合理化、大量生産が当然のような現代に、まるで逆行するこのような企業理念が存在すること自体が、私には思いもよらないことでした。

五代目の中村亮太さん
竈とくぬぎの薪
竈の火
竈に銅鍋をかけて餡を炊く

 「うちの餅には、砂糖を混ぜません。ええ餅米を使うと、自然の甘みがでるさかい、それを口に含んで噛んでもらううちに美味しいとおもてもらえるように。そのせいで、餅は時間が経つと固くなります。中の餡の糖分に餅の水分が取られてしまうんです。そやからギリギリまで餡を包まへんのです」

 こうした製法を守ることは、毎日、大量に作ってデパートのブースで販売するという業態とは、確かに相容れにくいということは理解できるのですが、それでもこの決断は、たいへんなことであったはずです。そうお尋ねすると、五代目はさらりと、お答えになりました。
 「うちのような地元に育ててもろうた生菓子屋は、地元の方に出来たてのものを食べていただいて、美味しいと、変わらん味やというてもらうことが、一番大切やと思うてます」 
 地元の田畑に麦代餅を届けるという慣いはなくなった今、それでも家業の心を守り続けるこのお店と、それを支える地元、京都、桂の底力を、あらためて感じいったのでした。

御菓子司 中村軒

住所 京都市西京区桂浅原町61
電話番号 075-381-2650
営業時間 7:30~18:00 / 茶店 9:30~18:00 (ラストオーダー17:45)
販売期間 通年
定休日 毎週水曜(祝日は営業)
価格 290円(税込)

http://www.nakamuraken.co.jp/

 

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  • 栗本 徳子Noriko Kurimoto

    1979年、同志社大学文学部文化学科卒業。1980年より3年間、社団法人 日本図案化協会 日図デザイン博物館学芸員として勤務。『フランス染織文化展 ―ミュルーズ染織美術館コレクション―』(1981年)などを担当。1985年、同志社大学文学研究科博士課程前期修了。1988年、同博士課程後期単位修得退学。1998年より京都芸術大学教員。著書に『文化史学の挑戦』(思文閣出版、2005年)(共著)、『日本思想史辞典』(山川出版、2009年)(共著)、『日本の芸術史 造形篇1 信仰、自然との関わりの中で』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)、『日本の芸術史 造形篇2 飾りと遊びの豊かなかたち』(藝術学舎、2013年)(栗本徳子編)など。

  • 高橋 保世Yasuyo Takahashi

    1996年山口県生まれ。2018年京都造形芸術大学美術工芸学科 現代美術・写真コース卒業後、京都芸術大学臨時職員として勤務。その傍らフリーカメラマンとして活動中。

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